幸せに名前なんてなかったから「なんすか、あれ」
新三郎は芋虫のような瘴奸を見て言った。瘴奸は大きな体を丸めてうずくまっている。
「鴨居にぶつけてな」
貞宗が救急箱を持ってやってきた。貞宗はうずくまる瘴奸のそばに屈むと、絆創膏を取り出している。
「どんくさ。何やってんの」
上背のある瘴奸が和室の鴨居をくぐる姿はいつも見ていた。背が高いアピールやめろと言ったことがあるが、そうしたら「新三郎殿は屈まなくてよくて羨ましいですな」と言われたので喧嘩になったことがある。なぜ今日はぶつけたのか。
貞宗は正座すると膝に瘴奸の頭を乗せた。その体勢で傷口を消毒していく。瘴奸は放心しながら貞宗の太腿を撫でていた。それに気付いた常興が怒鳴りながら瘴奸の尻を蹴る。瘴奸は常興に痛いと文句を言い、常興が十倍言い返す。
実家が些か騒がしいなと新三郎は遠い目になった。しかもこの三人はいい歳をした大人なのに。
「それで、何があったの」
これを聞かねば話が進まないと、新三郎は背負っていたリュックを下ろした。
かくかくしかじかと瘴奸が語ったのは以下の通りであった。
仕事が休みだった瘴奸は春の陽気に誘われて街をぶらついた。同じように考えた人々が街には溢れており、瘴奸はその風貌から行き交う人々から若干避けられながら街を歩いていた。瘴奸が街を歩けば月一で警察官から職質を受ける。しかし今日は警察官に出会うこともなく、のんびりと歩いていた。
すると瘴奸は人混みの中に死蝋の姿を見つけた。前世の記憶を持つ者は、前世で関わりのあった者を見つけることが多い。しかし瘴奸はこれまで死蝋とは出会っておらず、前世ぶりの再会だった。
瘴奸は死蝋に声をかけようとした。しかし死蝋の隣には女がいた。若くて、華奢で、ふわふわの髪をした小柄な女だった。二人は仲良さそうに話ながら歩いてくる。瘴奸が声を掛けることを躊躇っていると、瘴奸と死蝋の肩がぶつかった。死蝋は瘴奸を見たが、瘴奸のことを知っているふうではなかった。死蝋は前世の記憶を有していないのだと気付き、瘴奸は何も言わなかった。
瘴奸はそのまま家に帰ってきたが、ぼんやりとしていて鴨居に額を強打した。その直後に新三郎も帰ってきて、芋虫になっていた瘴奸を見たというわけだった。
瘴奸の額に絆創膏が貼られた。スキンヘッドの瘴奸の額に絆創膏があると、絶妙に間が抜けて見える。しかしここで笑っては悪いと思うくらいの良心が新三郎にはあった。
しかし、貞宗は自分が貼った絆創膏をじっと見つめてから口を開いた。
「三つ目がとおるみたいだな」
貞宗の言葉に、常興が噴き出した。瘴奸は光の無い瞳で絆創膏を手で押さえている。
「なあ?新三郎」
同意を求めるように貞宗が言う。新三郎は正直に答えた。
「三つ目がとおるって何ですか?」
そんなアニメがあったのだったかと思っていると、貞宗が宇宙猫のような顔になった。貞宗はプルプル震えて常興を見る。
「これがジェネレーションギャップか、なあ常興」
「私の世代での三つ目は飛影と天津飯です」
きっぱりと言い切った常興に、貞宗は目と口を大きく開いた。貞宗はその顔のまま、放心したままの瘴奸の肩を揺さぶる。
「そちは三つ目がとおる世代よな?」
なぜか必死の形相で言う貞宗に、瘴奸は目を逸らせた。
「……私も飛影世代です」
「裏切り者!」
「申し訳ございません」
三つ目といえば緑のエイリアンだな、と新三郎は思ったが言わないでおいた。きっと誰もわからないだろう。
貞宗は肩を落としたまま夕食を作り始めた。ジェネレーションギャップはそれほどショックなのだろうか。常興が貞宗を慰めている。
新三郎は瘴奸の隣に腰を下ろした。瘴奸は膝を抱えて寝転がっている。図体のでかい男が縮こまっていてもでかいままだなと新三郎は思った。
「大丈夫じゃなさそうだな」
「たんこぶにはならなかったので」
「デコのことじゃねえの。あいつがお前のこと覚えてなかったのがショックだったんだろ」
すると瘴奸が目を細めた。淡い色の瞳が曇っていく。
「昔は煩いくらいにまとわりついてたあいつが、何も覚えてないんですから、拍子抜けして。しかも恋人までちゃっかり連れてるなんて」
「兄妹でした、なんてオチじゃないだろうな」
「随分と仲が良さそうでした。なのに俺のことを全然知らないって目で見たんです。あいつは前世のことなんて全部忘れて、幸せになってるんですよ。俺のことも全部忘れて……俺のことを忘れるなんて」
二回も言ったな。忘れられたのが相当ショックだったらしい。
「幸せそうなら良かったじゃないか」
前世の記憶なんて忘れていたほうが良いこともある。人を殺めた記憶は特にだ。あの生々しい感覚を今でも夢に見ることがある。
すると瘴奸が鼻を啜った。新三郎は瘴奸の顔を見ないように台所の方だけを見ていた。貞宗と常興がオムライスを作っている。ケチャップの焼ける香りが漂ってきた。
「俺を忘れるなんて」
「なんだよ、失恋は初めてか?」
揶揄うように言ってやれば、瘴奸は鼻を鳴らした。
「惚れられることしかなかったので」
「むかつく」