クロノスタシス 陽はとうに暮れていた。それどころか、もうあと一時間もしないうちに日付を跨ごうとすらしていた。さっさと帰宅してしかるべきであるが、頭上からの気配がそれを妨げた。
明日は一応休日であるし、遠回りでもまぁ歩けないことはない。自宅を知られるよりは幾分かマシである。
ビルを出てすぐにこうした結論を出した七海は、天からの視線に気付かぬふりをして、駅に向けて重い足を動かした。
天の人は七海を追う。自宅マンションの最寄り駅に着けば撒けているのではないかと期待したが、件の人はその程度で七海を見失う人ではなかった。彼の思惑など考えるだけ無駄と分かっていても、接触のタイミングを伺われている以上は、無視することも叶わない。七海は無性に酒が飲みたくなった。
ある程度人影の少ない通りに入ると、七海はコンビニに立ち寄った。350mlの缶ビールを一本買った。退店して、またしばらく歩き、自分たち以外の他人の姿が消えたことを確認すると、初めて天を振り仰いだ。
七海の仕草を合図に、天上に浮遊していた五条は音もなく七海の前に降り立った。
「いつから気付いてた?」
「気付かせるためにわざと気配を隠していなかったのでしょう」
「そこまで分かってれば上等」
何が上等なのだろうか。戦士としての勘の話であれば、七海にはもう不必要な機能である。
七海はむしろ、すぐにでも勘を鈍らせてしまいたかった。愚鈍に慣れれば、あの日常的な非日常のことを過去の思い出として処理できると思っていた。しかし、非日常を捨てたからといって、他人に見えないものが見えてしまう体質が変わるはずもなく、穏やかな生活の中に潜む呪霊の存在は、七海のささやかな願いを容易くへし折ってしまう。捨て置けば良いだけの低級呪霊を見過ごすことが出来ず、人知れず祓ったばかりに不審者扱いされることもしばしばだった。七海には、呪術の世界から逃げたくせに、チープな正義感のために、求める日常に染まりきれない自身が、酷く滑稽である自覚があった。
七海のそんな心情を知ってか知らずか、呪術界を去った七海に、五条は定期的に連絡を寄越した。出戻りを誘われることはないが、大したことでもない連絡ばかりを寄越してくるため、七海は五条に自分の連絡先を削除するように頼まなかったことを後悔した。
「ん?どうしたの七海?怒ってる?」
「いえ。なぜここが分かったのかと思っただけです」
「たまたまだよ。近くで仕事があったんだけど、すぐに終わっちゃったから夜の散歩してたの。そんでお前を見つけただけ」
「空中散歩なんて、人目に触れたらどうするつもりですか」
「バレないよ。みんな上なんか見ないから」
雲のおかげで月明かりも隠れてるし。暗闇を見上げた五条はそこで思い出したように「久しぶり」と七海に微笑んだ。
しょっちゅう電話やメールを送られていたから、あまり久しく感じないと率直に返すと、「相変わらずだね」と五条は口を尖らせた。
七海の薄いリアクションに不服そうであるのに、よく回る舌は直接会っていないときと大差ない話題ばかりを口にする。七海は適当に相槌を打ちながら、缶ビールを飲み終えるまでは五条に付き合うことにした。散歩がてら飲み歩いていれば、そのうち五条も満足して七海のもとを去るだろう。そのことを想像すると、不思議と胸の辺りに少しの痛みを覚えた。
歩きながらプルタブに指を掛ける。狭い缶に閉じ込められていた気が、我先にと逃げる音がした。一口流し込めば、柔らかな苦味が五条と過ごすこのひとときを際立たせた。舌の上で溶ける泡が、胸の痛みを薄くしてくれた気がした。
「七海ってこの辺に住んでんの?」
「教えません」
「けち。仕事は楽しい?」
「楽しい仕事はありません」
「えー。じゃあやりがいは?」
「そんなものは求めていません」
「…スーパードライ」
五条の視線が七海の缶ビールに注がれていた。つまらない洒落に付き合ってやるほど、七海はお人好しではなかった。その後、五条が何を言おうとも、七海はまともな返事を返してやらなかった。
