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報告書の提出などスマホがあればどこでもできる時代、わざわざ高専を訪れる理由など特にないはずだ。教師をやっている悟と違い、七海は。
年代ものの肘掛け椅子に深々と腰掛けて、皮張りの背凭れに身を埋め、ゆるやかに呼吸をしているのはどう見間違えようもなく七海建人だから、悟は立ち止まって、はてと首を傾げた。
高専にも一応は職員室もあるし、校長室もある。夜蛾との簡単な打ち合わせを口頭で済ませ、大人だらけの部屋から出て、長い廊下を歩き、これから子供たちばかりの教室へ向かうところだった。
平日の午前中にここで居眠り。いつもぴしりと着込んだスーツもよれかけて、例えばスラックスの裾の折り目がいつもより緩んで見える。普段なら神経質なほど綺麗に整えた髪も心持ち乱れているようだ。徹夜任務からただいま帰還、といったところだろう。
六眼で見れば体中に、術式を行使した痕跡、残穢。七海の呪力の色しか見えないから相手はかなりの格下、触れられることすらなく倒し切ったのだろう。だがこの疲労、数が多かったのか、面倒な術を使う相手だったのか。それとも、一晩でいくつもの任務を掛け持ちしたのか。
サングラスすら外さずに電池切れの七海の顔にそっと手を伸ばす。精神的に繊細な後輩を起こさぬように細心に、悟はサングラスをとってやる。カチャリとごくごく小さなパーツがこすれる音だけ聞こえて、サングラスは悟の手の中へ移動した。それをそのまま、また音を立てぬようにテーブルの上へ置く。
七海の呼吸の速さは変わっていない。起こさずに済んだのだろう。
元来、神経細やかな、いやストレスを溜めこみやすいタチの男、特に疲労で気が立っているときは小さな物音や気配ですら敏感に察知して目を覚ます。だから悟も、ノリや冗談は引っ込めて、少しでも眠れるようにと気遣いを見せたのだ。
しかしながらうまくいってしまった今となっては多少物足りない。
起こしたくない、ゆっくり休んでほしい気持ちと、いたずらしたい、構ってほしい気持ちで悟はしばらくその場で立ち尽くす。
思い悩んだ末の妥協点、キスの代わりに七海の、真横に伸びて動かない薄いくちびるを、指先でつついた。
それでにっこり満足して、悟は立ち去ろうとした。
けれど、引こうとした手は捕まえられて、
「……それだけですか」
と泥濘の疲労の色濃い、ほとんど吐息の低い声が漏れ聞こえた。肩越しに見下ろすと、隈の浮いて機嫌の悪そうな目が僅かに開いている。眉間は、眩しそうに眉を寄せたせいで皺だらけだ。倦怠感に溢れる乾いたくちびるが重いため息を吐く。
捕まえてきた手のひらは、眠っている人間の体温だ。指先まで温かくて、七海の手の中の悟の手に、じっとりと熱が籠る。
「……僕、これから授業……」
遠慮のない舌打ちが炸裂し、放り投げるように手を離される。
「後で思い知ってください」
「わっ、ななみ、こわーい」
「さっさと行ってくださいムカつきますから」
「えー、今の、僕なんか悪いことした?」
悟は腑に落ちなくて口を曲げたけれど、これ以上ウロチョロするとマジギレされそうだと危機管理能力に長けた懸命な判断をして、さっさとその場を辞す。いつも全国各地飛び回ってるせいでまともな授業も久しぶりなのだ。たまにはちゃんと先生らしいことをして、生徒のレベルアップを図りたい。思春期の少年少女の揺れがちな精神が悪い方に傾いてないかも見て確かめておきたい。何より、青春真っ只中の子供たちのあのキラキラした独特の空気に触れると、どうしても、とても励まされるのだ。
なのに悟は困ってしまう。
「うー、後っていつだよ具体的に言えよ、気になる〜!」
これから始める楽しい授業に集中したいのに、エッチなことを考えてしまいがちな脳みそに、ちょっと困っている。