七月二日─────午後八時過ぎ。
任務が入ってない日の時間の使い方を少しだけ忘れていた。祓っても祓っても沸いてくる呪霊。呪術師として生きていくのが嫌になった呪詛師。祓って、捕えて、時には殺して。穏やかではない呪術界の生活なんて、学生の時に嫌というほど思い知った。
地獄に耐えられる自信がないから、一度はこの界隈に背を向けた。自らの命が脅かされ、親しくなった同業者が死んでいく。自身の友人が亡くなったことも、大いに関係している。けれど七海建人は再び戻ってきた。
死の危険がないと分かっていても、社会に出た自分がいるべき場所はどこなのか…それに気付いたから。両方地獄。両方クソ。生きづらいことこの上ない。ならば、地獄くらい、自分で選ぶ。
どちらの地獄が住みやすいのか。息がしやすいのか。…自分に合っているのか。
正解など分からなくとも、後悔はしていない。高専を卒業と同時に呪術界を去ったことも。数年の歳月が過ぎて、この世界に戻ってきたことも。
一般企業で働いてきたからこそ、両方が地獄だと知った。知ることが出来た。
かつての友人。一人しかいなかった同級生の言葉が、時々思い出される。
『自分にできることを精一杯頑張るのは気持ちがいい』
そんな、善人の塊のような発言…自分にはできない。何もしなくてもいいのなら、何もしたくない。けど、生きていくためには金がいる。呪術界で生き延びたければ、闘わなければならない。
自分にできること……七海は友人の言葉を思い出しながら寛いでいたソファから腰を上げた。
任務が入っていないのは良いことなのだが、外は生憎の雨。梅雨がまだ明けない時期。折角の休みであってもこうも天気が崩れていると気分も自然と下がってしまう。
湿気が増しただけの気候は好きではない。
任務の予定が組み込まれていないというだけで、緊急の呼び出しは存在する。だから一般人のように満足に休日を満喫することは難しい。そうした生活に慣れつつあるのだから自分も正常に狂っているな、と実感する。
と、まぁ……ここまではいい。
七海は無意識に出た溜息で我に返る。
ローテーブルに置いてある端末。電源を切っているわけでもない携帯。用がなければ特別、その端末が着信や通知音を鳴らすことはない。
携帯を眺め、頭に思い浮かぶ一人の人物。
自身の、学生時代の先輩。最強の名に相応しい…自他共に認める【最強】───五条悟。
何故自分が気にしなければならないのか、と思う反面…多少の落胆は拭えない。頻繁に連絡を取り合っているわけではないのだが、合鍵を渡すほどの仲。ただの信頼と信用ではなく、親愛。
いわゆる『恋人』という関係になって、よくやく一年が過ぎたのだ。まるで子供のような彼の対応に、疲れないかと問われればすかさず「疲れる」と答えるだろう。だが、『離れたい』だとか、『別れたい』と言った感情は一切浮かんでこない。
五条は特級呪術師。七海は一級呪術師。加えるなら五条は御三家の一つである五条家の当主。さらに上層部との折り合いはかなり悪く、しょっちゅう嫌がらせの類を受けている。それでもなお喧嘩を売るのだからどちらも懲りないのだ。
時間の無駄だと分かっている上層部との絡み。疲れるのは五条の方であり、最強である彼が居なくなって困るのは上層部……いや、呪術界なのだ。互いに分かっていることなのに、いつまでも小学生のような喧嘩を繰り返している。物騒すぎる内容はとても小学生がする喧嘩ではないのだが、いがみ合い方がそれに近い。
五条に任務を押し付けたり、詰め込んだりしてもあまり意味はない。【最強】の名は、伊達ではない。誰も、彼の足元にも及ばない。
しかし……恋人が……パートナーである彼が、一方的に嫌がらせを受けているのを、ただの傍観者でいられるはずがない。表情筋があまり機能していないせいか、やや淡白に見られる七海であるが他人と変わらぬ感情を持ち合わせている。
彼を守る事はできなくとも。支えになりたいと思っている。力で…実力でサポートが出来ないのであれば、五条が安心して心を預けられる存在でありたいと…思っている。それらを言葉として発するには、少々気恥ずかしい。
