よろよろ歩いて来た七海が、顔をあげて「五条さん……」と一言つぶやいたきり固まってしまった。五条は、軽く首を傾げ、七海の前でパッパッと片手を振った。夕方の高専は生徒も下校して人は少ないが、廊下で突っ立っていてはさすがに邪魔だろう。
「どしたの、七海。疲れてんの? 任務明け?」
「…………」
「そういや出張って言ってたっけ。また連徹したの? オマエもアラサーなんだからそろそろ無茶すんなよ」
「………………」
「……聞いてる? 変な呪いでも憑いて……ないな。えー、じゃあ硝子の分野?」
「……………………」
「いま硝子のとこ連れてってやるか……ら?」
がしっ、と言葉の途中で素早く動いた七海の両手に胸筋を掴まれて、今度は五条が固まった。
「なにやってんの」と責める暇もなく手近のトイレへと連れ込まれ、背後からぎゅうと抱きしめられる。そして、そのまま。
「えっ……ちょっ、ちょっと、ななみ?!」
胸を揉まれた。服の上から、両手で、ぐいぐいと。女性の胸を揉むように、五条の胸筋を。
「チッ、硬い……」
「いきなり人の胸もんどいてそれ?! 文句言うなら離せば良くない?!」
「少し黙っててもらえますか」
「彼氏が横暴!」
とりあえず口を噤み、なんだこの状況、と思う。
七海は五条の肩口に背後から顔を埋め、ひたすら胸を揉み続けている。興奮している様子もなく、ほぼ無言だ。首筋に吐息が触れる。上着のジッパーがいつの間にか下されている。前をはだけられて、インナーの上に七海の両手が移る。夏物のぴったりした黒のインナーは生地が薄く、上着の上からよりよほど手の温度が感じられる。
「五条さん……」
「……っ、」
耳の後ろで名前を呼ばれ、大きな手に胸筋を包み込まれて、なぜか、息が跳ねた。七海の指は、揉むだけのものから捏ねるような動きに変わっている。執拗に筋肉を揉まれて、しかし、痛くはないし、嫌でもない。かといって胸に性感帯などないから気持ちよくもない、と思っていたのに、なぜか少しずつ息があがる。
背中に七海の胸が密着している。任務明けらしくいつものベージュのスーツなので、かっちりした生地のおうとつが分かる。ゆっくりとした呼吸がうなじにあたる。抱きしめる腕の力強さと、指先のあたたかさが伝わる。
「ななみ……っ、」
膝が、かくんと揺れた。気づけば、五条は、目の前の洗面台に腕をついていた。黒い目隠しは文句を言われた時にずらしかけたまま額に引っかかっているが、今はこれ以上どうしようもない。
崩れた背中に七海が覆いかぶさってくる。ぴったりくっつかれて、互いの体温があがる。七海の体臭が香る。いつもつけている香水のラストノート、汗の混じった匂いに、体の記憶が揺り起こされる。肌が、ふつふつと刺激を欲しがる。五条は、焦って、体を捻って、七海の腕を片手で掴んだ。
「……オマエ、いい加減にしろよ……! も、離せ、」
「すみませんが、もう少し、」
「僕のおっぱい揉んだって、楽しく、ないだろ、オマエと違って、硬いし、うすいし、」
七海の胸筋はふわふわだ。過剰に脂肪がついているわけでもないのに揉めば柔らかく形を変え、疲れた時など何時間でも揉んでいられる。五条も胸筋はある方だが、極上の七海の胸筋に比べれば揉みごこちは劣るだろう。
文句を言う五条の背後で、七海が笑う気配がした。
「そんなことないですよ。最初は硬くても、揉めばやわらかくなるいいおっぱいです。私の手にちょうどいい」
「……っ、なに、いって、」
視線を落とすと、五条の胸を揉む七海の指は、最初の頃より確かにインナーの生地に沈んでいるように見えた。親指と人差し指が、ふと、何かを探り当てて、きゅっと摘む。痛いほどの刺激に腰が跳ねる。
「ここ、硬くなってきましたね」
「ン、ンッ……!」
