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MOURNINGリップクリーム/キラ門 目の前の尖った下唇に指を押し当てる。この男の唇は薄く、それは舌や耳と同じで、どことなく頼りない。指先に少し力を入れると湿った粘膜が見え、放すとぺこんと上唇に被さるように戻った。半刻前までは必死に吸い付いて舌を捻じ込んでいた隙間も、仮寝から覚めたばかりの頭では乾燥ばかりが妙に気に掛かる。薄皮を剥いたら痛がるだろうか。意地悪をしたいような、怒られたくないような。寝こけている呑気な顔を眺めながら唇に触れる。薄くて柔らかくて、どことなく可愛い。冴えないジジイのくせに。唇の裏に走る細い血管に微かな欲情を覚えた頃、唸るように喉を鳴らしたので指を離した。片目が薄く開いてキラウㇱの顔を捉える。
「……何してんの……」
1273「……何してんの……」
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MOURNING夜 くだらない会話の一例/キラ門 それぞれの部屋に寝具はあるが、共寝する夜もそれなりにある。数ヶ月前に布団からベッドへ買い替えてからその頻度が上がった。新しいマットレスが気持ち良いだの睡眠時無呼吸症候群が心配だの色々と理由を並べているキラウㇱにも思うところがあってやっているのだと察しているので、門倉は特に何も言っていない。真夜中、いつも先に寝てしまう門倉のベッドの脇にキラウㇱがのそりと立つので、布団の端を捲り上げてやる。キラウㇱは身体を滑り込ませて、大抵の場合は門倉の首の下に腕を差し込み、頭を抱えるようにして眠る。これが六割くらいだ。門倉の腕の中に潜り込んで、脇の辺りに顔を押し付けて眠るのが三割。残りの一割は、ほとんど手も触れず、ただじっと門倉の眠る様子を眺めている。同居を決めた際に「眠っているのを起こしたくないから寝室は別々に」と言い出したのはキラウㇱの方だったので、その彼がこういう風にする事でしか片付けられない感情を持て余しているのならなんでも許してやりたかった。今夜は三割だ。門倉がしてやれることは少ない。精々キラウㇱのために布団の隙間を開けてやり、朝は何食わぬ顔をしてくだらない言葉のやりとりをするくらいだ。
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MOURNING愛しい老眼/キラ門 キラウㇱは甘える事を躊躇しない。さっぱりした性格でべたべたくっついているのを好むわけでもないが、根が素直な男なので甘えるのも上手だった。リズムの合わない生活の中で、例えば帰宅時に珍しく門倉がまだ起きていた時など、膝に跨り肩に額を擦り付けて、大抵は五分ほどで満足してあっさり離れていく。
その晩もそうだった。座椅子で本を読んでいた門倉の姿を見つけるなり近寄ってきて、手から本を引き抜き、代わりに膝に乗り上げた。抱えるように頭を引き寄せて、シャンプーの匂いしかしないはずの頭皮を嗅ぐ。門倉の老眼鏡がキラウㇱの胸に当たって音を立てた。キラウㇱの指先が耳の形をなぞりながら下りて、門倉の顎を持ち上げ、真正面から向き合う。老眼鏡の奥を右目、左目、また戻って右目、とじっくり観察し、微かに眉を寄せて遠くを眺め、また門倉の顔に目線を戻して、そこで何かに気が付いたようだった。「ちょっと貸せ」と老眼鏡を奪って自分の耳に掛ける。再度門倉の顔を覗き込んで、それからキラウㇱは、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
2701その晩もそうだった。座椅子で本を読んでいた門倉の姿を見つけるなり近寄ってきて、手から本を引き抜き、代わりに膝に乗り上げた。抱えるように頭を引き寄せて、シャンプーの匂いしかしないはずの頭皮を嗅ぐ。門倉の老眼鏡がキラウㇱの胸に当たって音を立てた。キラウㇱの指先が耳の形をなぞりながら下りて、門倉の顎を持ち上げ、真正面から向き合う。老眼鏡の奥を右目、左目、また戻って右目、とじっくり観察し、微かに眉を寄せて遠くを眺め、また門倉の顔に目線を戻して、そこで何かに気が付いたようだった。「ちょっと貸せ」と老眼鏡を奪って自分の耳に掛ける。再度門倉の顔を覗き込んで、それからキラウㇱは、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