七海の返しがいよいよ素っ気なくなった頃、五条は話題の内容を七海の返事を必要としないものへと変えた。傍から見れば大きな声で独り言を言っているように見えるだろう。その内容は、最近の好みのスイーツの話であったり、高専のことであったりで、話を聞いていると学生時代の感覚が蘇ってくるようだった。
脳裏に浮かぶ情景は、学生らしいくだらない話で笑い合う五条や夏油や灰原や家入で、その記憶は七海の全身に甘さと苦さと眩さをもたらした。七海は「このままではいけない」と思った。
「五条さん」
「なに?」
声をかけたものの、七海に五条を黙らせる策があるわけではなかった。七海の手持ちといえば、飲みかけの缶ビールと仕事鞄くらいのものである。
話を遮ったわりに何も発さない七海に、五条が怪訝な表情を示すと
「喉、渇きませんか?」
咄嗟に差し出した缶ビールと七海自身を交互に見遣ってから、五条は「じゃあちょっとだけ」と言って缶に口を付けた。一口だけ嚥下した五条は、
「ありがと…」
と言って七海に缶を返した。渋い顔をしていた。
不意に、薄暗い道が明るくなった。
雲が晴れていた。見上げると、都会の大袈裟な灯りのない道で光の塊が浮かんでいた。
「今日は月が綺麗だね」
「あなたの目のほうが綺麗ですよ」
五条の言葉に七海はほとんど無意識に返していた。それまで饒舌だった五条が沈黙した。
そういえば、この人は自分が褒めるようなことを言うと、途端に静かになってしまうのだった。学生時代の五条の奇妙な特性を思い出して、五条を早く黙らせなくては、存在しないはずの後悔が芽生えてしまう気がしていた七海は、僥倖だと思った。
二人は沈黙していた。缶ビールの中身はとうに半分を切っていた。
もうそろそろ五条の気も済んだ頃だろう。非日常の象徴である彼が去れば、自分はまた日常を再開できる。それは彼と再会したときから望んでいたことのはずなのに、五条が自分の前から去ってしまうことが、七海には信じられないことのようにも思えた。またジクジクとした痛みが生じた。
ふと、五条の足音が聞こえないことに気づいた。まさか、何も言わずに去ってしまったのかと慌てて振り返ると、五条は街灯の柱に寄り掛かっていた。
「どうしたんですか?五条さん?」
七海が声を掛けると、五条は力なく笑って「酔った」と答えた。
「……は?」
「だから、酔っちゃったの」
「ビール一口で?」
「僕めちゃくちゃ下戸なの。むしろお酒嫌い」
七海は静かに喫驚した。あの最強の五条が、たかが一口のビールで酩酊するとは。にわかには信じられなかったが、嘘を吐いている素振りはなく、何より白い肌が火傷をしたように赤くなっていた。
「なんで飲んだんですか?下戸ならそうと言ってくれれば良かったのに」
「…七海のなら」
「はい?」
「七海がくれるものなら、だいじょうぶかなって」
七海は五条に後ろめたさを抱いていた。お互いに無二の親友を失ったもの同士、七海は五条の侘しさを理解出来ていた。しかし、それでも、誰よりも美しい精神を持った者が病み、倒れ、人であれ呪霊であれ、利己的で唯我独尊の気がある者ほど生き延びる世界に納得出来なかった。死んだ友の仇を取ろうにも、自分にそんな力はなく、代わりに七海の望みを叶えてくれた強い人を支えようにも、その人の隣に見合った強さを持っているわけでもない。呪術師の世界における自身の存在意義が日増しに揺らぎ、見出せなくなっていた。
七海は強者の孤独を見て見ぬふりをして逃げた。呪術界に見切りを付けたようでいて、その実、自らの弱さから逃げた。そんな薄情な自分は見限られていても仕方がないのに、最強の五条は、いまだに七海を信頼してくれている。
「……歩けますか?」
「ちょっと厳しいかも」
「そうですか」
七海は屈んで五条に背を向けた。五条は不思議そうにその背中をぼんやりと眺めている。
「なにしてんの?」
「すぐ近くに公園があるので、そこまで背負っていきます」
「えー…」
「嫌なら横抱きにしますが」
「失礼します」
七海の背にずしりとした重量が乗った。両腕が首に回される。背負った五条は思っていたより軽くて、たまに触れる肌は熱くて、少し汗ばんでいた。七海は出来るだけ揺らしてしまわないように歩いた。
