さとるん風邪を引くのまき。
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七海は電話回線越しの
「今日ちょっと風邪っぽいから、オマエんち行くのやめとくね」
といういつも通りのお軽い調子で告げられた断り文句に、眉間の皺を深くした。
七海は実は、五条のプライベートを知らない。今現在、普段はどこで寝泊りしているのかすら知らない。実家なのか、それとも高専に居場所を作っているのか、とっくに一人で暮らしているのか、または実家から付き人を連れて複数人で居を構えているのか、そんなことも知らない。
だからどんな生活を送っているのかも知らないし、普段の衣服や食事をどのようにこなしているのかも知らない。
ただ、大体はわかっていることはある。
七海は、不機嫌な、苛立たしさを隠さない声で、五条に返事をする。
「駄目です。来てください」
「えー、オマエ、体調悪い僕にデートを強要すんの?」
「そうです。アナタ、どうせ実家だろうと他のどこだろうと、どうせ一人なんでしょう? 面倒見てあげますから、さっさとここに来なさい」
電話の向こう、少しの沈黙があった。しばらくの後、拗ねたような小声で
「わかったよ」
と言って、切れた。
切れたスマホを置いて、七海はエアコンの設定温度を上げた。温風が吹き出してくる。
七海は一人暮らしをして長いものだから部屋にはそれなりに医薬品も看病道具も揃っている。冷凍庫の中のアイス枕と保冷剤、氷を確認し、体温計を出しておく。経口補水液なんて上等なものはないけれど、輸液点滴とほぼ同成分のスポーツ飲料なら常備している。
間もなく現れた五条は、外気の寒さに鼻の頭を赤くしてはいたけれど、顔色はむしろ青ざめて見えた。
ところがそれは最初だけで、ひとまず外出着から部屋着に着替えさせて体温を測ろうとしたところ、寒い寒いと言い出す。
部屋の温度は十分高いはずなのでさっさとベッドに押し込み、熱を測る。測るたびに体温が上がる。寒いと震えている。
寒気がするなら単なる風邪とは違いインフルエンザだろうかと、七海は家入に電話をしようとした。もし予想通りなら抗ウイルス薬の投与は早ければ早いほど良いからだ。
ところが布団に包まっている五条は
「だいじょーぶ、朝には治るから」
とそれを止める。
「疲れたまると熱出んの」
七海はそれをひとまず信じることにした。体温計の数字を確認し、一定より上がれば有無を言わさず家入かもしくは一般の医療機関に頼ることにするが、今のところはただ、疲労にしては少し熱が高いくらいだからだ。
「寒いのなら、何か温まるものでも作ってきましょうか」
「うーん、……ココア」
「食欲はあるんですね」
七海はキッチンへ向かう。湯を沸かし、自分では滅多に口にしないのに置いてあるココアの粉をマグカップの中で溶かす。甘ったるい香りが湯気と共に立ち上る。温まるかもしれないからと生姜パウダーも少し入れて、寝室に戻った。
戻って、七海は、
「……何、浮いてるんですか」
と平坦にツッコミを入れながら、ナイトテーブルにマグカップを置いた。
白くてもふもふの布団ごと、部屋の真ん中に漂っていた五条は、
「……へ?」
と間抜けな声を上げる。
その声を聞いて、七海は、
「寝てたんですか」
と察する。
まだふよふよと浮いている長い体をベッドの上に戻そうとして、七海の手は、無限に触れた。見れば、布団だって五条の体にくっついてはいなかった。
五条は、まだ半分寝ているような顔をしている。半目で、どこを見ているのかわからないぼんやりとした双眸、来たときと違って顔は赤く、軽く息を乱している。
触れられないけれど無限ごと強引にベッドの上に引き摺り下ろして、
「寝るならココアはもう要りませんね?」
と尋ねたら、
「いる」
と予想外の返事だ。
それから
「あー……」
と、今更自分が無下限術式を発動させていたことに気付いたようで、解いて、だから七海は五条を抱き起こすことができた。
けれど手にマグカップを握らそうとしたのは失敗した。
持たせようとしたマグカップは、五条が指を伸ばすと、五条とは反対側にすっ飛んでいった。そこそこ頑丈にできているものなのに、壁にぶち当たって重い音と、割れる軽い音が同時、それから液体が床に撒かれる無残な音が続く。
「……あー」
七海は振り返らなかったけれど、五条はその惨劇の一部始終を目撃していたので、目を瞠って、マグカップのかけらが落ちているらしい辺りを凝視している。動揺していることが抱いた腕から伝わってくる。
どんと突き飛ばされるような衝撃で、五条との距離が無理やりに開く。布団も再び無限の上に乗るからふわふわ浮いて、それを見下ろした五条もまたふわふわ浮き出す。
七海が手を伸ばして掴もうとした。すると今度は突風のようなものが部屋中を走り、調度品やカーテンをめちゃくちゃにした。部屋の中で台風でも起こったようなひどい状況だ。
「あーもー、だからさぁ……」
五条がくしゃくしゃと顔をしかめるので、七海は再度手を伸ばして掴んだ。今度は掴めた。
やっぱり引っ張り下ろした。布団に包み、その上からしっかりと抱きしめてごろりと寝転がった。その上で、
「重しになっておきますよ」
と共寝を宣言する。
五条は目を閉じるどころかやっぱり目を瞠った。七海の顔をじっと見つめる。
「七海、好き」
「そりゃどうも。さっさと寝てください」
「ん」
今日は素直に目を閉じる。その額はすっかり汗をかいていて、前髪が束になって張り付いている。早い呼吸でうっすらくちびるを開いて、気怠げだ。
「……アニメではほら、昔から美少女は浮くものなんで」
「アナタ美少女じゃないでしょう」
「僕レベルなら似たようなもんじゃない? あと、ココア、ごめん」
「元気になったらアナタに掃除してもらうので気にしなくていいですよ。いいからもう寝なさい」
七海としてはさっさと寝てもらったほうが呪力の暴走も、せいぜいまた無限に突き飛ばされるか、浮き始めるのを押さえつけるかくらいで済みそうなので、本心からもう寝てもらいたかった。
ただ五条がもぞもぞと、包んだ布団から手を出して、その手で一番手近の七海の服をつかんで、
「七海、ありがとな」
と目を閉じたままそう伝えてきた。それきり黙って、呼吸をし続ける。苦しそうな熱い息を吐いている。汗がひと筋、額から瞼を伝って、目尻から落ちた。
七海をつかんでいる手はしっかり握られている。と思ったら、気怠そうに指が解けて、腕がもう少し伸ばされて、引っ張り寄せるようにしてまたつかみなおしてきた。
それを眺めて、まぁ悪くはないなと、そう、ついつい、これは達成感だろうか、やけに生ぬるい充足を感じるのだ。病人を前に、不謹慎ながらも。