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MOURNING結婚式の朝/キラ門「そろそろ出る時間だろ」
門倉が洗面所を覗き込んできたので、キラウㇱは慌てて整髪料を纏った手で前髪を掻き上げた。電球のすぐ下でまじまじ見ると瞼の上の日焼けの境目が目立つ気がしたが、いつもの鉢巻を着けていくのは場にふさわしくないと諦めている。昨晩のうちに眉は整えた。髭の剃り残しもない。目付きが悪く見えるのは元々だ。どうだ、と門倉を振り返るとひとつ頷いてくれたので良しとする。
スピーチが任されているわけでもないし、会費制なので財布への負担も少ない。新郎新婦を祝福し、料理を食べるだけの気軽なものだ。そもそもそういった席に呼んでもらえる事が嬉しいのだ。友人である新郎とは一時期疎遠になっていたが、店を構えてからは時々足を運んでくれるようになった。キラウㇱが忙しくしている日には門倉と言葉を交わしてる姿も見かけた事がある。理不尽だとわかっていながらも少し妬いたのだ。ちょうど門倉とキラウㇱが同居を始めたばかりの頃だったので、折に触れて思い出す。
1462門倉が洗面所を覗き込んできたので、キラウㇱは慌てて整髪料を纏った手で前髪を掻き上げた。電球のすぐ下でまじまじ見ると瞼の上の日焼けの境目が目立つ気がしたが、いつもの鉢巻を着けていくのは場にふさわしくないと諦めている。昨晩のうちに眉は整えた。髭の剃り残しもない。目付きが悪く見えるのは元々だ。どうだ、と門倉を振り返るとひとつ頷いてくれたので良しとする。
スピーチが任されているわけでもないし、会費制なので財布への負担も少ない。新郎新婦を祝福し、料理を食べるだけの気軽なものだ。そもそもそういった席に呼んでもらえる事が嬉しいのだ。友人である新郎とは一時期疎遠になっていたが、店を構えてからは時々足を運んでくれるようになった。キラウㇱが忙しくしている日には門倉と言葉を交わしてる姿も見かけた事がある。理不尽だとわかっていながらも少し妬いたのだ。ちょうど門倉とキラウㇱが同居を始めたばかりの頃だったので、折に触れて思い出す。
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MOURNING大雪の夜に/キラ門 どどどどど、と長い轟音が家全体を震わせたので、その振動で門倉は目を覚ました。屋根の雪が塊になって滑り落ちたのだ。次いで隣の部屋から足音が始まり、廊下を軋ませ、玄関の重い扉をくぐって出て行った。雪を踏む足音が壁に沿ってぐるりと回る。まだ床に入って三時間かそこらだ。瞼の重さに逆らわず眠ってしまおうかと思ったが、慌ただしい身支度の気配がしたので布団から這い出た。
照明の眩しさに何度か強くまばたきをする。姿をはっきり捉える前に「悪い、起こしたか」と声を掛けられた。
「いや……なに、どうしたの」
「排気筒が埋まってる。起きたならお前も手伝え」
雪国に暮らしていれば仕方のない事もある。話している間にもキラウㇱは分厚いジャケットを着込み、ブーツの紐を結び終えていた。はいよと返事をして門倉もジャケットを手に取る。元々はキラウㇱの物だった厚手のダウンジャケットは、いつのまにか門倉の雪掻き用になっている。ポケットには軍手が入ったままだ。
1670照明の眩しさに何度か強くまばたきをする。姿をはっきり捉える前に「悪い、起こしたか」と声を掛けられた。
「いや……なに、どうしたの」
「排気筒が埋まってる。起きたならお前も手伝え」
雪国に暮らしていれば仕方のない事もある。話している間にもキラウㇱは分厚いジャケットを着込み、ブーツの紐を結び終えていた。はいよと返事をして門倉もジャケットを手に取る。元々はキラウㇱの物だった厚手のダウンジャケットは、いつのまにか門倉の雪掻き用になっている。ポケットには軍手が入ったままだ。
