03.
廊下を歩きながら、七海は、はぁ、と溜め息をついた。隣の灰原が目ざとく気づく。
「どうしたの。疲れた? お腹すいた?」
ここで「悩みごと?」と言わないのが灰原だ。天然だとしても気遣いだとしても、ありがたいと思う。
「食べたばかりでしょう、さすがにまだ減ってない」
「そっか! さっき食堂でおにぎり作ってもらったから、もし減ったら言ってね!」
「いつそんなことしてもらったんです」
「最近毎日頼んでるから、定食と一緒にこっそりもらっちゃった! 三個あるから大丈夫だよ!」
「それ、普段はひとりで食べてるんですか? 夕食の前に?」
食堂からの帰り道、犬のように人懐こい同級生の偉業に感心しながら、七海の脳は別のことを考えていた。
トイレの前を通りかかって足を止める。
「トイレに寄って行きます。先に行っていてください」
「分かったよ!」
と、七海はトイレの個室に入った。小用でも個室に入ってしまうのは、学校生活が始まって以来の癖だ。
*
このところ、寝ても覚めても五条のことを考えている。正確には、一週間ほど前に抱き合った、あの時のことを。
触れた体は熱かった。シャツ越しでもうっすら汗ばんでいるのがいるのが分かった。骨と筋肉で硬いのに、首筋や、腕の内側、脇腹の後ろがほんの少しやわらかくて、ずっと撫でていたくなった。すう、と息を吸った時の体臭が、まだ鼻の奥に残っていた。触れただけの唇は味がしなかった。あの時は充分だと思ったけれど、もっと奥まで、舌をねじ込んで、舐めたい、と思った。唾液がとろとろになるくらい、しつこく、何度も。
夢の中で、28歳の五条と27歳だと言った自分は、そういうキスをしていた。舌を突き出して、音がするくらいしゃぶって、舐めて、口の端から滴る涎は、とろりとしていた。七海にも教えてくれた。ずっと舌を擦り合わせていると、唾液は粘度を増して、ほんのり甘い、同じ味になる、と。
五条の舌は、唾液は、どんな味だろう。シャツ越しではない素肌は。性器はどんな色で、どんな形だろう。体の中は。
そんなことを考えていたら、当然のように股間に熱が溜まった。思考力が鈍り、自己嫌悪に襲われる。それでも、考えることを止められない。
あれから、五条には避けられているような気がした。夏油や灰原と一緒にいるところで会えばいつも通り挨拶してくれるがどこか不機嫌そうだし、ひとりきりの時に会うことがなくなった。五条と夏油は大抵一緒にいるが、こうも会わないと、わざとではないかと邪推してしまう。五条の目は特別で、おそらく、七海の呪力などどれだけ遠くても分かるのだろうから。
七海は、また、溜め息をついた。個室のトイレなので、今度は聞きとがめる者はいない。代わりに、賑やかな声が近づいてきた。
「あー、腹減った! あとでなんか買いに行こうぜ」
「さっき食べたばかりだろ。悟は燃費悪いね」
聞き違いようのない、五条と夏油の声だった。そういえば、さっき校庭ではしゃいでいるのを見かけた。
「動いたら腹減るだろ。オマエこそ昼にそばだけでよく持つな」
「まぁ夕方には減るよ。雑誌の発売日だし、夕食前にコンビニ行こうか」
「オッケー。何買うの? エロ雑誌?」
「いつもの漫画だよ。悟も読むでしょ」
「読む読む。来週は俺が買うな」
会話をしながらふたりとも小用の便器を使ったようだった。水音は手を洗うだけにしては長く続いたので、おそらく顔も洗ったのだろう。タオルを貸し借りしたらしく「サンキュ」「ん」と軽いやり取りが聞こえる。
その中で、
「なぁ、七海って童貞だと思う?」
と、五条が自分の名前を言うのが聞こえて、驚いた。しかも、名前と共に言われた単語が下衆だ。
「なに、突然」