公園は世間と同じく静まりかえっていた。宵闇の中に、ライトに照らされたベンチがあった。そこに五条を座らせて、七海は自販機で水を買いに行った。チラリと腕時計を見ると、二つの針はそれぞれ五条の生まれた月日と同じ数字を指していた。学生時代に五条が強請ったばかりに開かれた誕生日パーティーの記憶が思い起こされて、七海は逃げるように自販機を後にした。
公園のライトの下で、五条の髪が揺れていた。連なって影も揺れている。夢を見ているような心地になるのは、アルコールのせいなのか、五条が弱ってしまっているせいなのか。七海には判然としなかった。
捨てた世界の象徴とも呼べる人が、七海の渡したペットボトルに口を付けて、礼を言って薄く笑った。
「少し休みましょう」
そう言って隣に腰掛けると、五条は黙って頷いた。
ベンチに脱力した五条が目隠しを解いた。浅く伏せられた青い目は、あの頃のままに透き通っている。教職に就いたという五条の横顔は、精悍であるのにどこかあどけなさも残していて、学生時代から時が止まっているようだった。対して七海は、数年の間に老けてしまって、それでも心は青い春に囚われたままだった。
微かな夜風が、再び五条の髪を撫でた。五条はうっとりと目を閉じている。いつも煩わしさばかりを与えてくる相手の思いがけない静けさに、七海は気持ちが落ち着かなかった。
疲労が常より酒の回りを早めているせいか。しかしこの鼓動は、アルコールだけがもたらしているものではないのかもしれない。七海は明確な答えが見つからないまま、ぼんやりと胸の高鳴りを受け入れた。
たびたび水を含むも、五条の酔いはなかなか醒めなかった。七海の缶ビールはとうに空になっていたが、五条の体調が回復するまでは傍にいることにした。
七海には、ずっと五条に聞くことが出来ないでいる質問があった。弱っている今の五条であれば、はぐらかすことなく答えてくれる気がした。
「私が高専を去る準備をしている間、あなたはどんな気持ちでいたんですか?」
五条は友情の挫折を経て、前を向く道を選んだ。七海は力の挫折を経て、道を諦めることを選んだ。前線に立つことが出来る唯一の後輩を失う現実を、彼はその澄んだ眼でどう捉えていたのだろうか。
五条はチラリと横目で七海を見た。断罪の声を待つ七海自身の畏れを見透かされている心地がした。
五条は前を向いたまま
「七海が死ぬよりは良いと思ったよ」
と言った。静かだが、芯の通った声だった。七海は肺を絞られる感覚に襲われた。
「私が死んだら、五条さんは悲しんでくれるんですか?」
努めて無感情に投げかけた問いに、五条は軽々と「当たり前でしょ」と返した。
「僕だって…」
続く言葉は、五条の口内でか細くなって消えた。七海が聞き返すよりも早く、今度は五条が
「僕が死んだら、七海は迎えにきてくれる?」
と問うた。
「…あなたは簡単に死なないでしょう」
「もしもだよ。傑も居れば良いな」
「その仮定だと、私も夏油さんもあなたより先に死んでることになりませんか」
「そりゃあ僕は最強だからね。下手したら誰よりも長生きしちゃうよ。…だから、生きてる間は皆んなととことん楽しんでいたいし、そのためにも簡単に死んでほしくないんだ」
だから七海の意思を尊重しているのだろう。しかし、高専を去った七海を忘れることも放っておくことも出来ない。
なんて寂しがり屋でいじらしい人なのだろうか。五条の心の柔いところに触れて、七海は彼を抱き締めてやりたい衝動に駆られた。その衝動に身を任せられない関係であることが、酷くもどかしかった。
だから七海は、抱き締める代わりに
「きっと、私も夏油さんも、家入さんも、学長も、伊地知くんや灰原だって、あなたを迎えに行きますよ」
と、五条の欲しい言葉をありのままに贈った。
「天内たちも居るかな」
「あなたが望めば誰だって駆けつけますよ」
手放しに肯定されて満足したのか、五条の笑みに不遜の色が滲みはじめた。まだ頬は赤らんでいるが、いくらか酔いも醒めてきたらしかった。
「ねぇ、七海んちに泊まって良い?」
七海は胸の奥で燻っていた鈍痛が消失していくのを感じた。最初からこの言葉を望んでいたのだと、今さらながら気付いた。