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MOURNING早く家に帰りたい/キラ門 昨年の言葉が耳に残ったまま新年を迎えた。葉の落ちた枝に雪が重く積もっている。長く真っ直ぐな道の両脇の林から時折エゾシカが顔を覗かせるので、その度に軽くブレーキを踏む。峠が吹雪いていなければ無事に帰り着けるだろう。自然と気が急くのを落ち着けようと冷めてしまった缶コーヒーを啜る。今夜帰ると伝えておいた。冷蔵庫の中身は減っただろうか。酒ばかり飲んでなければいいが。そんな事ばかり考えている。アパートから運んできた炬燵のある我が家。きっと今も門倉が背中を丸め、テレビを見るか、本を読むかしているのだろう。我が家、と心の中で思う時、キラウㇱは切ないような誇らしいような気持ちになる。
初めて好きだと言われた。門倉は帰省に着いてこなかったからだ。その心苦しげな、まるで謝罪のような響きが頭から離れないでいる。申し訳ない、と直ぐにも言い出しそうに眉根に寄せて「キラウㇱくん、好きだよ」と言った。これから長距離の運転だとキラウㇱが玄関の扉を開けたところだった。振り返ると半纏を羽織った門倉が壁にもたれかかるようにして立っていた。まだ眠たげで、目の端が少し汚れていた。うん。俺も好きだ。澱みなく溢れるように返事をしながら、そうか、俺はすっかりこの人が好きになってしまったのか、と頭の端で考えた。キラウㇱから言葉にしたのもおそらくこれが初めてだった。それから、本当に一人でいいのかとここ数日で何度もした質問を繰り返そうとして、口を噤んだ。寂しさはキラウㇱのものだった。門倉を置いていくキラウㇱが寂しいのであって、けれどそれがこんな表情をさせてしまっているのなら、それこそ本意ではなかった。代わりに「そのうち一緒に行こう」と言って、膨らんだ鞄を肩に掛けた。結局いつまでもどこか寂しいのだ。一人でも生きていける人間が二人、一緒にいようとする事はきっとそうなのだろう。キラウㇱは別にそれで良かった。ただ、あの朝、わざわざ寝床から出て見送ってくれた人のいる我が家に、少しでも早く帰りたいだけだった。
838初めて好きだと言われた。門倉は帰省に着いてこなかったからだ。その心苦しげな、まるで謝罪のような響きが頭から離れないでいる。申し訳ない、と直ぐにも言い出しそうに眉根に寄せて「キラウㇱくん、好きだよ」と言った。これから長距離の運転だとキラウㇱが玄関の扉を開けたところだった。振り返ると半纏を羽織った門倉が壁にもたれかかるようにして立っていた。まだ眠たげで、目の端が少し汚れていた。うん。俺も好きだ。澱みなく溢れるように返事をしながら、そうか、俺はすっかりこの人が好きになってしまったのか、と頭の端で考えた。キラウㇱから言葉にしたのもおそらくこれが初めてだった。それから、本当に一人でいいのかとここ数日で何度もした質問を繰り返そうとして、口を噤んだ。寂しさはキラウㇱのものだった。門倉を置いていくキラウㇱが寂しいのであって、けれどそれがこんな表情をさせてしまっているのなら、それこそ本意ではなかった。代わりに「そのうち一緒に行こう」と言って、膨らんだ鞄を肩に掛けた。結局いつまでもどこか寂しいのだ。一人でも生きていける人間が二人、一緒にいようとする事はきっとそうなのだろう。キラウㇱは別にそれで良かった。ただ、あの朝、わざわざ寝床から出て見送ってくれた人のいる我が家に、少しでも早く帰りたいだけだった。
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MOURNING左利き/キラ門「門倉は包丁使うの下手だな」とキラウㇱが手元を覗き込んで言った。まだ芋の一つを剥いたところだった。形の不揃いな芋で、皮が剥きづらく、たしかに分厚く切り落としてしまった部分がある事は否めない。
「せめてピーラーを使え。野菜が泣くぞ」
引き出しから取り出したピーラーを手渡され、またシンクに向き直る。皮がシンクにぱたぱたと落ちていく。芽を取るのは苦手だ。隣ではキラウㇱが真剣に玉葱を炒めている。引っ越しの荷解きがあらかた終わり、さて夕飯はどうしようかとなって、「まあ簡単に作れるのはカレーだよな」と言ったのは門倉だ。「たしかにな」とキラウㇱは言って、まだ開けていなかった段ボールからこの芋を取り出した。箱で買っていたのをそのまま運んできたらしい。玉葱も人参も出てきた。結局カレールーと肉だけ買いに出たのでそれだったら惣菜を買っても良かったと思わないでもなかったが、同居して初めての食事が協力して作ったカレーだなんていかにもらしくて黙っていた。
