「あ……ああ……」
チェズレイは街灯の切れた薄暗い路地で、戦慄ゆえに青白い顔で後退る男を追い詰めていた。革靴がコツコツと石床を叩くリズムをタクトにし、一歩歩み寄るごとに情けない悲鳴を上げる男の顔を鑑賞する。
袋小路に追いやり、背後に逃げ場が無くなったところでチェズレイは脚を止めた。首の付け根に指をかける。鎖骨あたりにある人工皮膚の境目を指で引っ掻き、めくり上げる。
「お、おまえ……」
(あァ……)
この瞬間が好きだ。
男が信頼する友だと思い込んでいた人間の皮を脱ぎ去って正体を明かした時の絶望と憤怒と哀絶に染まった濁り切った情欲の目が突き刺さるこの瞬間が。
丹精込めて作ったマスクを男の前へ投げ捨てる。
『友人』の顔にそっくりの剥製みたいなそれと目が合った男は一際大きな慟哭を上げた。
「騙してたんだな。最初から……」
「えェ、私はあなたの友ではない。あなたの背後にある組織の情報、それが欲しかっただけなのです。感謝しますよ。あなたが立派に働いてくださったおかげで私は労なく情報を手に入れることが出来ましたので」
チェズレイは冷たく言い放った。
男にとってチェズレイは、チェズレイが成り代わっていた友は、固い絆で結ばれた気のおけない大事な人だった。しかし、チェズレイにとって男はファントムに繋がる手掛かりを得るためだけの駒でしかない。
「許さねえ、この死神めッ!」
男が懐から短剣を抜き、叫ぶ。
「フフフ、確かに私の正体を目にした者はみなあの世へ行きましたから、死神とそしられても致し方ない。ですが、神などと並べられるのは不愉快です。私のことはこうお呼び下さい――『仮面の詐欺師』と」
もうこの男に用はない。男がやってきた悪行を思えば生かしておく価値もない。
チェズレイは息を吸い込んだ。夜の冷えた空気を肺に取り込み、音階を乗せて調べを奏でる。
心を乱した男は容易に催眠状態へ入った。
「あんたに、あんたにさえ出会ワなけれバ、オレは――!」
男は自分の短剣を抱き込んで倒れた。
灰色の路地の上に鮮烈な真紅が広がる。その赤色が足元に到着する前に、チェズレイは踵を返した。
男の最期の断末魔を反芻する。
「フフ……私に出会わなければ幸福でしたのに、ねェ」
「守り手たらんとする人生も、幸福との出会いも、すべてこの命あってのこと――」
隣に座るモクマが実母へ放った台詞は雷撃の如き衝撃をチェズレイにもたらした。
『幸福な』のように形容句ではない。モクマには『幸福』が形として「在る」かのようだった。そして、チェズレイの優秀すぎる頭脳は、その『幸福』と称されるモノが己自身を指すことを解釈してしまった。
(私が、モクマさんの『幸福』……?)
幸せなのか。モクマはチェズレイと生きることが幸せだというのか。
守り手として生きる覚悟を覚醒させた恩義は理解出来る。だけど、そのためにチェズレイがしたことと言えば、傍目には八つ当たりや嫌がらせとしか思えない攻撃的なものだった。
同道を決めた時だって、モクマは「守り手としてラクできる」と受動的な反応だった。
チェズレイは己の野望と実りある人生のためにモクマを付き合わせている。それがチェズレイの幸せであるからと示せば、モクマもそっかと人好きのする笑みで隣に付いてくるだけだった。
「……今、幸せなのね?モクマ」
モクマの母がモクマとチェズレイの顔を見比べて、それからモクマへ問いかけた。
チェズレイも彼の答えを固唾を呑んで待った。モクマが居住まいを正す衣擦れの音すら大きく聴こえた。
「幸せだよ。生涯の相棒を得て、己の生き様に自信を得て、俺は今最高に幸せなんだ。それもこれも、お母上が丈夫に産み育ててくれたおかげだ」
「モクマ……」
モクマの母が目頭を押さえる。我が子の名前を呼ぶ声は震えていた。
「だから、何もしてやれなかったなんて思わないでくれ。俺も島を出てからずっと親に挨拶してこなかった不孝者だったしね」
チェズレイは泣き崩れるモクマの母へハンカチを手渡すことしか出来なかった。
「難しい顔、してるねえ」
モクマの母が暮らす家を出て角を曲がったところでモクマは声をかけてきた。
チェズレイはモクマを一瞥したのち、はあとため息を零す。
「私と出会ったことは貴方の中では災厄だったのでは……?」
「それ、否定されるって知ってての質問?だったら言うけどもさ、少なくとも今の俺はチェズレイと出会ったことを不幸だなんて思ってないよ」
「そうですか」
「……お前さんはどうなんだい?」
モクマに問われて、ひとつ瞬きをする。
そういえば、チェズレイにとって出会った当初のモクマは己の計画を踏みにじる厄介者であった。コイツさえいなければ手数を踏まずに犯行を完遂できていたのにと憎く思っていた。
それも遠い過去の話だ。
「おわかりでしょうに……」
チェズレイは柔く微笑み、背を曲げた。
リップ音と共に吐息で答えを告げた。