【Bless you.】「……しかしだな、フェンリッヒ」
訝しげな顔がこちらを覗き込む。どんなに胡散臭い話でも大抵のことはそのままに聞き入れるこの人が、よりにもよってこのオレを疑うというのか。
細くなるガーネットの瞳に見入られ、小さく身震いする。この人は時折、何を考えているのか皆目検討がつかなくなるのだった。
「申し訳、ございません」
確かにオレの管理不足ではある。厳しい叱責を覚悟して反射的に謝罪する。頭を下げても主からの返事はなく、体の内側で脈の速くなるのを感じる。恐る恐る顔を上げれば、そこには予期していたものとは全く異なる光景が広がっていた。吸血鬼は好奇心に満ちた幼な子の顔でオレを見、しかし周囲に配慮するかのように楽しげに耳打ちするのだった。
「それは恋というやつではないか!?」
「……は?」
業務に支障が出る前にと確かに体調不良を訴えたのに、このご主人様は今何と?
オレの動揺の一切合切を無視して閣下はマントを翻し、放つ。
「フッフッフ……その反抗的な目、さては図星だな? プリニーどもよ! 今宵、フェンリッヒに赤飯を炊く! 心して準備にかかれッ!」
「アイアイサーっス! ……プッ」
我慢出来ず笑いを漏らした者にすかさず八つ当たりをすれば連鎖して数匹が爆発の渦に巻き込まれた。難を逃れたプリニーたちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
「なんのおつもりです、ヴァル様……!」
プリニーの一匹もいなくなった部屋で血相を変えて主に詰め寄る。我が主といえばきらきらとした笑顔で未だ勘違いに気付く由もない。我が子の成長を目の当たりにしたかのように喜ぶ、その真っ直ぐで悪びれない様子はいつもオレを悩ませる。この人は実に悪魔らしくない。
「お前の申告によれば『熱っぽい』『胸が苦しい』『食欲がない』……小娘が恋わずらいがどうと騒いでいた症状に良く似ている。ほら、クシャミまでして……想い人がお前の噂話でもしているのだろう。良かったではないか!」
「っくしゅ……ん、ハァ、ハァ、断・じ・て・恋ではありません」
「そう照れるな。しかし恋わずらいとはこうもつらいのだな……」
主がオレの肩を優しくさする。この方の思い込みはかなり激しく、これまでも散々手を焼いてきた。まあ、その恐るべき思い込みの力のお陰でかつてのオレは主に助けられたし、今なお主はイワシで魔力を保てているのだから一長一短である。
今昔のあれこれに思いを巡らせるうち、体調が悪化したのか顔が火照るのが分かった。一方で背に走る悪寒に身震いする。
「お前は顔が良いのにまるで女の気配がなかったからな。少し安心したぞ」
「閣下。その言葉、そっくりそのままお返しいたします」
来る日も来る日もプリニーの教育とイワシに余念のない我が主。どの口が言うのです、と呆れ顔で放った後、胸に違和感を覚えた。咳き込んだせいかと思ったが、そうではないらしい。肺とも喉ともつかない辺りがちくと痛む。
唐突に脳裏に浮かんだいつかの修道女。ヴァル様はあの時恋を、或いはそれに近い感情を抱いていらしたのではあるまいか。もしかすると、今も。
閣下はオレのことを信頼してくださっている、それは分かる。けれど、ヴァル様の記憶にはどうしたってあの女がいる。
今更変えようもない事実を、オレはどう飲み込めば良いのか分からなかった。
オレにはヴァル様しかいない。だが、ヴァル様には。
ごくりと唾を飲む。炎症しているのだろう、喉が酷く痛かった。反射的に空咳が出る。
「おい、大丈夫か? まさか本当に風邪か?」
「そうですと、先程、から……」
「……そうか。すまなかったな」
ぽわ、とヒールの魔法を掛けられて冷え切っていた指の先がわずかばかり血流を取り戻す。ヒールで風邪など治らない。主の、意味のない回復魔法の意図がオレには分からなかった。
「閣下?」
「俺はお前に少々……いや、多分に負い目を感じていてな」
ヴァルバトーゼ様が? オレに? 何故?
様々な疑問が次から次へ、浮かんでは解決しないままに消えていく。意味が伝わっていないと悟ったのか、吸血鬼は言葉を付け足した。
「これまで俺に付き切りだったろう。俺たちは逃げるように地獄に辿り着いた。今日この日に至るまで……お前にはお前自身の時間などほんの少しもなかったはずだ」
またしてもヒールを掛けられる。今度は胸の辺りがすっと通ったような気がした。プラシーボに違いないのに、ほんの少し息がしやすくなるのだから不思議だった。
「俺の感じる負い目とはな、フェンリッヒ。俺が血を絶ったことでお前の世界を狭めたことだ。だから、恋でもなんでも構わない。お前の世界が広がったことが嬉しかったのだ」
早とちりして舞い上がってしまった、と俯き、それ以上を吸血鬼は言い淀む。その告白をオレは懺悔のようだと思った。けれど、オレは悪魔であって神父ではない。そして何より、あの時の若造はこの方にこそ世界を広げてもらったのだから。これからも、広げてもらうのだから。
「お言葉ですが」
膝をつき、頭を下げる。だらんと垂れた力のない手を掬い上げ、白手袋の甲に軽くキスを落とす。
「あなた様がバカ真面目になさるプリニー教育。獄長から押し付けられる数多の業務、イワシの手配……確かにこれでは私の時間などまるでございません」
浮かない顔を下から覗き込んで、オレは必要な最低限の言葉を絞り出す。言いたいことのあれやこれ、装飾する必要はなかった。確証はない、けれど今ならきっと伝えたいことが伝わる、そう思えた。
「ですが、誤解なさらないでください。私は好きであなた様に振り回されているのです。それに……あなた様についていけば否が応でも私の世界は広がると、他でもない私の本能が囁くのですよ」
「……そうか」
主は少し驚いた顔をしたが、遂には言葉を受け入れた。そして、次の瞬間にはすっきりとした表情で声をあげた。ああ、相変わらず主の声は良く通る。
「では赤飯は取りやめる! 聞こえるか、プリニーども! メニューをイワシ粥に変更だ! 消化に良いようしっかり煮込め!」
「……やはり私は恋をしています。赤飯にしましょう」
「嘘をつけ!」
イワシは生臭くて苦手だ。ましてやどろどろに煮込まれたイワシ粥など食うぐらいなら茶化されながら赤飯を食うほうがよほどいい。
だが、なんだろうか。主人に心配されるこの心地は。そわそわと落ち着かないこそばゆさは。
「さて、シモベの面倒を見るのも主の務めだからな。あとは任せておけ」
主の言葉と共に体がふっと軽くなる。気が付けば足が地を離れ、宙に浮いていた。あろうことかひと回り以上体格差のある主人に、従者のオレが軽々と抱き抱えられていたのである。
「……は!?」
「うるさいぞ。病人は寝ていろ」
額にキスを落とされる。突然のことに四肢が動かず、頭は上手く働かない。主はこうなることを分かっていてしたのだろうと思った。熱を解かすよう一瞬触れた、薄い氷の唇が心地良かった。
まだ熱は下がりそうにないのだから、だからもう二度、三度、触れてはくれないだろうか。
願うように目を閉じた、その先のことは我が主だけが知っている。