1106「せめてピーラーを使え。野菜が泣くぞ」
引き出しから取り出したピーラーを手渡され、またシンクに向き直る。皮がシンクにぱたぱたと落ちていく。芽を取るのは苦手だ。隣ではキラウㇱが真剣に玉葱を炒めている。引っ越しの荷解きがあらかた終わり、さて夕飯はどうしようかとなって、「まあ簡単に作れるのはカレーだよな」と言ったのは門倉だ。「たしかにな」とキラウㇱは言って、まだ開けていなかった段ボールからこの芋を取り出した。箱で買っていたのをそのまま運んできたらしい。玉葱も人参も出てきた。結局カレールーと肉だけ買いに出たのでそれだったら惣菜を買っても良かったと思わないでもなかったが、同居して初めての食事が協力して作ったカレーだなんていかにもらしくて黙っていた。
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MOURNINGaddicted/キラ門 さっきまで布団の上で絡み合っていたのがまるでテレビの中の出来事だったみたいに一人で煙草を吸っている。春の終わりの夜は肌寒い。これからほんのひとときの夏が来て、あっという間に涼しくなる。暑い内にどこかに出掛けたい。門倉を助手席に乗せてどこか、釣りが好きだと言っていたから川や海でも、とにかく一日を一緒に過ごしてみたい。門倉には盆休みがあるはずだ。首だけで振り返り、門倉の部屋のドアを見る。今日もまた抱き合ってしまった。先週はしなかったけれど、先々週はした。おそらく来週もする。身体の中にまだ熱が残っている。いい年をした男が二人、まるで覚えたての学生みたいにがっついて、みっともなくて気持ちいい事をしている。跨って見下ろし、転がって見上げて、肌を舐めて、歯を立てて。汗を吸った布団でそのまま眠るのだって嫌じゃない。思い出しているとまた昂ってしまいそうで、煙を深く吸い込んでは吐き出す。
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MOURNING(恋を)しない、しらない/キラ門 靄の中を漂うような心地良い微酔から、その言葉は門倉の襟首を掴んで現実へと放り出した。
「門倉は恋した事ないだろ」
既に酩酊しているキラウㇱは頬を天板に押し付けて、今にも涎を垂れそうな間伸びした口調だ。舌の回りきっていない言葉に「おう」とか「うんうん」とか適当に返事をしていたせいで、どういった流れでその言葉が出たのかさっぱりわからなかった。けれどその断定したような物言いが妙に焼き付くので、門倉は凭れていた座椅子からぐっと身を乗り出した。
「そんなのわかんねぇだろ」
「俺にはわかる」
「馬鹿言ってんなよ」
キラウㇱはへらへら機嫌良く笑っている。立派な酔っ払いだった。「門倉、飲んでるか」と同じ台詞をもう十回は聞いた。床に転がった瓶のラベルには山廃仕込みと書かれている。常連客の一人が故郷の土産だと店に持ち込んだ日本酒だ。「門倉さんイケる口でしょ」と気前良く振る舞われたそれは酸味があって飲みやすかった。半量程まで減った瓶はキラウㇱに残され、どうせなら一緒に飲みたいと門倉の家に持ち込まれて、今に至っているのだった。
2068「門倉は恋した事ないだろ」
既に酩酊しているキラウㇱは頬を天板に押し付けて、今にも涎を垂れそうな間伸びした口調だ。舌の回りきっていない言葉に「おう」とか「うんうん」とか適当に返事をしていたせいで、どういった流れでその言葉が出たのかさっぱりわからなかった。けれどその断定したような物言いが妙に焼き付くので、門倉は凭れていた座椅子からぐっと身を乗り出した。
「そんなのわかんねぇだろ」
「俺にはわかる」
「馬鹿言ってんなよ」
キラウㇱはへらへら機嫌良く笑っている。立派な酔っ払いだった。「門倉、飲んでるか」と同じ台詞をもう十回は聞いた。床に転がった瓶のラベルには山廃仕込みと書かれている。常連客の一人が故郷の土産だと店に持ち込んだ日本酒だ。「門倉さんイケる口でしょ」と気前良く振る舞われたそれは酸味があって飲みやすかった。半量程まで減った瓶はキラウㇱに残され、どうせなら一緒に飲みたいと門倉の家に持ち込まれて、今に至っているのだった。