「いや、普通に。普通にどう思う? アイツ童貞だと思う?」
「悟は童貞だと思う」
「俺のことはいいから! しかもそれ前に俺が言ったヤツな!」
ギャーギャーとうるさい喚き声に暴露が混じって、いたたまれなくなる。キスした時の反応からして五条はそうだろうと思っていたが、当たってしまった。
「七海ねぇ。真面目そうだけど、どうだろうね。中学時代につきあってた子とかいたら経験済みかもね」
「えぇ、中学生同士でヤッたりする?!」
「するんじゃない。少なくとも私はしたし」
「オマエのこともいいんだよ! このむっつりすけべ!」
うわぁ、と七海は頭を抱えた。聞きたくもない第二の暴露を聞いて、二人とも個室に人がいるかも知れないとは考えないのだろうか、と苛立たしく思う。それから、夏油はやはりそうだったか、と。
「で、どうしたの、突然。なにかあった?」
「んん……いや、七海って絶対童貞だと思ってたんだよ。アイツ、そういうことは結婚してからにしましょう、とか言いそうじゃん?」
「っふふ、そう?」
「うん……けどさ、キスとか……なんか、手慣れててさ……経験なかったらそんな風にはできないよな?」
「慣れてるっていうのがどの程度かによるけど、その前に、悟は七海といつキスしたの?」
「!」
五条が驚いて息を詰めたのが、見えなくても分かった。迂闊なひとだ、と思う。もしくは、夏油がうまいのか。長い間のあと、五条がぼそぼそと答える。
「このあいだ……したっていうか、されたっていうか、」
「へーぇ。七海もやるね。無限は?」
「校内では使わねぇよ」
「そう? 先月だっけ、三年生に廊下でぶつかられそうになって無限で弾き飛ばしたの」
「だから、オマエとか、硝子とかの前では使わないって話、」
「その中に七海も入ってるんだ? 灰原は?」
「分かんねぇ……使うときも、あるかも……」
「七海のキスはどんな風だったの?」
「……なんか、……」
その時、大きなチャイムの音が響いて、ホームルームの始まりを知らせた。夏油と五条の二人はその間も会話を続けていて、ぼそぼそとした声はさすがに聞き取れなかった。
扉の開く音と共に、「行かないの?」「あとから行く」「そう。先生には適当に言っておくね」と言う声が聞こえたので、五条がひとり残ったのが分かった。
七海は、自分の中の感情が、イライラと高ぶり、疼いているのを感じた。何になのかは分からなかった。ひっそりと立ち上がり、身支度を整えて個室のドアを開ける。洗面台に手をついていた五条が、おそらく物音を聞いて人がいることにやっと気付いて、こちらを振り向く。視線があって、薄青の瞳が大きく見開かれる。
「ななみ……」
「いたんだ」と言われ、「いましたよ」と吐き捨てるように返した。五条の隣で冷静なフリで手を洗い、しかし取り繕うことなどすぐにできなくなって、キッと睨んだ。
「私が童貞か童貞じゃないか、そんなに気になりますか」
「なに、怒ってんの? ハハ、あんなの、ただの冗談に決まってんだろ」
と笑う五条の声はうわずって、内心の動揺を表している。
「五条さんは童貞でしょうね。キス、下手くそですもんね」
「はぁ? おま、なに言って、」
「違うっていうなら試してみます?」
「た、試すって、」
「キスしてみてくださいよ、アナタから。あの日みたいに」
五条が、息を飲んだのが分かった。七海はおそらく、童貞うんぬんよりも、五条としたキスのことを軽々しく話されたことに、苛立っていた。五条からしてきたぎこちない最初のキスも、図書室でのキスも、先週の教室でのキスも、二人の、二人だけの秘密だと思っていたのだ。