爪の先で乳首を潰されて、あがりそうになった声を噛み殺した。電流のような快感が背骨を走り、しかし、七海の指はそれきりそこを責めず、インナーに浮いて見える乳首は放置されて、また胸筋だけ揉まれ続けた。ただの筋肉だったはずの胸は揉まれるほど敏感になって、今や、指でこねられるだけで、じわ、と甘く痺れがたまる。何かの回路が誤作動を起こしているとしか思えない。
太腿の裏にあたる七海の股間は、全く兆していない。けれど、凶器のようなそれに体の中を暴かれる快感を知っている。きゅう、と腹の奥が疼く。
「腰、揺れてますよ。気持ちいいんですか」
「……言う、な、……」
笑い混じりの声に腹が立ったが、それどころではなかった。息を荒げたまま五条が黙っていると、上着の襟元が引き下げられて、うなじに、軽く唇が触れた。やわらかいキスを落とされて、舐められて、それだけの刺激が、ふるえるほど気持ちがいい。
七海の両手が、一度下がって、インナーの裾から侵入してくる。直接肌に触れ、ぐい、と揉まれて、息が詰まる。五条は、もう、抵抗の言葉もなく、洗面台に肘をついたまま、黙っている。背後から抱きしめられ、性感帯でもなんでもない胸筋を揉まれているだけで、胸から腹、腰から足先まで、じわじわと快感に侵されて、気持ちよくて、混乱して、いっそ泣きたいと思う。なんだこの状況。泣きたい。
五条さん、と呼ばれて、無意識に首を振った。うなじにまたキスをされた。胸を揉む指はじっとして、ただ、抱き締められた。五条だけ、息を荒げて、膝を震わせている。そうして何秒が経ったのか、七海の体が、ふいに離れた。五条は、その場に座りこまないのが精一杯だった。
「……すみませんでした。ちょっと……疲れてまして」
「うん……」
「朝からずっと、アナタを抱き締めて、揉みたいと思っていたので……おかげで、癒されました」
よくよく考えれば非常に著しく尋常でなく大変にかわいいことを言われたが、その時の五条は、へー、そう、良かったね、以外に感想がなかった。それよりも、と七海の袖を引く。
「……なぁ、夜、空いてる?」
胸を揉まれるだけでここまで昂ぶらされてしまったことにはなかなかに葛藤があるが、今はそれよりも急激にこみ上げた性欲をなんとかしたかった。即ち、原因である恋人とどろどろのセックスがしたい。できれば今すぐしたいくらいで、七海の予定次第ではこのまま部屋にもつれ込んでもいいと思ったが、しかし。
「無理ですね。これからまた任務なので」
「……は?」
「三日の出張です。場合によってはそのまま海外なので、しばらく帰れないと思います」
呆然とする五条をしっかり立たせ、七海の腕が衣服を整える。インナーをきちんとさげて、肘の近くまで落ちていた上着を着せて、ジッパーを上まであげる。額にひっかかったままだった目隠しは、逆に取られてしまった。するりと抜けたそれを七海の手のひらが握り込む。
「お守りがわりに借りて行っていいですか」
「え……あ……ウン……」
「ここでアナタに会えてよかった。帰る前には連絡します。では」
肩の上に手を置かれ、では、と同時に頬にキスをされた。トイレから颯爽と出て行く七海の背中を見送って、五条は、その場にずるずると座り込みそうになった。トイレなので我慢して屈み込むだけにして、代わりのように頭を抱える。
なんでオマエだけ癒されてんだよ、朝からずっと揉みたかったってなんだよ、おっぱい揉まれるだけでイキそうになった僕の立場はっていうか性欲は?!
罵声を浴びせるべき後輩兼恋人の姿は既になく、執拗に揉まれ続けて置き去りにされた五条の胸筋がじんと痛んだ。
五条は、『帰ってきたら覚えてろよ』とSNSを送るしかなく、その夜遅くに返ってきた『望むところです』の一言にまたもひとり悶える羽目になるのだった。
終わる