幸せに名前なんてなかったから2 数日経って、瘴奸の額の傷は瘡蓋になっていた。瘴奸はまだ気落ちしているようだったが、それもいずれ回復するだろうと新三郎は思っていた。今も貞宗と常興が瘴奸を連れてコンビニへ行っている。新三郎は家に残って夕食後の皿洗いをしていた。
台所の窓の外では、茜色に染まった空がゆっくりと暮れかけていた。少し開けた窓からそっと風が入り込み、薄いカーテンがを揺らしている。近所の公園で遊ぶ子どもの声も聞こえなくなり、どこからか魚を焼く匂いが漂って来ていた。
すると玄関の呼び鈴が鳴った。回覧板でも回ってきたかと、新三郎は濡れた手を拭いて玄関へと出た。
硝子の引き戸を開けると、そこに立っていたのは死蝋だった。
新三郎は驚きのあまり言葉を失った。田舎のヤンキーのような格好の死蝋がじろじろと新三郎を見る。
「ちす」
死蝋は言ってから、新三郎の後ろを見るように顔を傾けた。
「ここにハゲのでかいおっさんが住んでねえ?」
それが瘴奸のことだとすぐに分かったが、なぜ記憶もないはずの死蝋がここにいるのかわからなかった。
「何の用だよ」
「あ、やっぱここに住んでんだな。俺はあのおっさんに用があるんだよ」
「だから何の用だって聞いてるんだ」
「お前に関係なくね?」
軽薄な笑みを浮かべる死蝋に新三郎は苛立った。死蝋は瘴奸を覚えていない。それでも会いにきたのは、強請りでもする気なのかもしれない。瘴奸は街で死蝋とぶつかったと言っていた。肩がぶつかった程度で骨折したといちゃもんをつけるチンピラの姿が思い浮かぶ。
ただでさえ瘴奸は死蝋に忘れられてショックを受けている。この死蝋を瘴奸に会わせてはならない。新三郎は死蝋を睨むと威嚇するように間合いを詰めた。
「いいから帰れよ」
「だから、あのおっさんを出せって言ってんだろ」
「外出してんだよ」
「どこに。いつ帰ってくる」
しつこく食い下がる死蝋に新三郎は腹が立ってきた。なぜ何も覚えていないのに瘴奸に付き纏おうとするのか。
「いいか、よく聞け」
新三郎は気色ばんで死蝋を指差した。勢い余って長い舌が唇からはみ出す。
「あいつは今失恋してんの。ガチ落ち込み中なの。そんで叔父上と兄貴が慰めるためにあいつを連れてコンビニにハーゲンダッツ買いに行ってんの。わかるか?パピコじゃなくてハーゲンダッツ!だからお前が出る幕はない」
すると死蝋はむっとしたように口を尖らせた。
「ハーゲンダッツくらいなら俺だって買えるんだよ!」
「違う。大事なのはハーゲンダッツじゃない。ハーゲンダッツを食べながら俺たちがあいつを慰めるんだ。この違いがわかるか?全部忘れてるお前じゃわからないよな!」
二人の声は近所に響くほど大きくなっていた。新三郎と死蝋はお互い睨み合ったまま動かない。
するとそこへ貞宗が走って帰ってきた。貞宗は百メートル先から真っ先に異変に気付き、猛スピードで走ってきた。貞宗は揉めている二人の間に入って死蝋を見る。
「うちに何の用だ」
死蝋は突然現れた貞宗にも怯まなかった。それどころか眉間に皺を寄せて凄んでみせる。
「だから、俺はあのハゲのおっさんに用が」
そこで死蝋はこちらに走ってくる瘴奸に気付いた。瘴奸は息を切らせて死蝋の前まで来ると、死蝋の胸倉を掴んだ。
「誰がハゲだこのクソガキ!」
今にも殴りかかりそうな瘴奸に、貞宗が慌てて羽交締めにする。
「コラッ瘴奸!賊が出ておる!」
追いついた常興も手伝って瘴奸を死蝋から引き剥がす。瘴奸はまだ怒っていたが、貞宗に「ダメ!」「ステイ!」と言われておとなしくなった。
電線にとまるカラスの鳴き声が、その場にいる四人を馬鹿にするように鳴いた。カラスはついでとばかりに糞まで落としてから飛び去っていく。
貞宗はひとつ息をつくと皆を見渡した。
「全員落ち着け。常興、まずはアイスを冷凍庫に入れにゆけい」
「はっ」
常興は頷くと家へ駆け込んだ。
「新三郎、瘴奸を連れていけい」
新三郎は頷くと瘴奸の腕を引いた。しかし瘴奸は死蝋を見たまま動こうとしない。瘴奸は一歩前に出ると死蝋と向き合った。
「俺に何の用だ」
死蝋は瘴奸を頭の先から爪先まで眺めていた。その視線に瘴奸は眉を顰める。すると死蝋は思いのほか真面目な顔をして言った。
「あんたに会いたくて来た」
「何のために」
「それは今から考えるよ」
死蝋はスマートフォンを取り出した。そしてそれを瘴奸に向ける。
「とりあえずLINE教えてくんね?」