五条をかわいいと思い始めていた。それから、キレイなひとだと。ちょっとした仕草や、視線の流れや、ふざけて歪められる眉も、よく笑う口元にも、どんどん惹きつけられて、目が離せなくなっていた。
二人でいるとドキドキとした。〝御三家〟も〝六眼〟も全部頭から吹っ跳んで、ただの先輩と後輩、年の近い男同士として、話したい、もっと触れたいと思っていた。もしかしたら、五条も、同じ気持ちかも知れないと。
それらすべてを、軽んじられ、台無しにされた気がしていた。七海は五条を睨みつけたまま目を離さず、五条も怒った風に眉を潜めて唇を歪めていたが、ほんの少し、悲しそうに見えた。それすらかわいいと思った。
「早くしてください。できないなら、もういいです」
恐ろしく冷たい声が出た。五条は、わずかに眉尻を下げて、それを誤魔化すように、小さく舌打ちをした。サングラスをとって、胸のポケットに落とした。
五条の手が七海の肩の上にのせられた。五条が屈んで、七海の唇に、そっと口付けた。
重ねるだけのそれは、唇の端が震えて、五条の緊張が伝わってきた。これだけで充分だと思う。きっと五条はあの日のようにドキドキして、七海のことだけを考えている。その行動の裏や後に何があるかなんてどうでもいい、二人でこうしている時だけがすべてだと、そう思っていたのに。
誘うように唇を開いた。五条が、おずおずと、七海の唇を舐めた。前歯の表面に舌が触れて、その舌を舐めて、吸った。
五条の体が、びくりと揺れた。舌が触れた途端。七海は、五条の肩をきつく掴んで、噛みつくように口付けた。口を開いて、逃げる舌を追いかけた。
このまま、壁に押し付けて、思う存分貪りたいという欲が湧いたが、懸命に抑え込んだ。それでは、これまでと同じだ。自分ばかりしたがって、五条の気持ちが分からない。七海は、唇は追いかけても、あえてその場から動かなかった。五条は七海の肩を掴んで、はぁ、はぁ、と息を喘がせながら、ぎこちなく唇を動かしていた。
「ん……んっ、ふ、」
「……んん、…はぁ、」
舌が触れると、気持ちが良かった。五条の舌も、七海の口の中を舐めた。舐めて、舐められて、見様見真似で舌を絡めて、吸って、そうするうちに、唾液が同じ味になってきて、夢中になって舌を伸ばした。
七海の肩を掴む五条の手が震えている気がして、中途半端に屈んでいる体勢が苦しいのかと気を遣ったつもりで、おそらくはただ触れたくて、左腕で腰を抱いた。五条は、合わせた唇の間で、んん、と唸って、背中を反らせた。逃げられそうに感じて、強く腰を引き寄せる。
五条の腰は、思っていたよりも細かった。10センチ近い身長差があるのに、七海よりも多分細い。この奔放で横暴な先輩の、最強の男の、繊細なところ、やわらかいところ、華奢なところに触れるたびに、脳が灼けつくような興奮を覚える。衝動のままに腰を抱き、唇を貪る。
手のひらが尻に触れて、一瞬にも足りない逡巡のすえに、ぎゅう、と揉んだ。五条の体が暴れて、肩の上の手が突き放そうとする。数秒揉み合って、さすがに怪我をする、と放す。逃げ出すと思った五条は、一度離れたあと、泣きそうに顔を歪めて、七海の肩の上に顔を伏せた。すん、と鼻をすする音がして、荒い呼吸の音も、かすかに震える肌も、目の前の紅潮したうなじも、すべていとしく思えて、七海の心臓もふるえるようで、苦しかった。背中を、そっと抱きしめる。壊れもののように。
「……すきです、五条さん」
気がついたら言っていた。言葉にした途端、目の前がくらりとするほど、甘美で、強烈な感情だった。
五条は、顔を伏せたまま、息を、ククッ、と下手くそに跳ねさせて、「遅いよ、オマエ」と言った。
*
<謎時空で見守ってる大人七五>
「アナタこの頃、童貞だったんですか?」
「そこ食いつく?」
続く?