しかし、それを悟られるのが妙に気恥ずかしくて、わざと溜め息を吐きながら「酔っ払いを放っておくわけにもいかないから仕方ない」と前置いてから、
「狭いですよ?」
と言った。
「良いじゃん」
短く返すと、五条は七海の手を引いて立ち上がった。何が「良い」のか分からないが、五条の手は大人の形をしているくせに子供のような体温をしていて、七海にはそれがとても心地良かった。
七海の言う通り、平均よりもずっと上背のある男二人が寛ぐには部屋は手狭だった。しかし、ただの先輩と後輩にしては近すぎる距離を五条が気にしている風もなく、むしろ楽しそうに瞳を輝かせていた。就寝の頃になって、五条に無理矢理ベッドに引き込まれた七海は、当然ベッドを抜け出すべく抵抗をした。
「家主が床ってわけにもいかないでしょうが」
「その家主が床で良いって言ってるんです」
「お仕事帰りじゃない」
「それはあなたもでしょう」
「良いじゃん!こんなにベッドは広いんだから!」
多忙の中でもせめて睡眠の質を確保しようと購入したベッドは、確かに五条の言う通りに余裕はある。しかし、それは一人で寝る分には充分なゆとりであって、大男が二人並んで寝るには明らかに窮屈だった。
それを主張すると、五条は「だからこうすりゃ良いでしょ」と言って、七海をベッドに寝かせて、自らの体を七海の隣に横たえた。体は隙間なく密着させているため、辛うじて収まっている。
「ね?」
「『はい、そうですね』とは言いたくないですが、あなたが狭いのを良いと言った意味は、何となく分かってきました」
「なんで?」
「あなた、私のことが好きですよね?」
五条の目が瞬いた。瞳が薄く潤んでいるのはアルコールの名残ではない、と思いたい自分が、無性に悔しく感じられた。
「好きでもない相手にベッドの中でまで接触しようとする人ではないでしょう」
無言の五条に発言の根拠を示すと、五条は七海の胸に顔を埋めた。
不意の行動に七海が動揺していると、
「七海の心臓すんごいバクバクいってる」
秘密を見つけた悪戯っ子のように笑う五条の吐息は、七海の聴覚に適した温かさで、七海は全能の中に居るような錯覚を覚えた。
くだらないこだわりが取り払われた七海には全てが瑣末なことに思えて、衝動のままに五条の体を腕に包んだ。五条の体が強張った。彼は今、どんな顔をしているのだろうか。たまに褒めた時のように、ただでさえ大きな目をさらに見開いて、泣き笑いのような表情を浮かべているのだろうか。
「…どしたの、七海?」
「床で寝るのは諦めたので、せいぜい抱き枕にでもなってもらおうかと」
「……贅沢な奴」
呟きを無視して五条の背を撫でると、強張っていた体は次第に弛緩していった。やがて五条の全てがベッドに預けられた。腕の中の寝顔を眺めながら、七海は今の自分の日常を思った。
生き甲斐もやり甲斐も毛ほども感じられない。しかし自らの命も誰かの命が脅かされることもない。それなりに生きて、それなりに死ぬことが出来る。そんな生活を続けたとしても、五条はきっと七海のことを忘れないし、今までのようにしょうもない連絡を寄越してくれるだろう。
しかし、何となく、今日を最後に五条はもう二度と七海の前に現れない気がした。
決断したわけではない。選択肢の一つとして浮上しただけだ。誰にともなく心中で言い訳をする。
五条の寝息が深いことを確認してから、七海は
「もし、そちらに戻ることがあれば、真っ先にあなたに伝えます」
と呟いた。
端末を操作して目当ての人をタップした。数コールで応答したその人は「どしたの?」と尋ねながらも、こちらが要件を言い終えるより早く、堪えきれなかった笑い声を返した。
そもそもこちらから連絡を取るようなことは一切していなかったため、液晶画面でこちらの名前を確認した瞬間から、相手には察しがついていたのだろう。目隠しをしていても隠しきれないニヤニヤと歪む目付きが、ありありと想像出来た。アレにうざったく絡まれると思うと、少し肩が重くなった。裏腹に心は軽い。
通話を終えた七海の腕時計は、休むことなく時を刻んでいる。見上げた空は思っていたより高く、五条の好きそうなスイーツを持って行ってやろうと思った。