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MOURNINGその次の日の朝のこと/キラ門 見慣れない天井だったのに、なぜかすぐに門倉の家だとわかった。カーテンの上の隙間からぼんやりした冬の光が滲んでいる。朝だ。隣から聞こえてきた寝息に、畳へ落ちていた脚を布団の中へ引き込みながら身体を横へ向ける。門倉が眠っている。枕のぶん少し高い位置にある横顔が、薄暗い中でもよく見えていた。おそらく門倉も半身がはみ出ている。狭い布団に中年男が二人、身を寄せ合うわけでもなく同衾していたのだと思うと少しおかしかった。冷たいシーツに頬を擦り付けたまま、視線だけで横顔の線をなぞる。額、鼻、口。薄く開いた唇があまりに無防備で間抜けだ。下唇が心なしか腫れているのは、キラウㇱが散々吸ったからだろうか。
昨晩この人とセックスをした。
1272昨晩この人とセックスをした。
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MOURNINGキラウㇱは門倉を穴蔵へ招き入れたいあなぐら 1/キラ門 見れば見るほど、どこにでもいるただのジジイだ。そう言ったところで誰も否定はしないだろう。箸を握る手には血管が浮かんでいるし、背中は脂肪がついて丸い。頭頂に畦のように残る黒髪もなんだか間抜けだ。長いこと一人でいてこれだけは上手くなったのよと教えてくれた、アイロンを掛けたはずのシャツの襟元だって、夜になればくたびれている。柔らかそうな腹、筋肉の落ちた手足。くたりと垂れて落ち窪んだ目には鋭さも残っていて、それなりに苦労の多い人生だったのだろうと窺える。そこまで考えて、急に自分が恥ずかしくなり、キラウㇱはまばたきをして視線を逸らした。どんな言葉を並べたってそのジジイに欲情している自分がいるだけだ。歯の噛み合わせが悪いのか、いつも下唇を突き出している。それをキラウㇱは食んでみたい。唇の裏まで味わって、歯列をなぞり、その奥まで。それから、とキラウㇱは考える。もしも自分が冬眠をする動物だったら。もしそうだったらキラウㇱは、門倉を穴蔵の中に招き入れたかった。
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MOURNING出会って初めての年末、12月29日の夜はじまりにはまだ遠い/キラ門 がらがらと扉が横に引かれ、冷気と共に門倉が入ってきた。肩にうっすら積もった雪を叩いて落とし、慣れた様子でカウンター席の一番奥の椅子を引く。今日はきっと熱燗がいいだろう。水を張った小鍋を火にかけてからいらっしゃいと湯気の立つおしぼりを手渡せば、ああとかうんとか言いながら手を拭き、ついでに顔まで拭いている。軽く吹雪いている中を歩いてきた耳が切れそうなほど赤い。この男が店に来るようになってそろそろ四ヶ月になる。食の好みもなんとなくわかってきた。イカの煮付けあるぞ、好きだろ、と言ってやると「あとは任せるわ」と口の端だけで笑った。今夜は特に疲れている。
「納めたか?」
「なんとかな」
本当なら昨日で仕事納めだった筈なのに、ぎりぎりになってトラブルが続き出社になったと聞いていた。いつものこの時間ならそこそこ賑わっている店内も、他の常連客は既に帰省してしまっているので誰もいない。店も明日からは休みだ。門倉が今年最後の客だろう。疲れ切った目を閉じて背を丸めている姿を視界に入れながら、沸いた小鍋の火を止めて徳利を浸す。いくつかの惣菜を見繕って小鉢によそい、門倉の前に並べる。
1520「納めたか?」
「なんとかな」
本当なら昨日で仕事納めだった筈なのに、ぎりぎりになってトラブルが続き出社になったと聞いていた。いつものこの時間ならそこそこ賑わっている店内も、他の常連客は既に帰省してしまっているので誰もいない。店も明日からは休みだ。門倉が今年最後の客だろう。疲れ切った目を閉じて背を丸めている姿を視界に入れながら、沸いた小鍋の火を止めて徳利を浸す。いくつかの惣菜を見繕って小鉢によそい、門倉の前に並べる。