揶揄われるか……それとも存外ウブな彼のことだから頬と耳を赤く染めて、照れ隠しついでにアイマスクで表情を読み取れないようにするかもしれない。その場合、思わぬカウンターを貰うハメになるのでやはり容易に口にできない。
五条と、会う約束はしていない。約束を取り付けなくとも、高専に足を運べば高確率で五条と出会うのだ。こちらから探さずとも、大半は彼の方が七海に声をかけてくる。
『ななみぃ〜 お疲れ〜。僕も疲れたぁ』
『ん!良い匂いする!僕への差し入れ?』
『七海はもう終わり?いいなぁ…僕?僕はこれからもう一件仕事が入っててさぁ』
『終わる時間?どーだろ?呪霊自体は大したことないんだけど、場所が遠くてさぁ』
『え!?迎えにきてくれんの!?ほんと?嘘じゃない?ドッキリだったら怒るからね!』
『終わりそうなタイミングで連絡するよ。そんじゃ、後でね〜』
このやりとりを交わしたのが約一週間前。あの後、日付を越えた時間帯に五条から連絡が入り、最寄駅まで迎えに行った。
珍しくヘトヘトになった五条を労るべく、可能な限りの我儘…もとい、甘えを聞き入れた。
お風呂一緒に入ろ。頭洗って。お腹すいた。七海が好きなパンが食べたい。朝一でもいいから一緒に買いに行こう。眠い。腕枕して。キスして。ほっぺじゃなくて口!はやくぅ〜…ちゅーしろよぉ…
思い出してしまうと頬がうっかり緩んでしまう。今、自宅には一人しかいないと分かっていながらも七海は表情を無に戻した。
子供の相手をしているような。だけど子供だと思っている相手に欲情などしないし、潤んだ唇にキスなどしない。歴とした恋人。
一週間前に会ったっきり、顔を合わせてもなければ、音沙汰もない。普段、何気ない連絡さえも寄越してくれているのに、これは可笑しい。
ならばこちらから連絡を取れば良いだけの話なのだが、単純に任務が忙しいのだろうと思うとなかなか指が動かなくなる。
うだうだ…もだもだ…モヤモヤ…。
そうしているうちにあっという間に日付が変わった。それと同時に通知音が立て続けに新着メッセージを受信したのを知らせる。内容は…まぁ、確認せずとも何となく察することができる。
日付が変わった今日……七海建人は誕生日を迎えた。
※
まさか二日間に渡って任務が入っていないのは想定外だった。それこそ、誕生日など呪術界には関係なく、去年なんて当たり前のように任務が組み込まれていた。
それでも尚、自分を慕ってくれている後輩たちから祝いの言葉をもらった。……もちろん、五条からも。報告のために足を向けた高専内で、五条は七海の背後からクラッカーを鳴らしたのだ。
気配もなく近付いて、不意打ちを食らって。思わず振り向きざまにジャケットの下に隠している鉈を取り出してしまいそうになった。悪びれる様子もなくただただ純粋に『七海、誕生日おめでと〜』なんて言ってのけるものだから、注意する気力さえ削がれてしまった。
思い出してしまうと、余計に彼に会いたくなってしまった。
どうしたものか…七海は考える。
捻くれ者しかいない呪術界で学び、育ってしまえば素直な行動をとるという行為が難しくなる。
そして七海は思いつく。
日付が変わっても連絡を寄越さない…。誕生日を迎えた自分に、『おめでとう』というメッセージすら送らない彼に会う方法。
携帯を手に取った七海は補助監督として働く、後輩の伊地知に連絡を入れた。内容は、任務がないか、というもの。
『あれ?七海さん 今日はお休みでは?』
「ええ。そうなんですが、予定のない休暇なので言葉通り暇を持て余してまして」
『えぇっと……いま特別窓からの報告もありませんし…』
「……そうですか…あ、そういえば以前私に振られていた任務はどうなったんですか?」
階級が高く、動ける呪術師は多くはない。呪霊や呪詛師の階級が高ければそれ相応の階級が必要になる。数日前に連絡を受け取った任務内容。しかし翌日には『代役が見つかったため任務は取り消し』といった追加連絡がきたのだ。
早い段階で呪詛師が捕まったり、何らかの原因で呪霊が確認できなかった場合…割り振られた任務がなくなることも、あるにはある。だがそれは稀なのだ。
わざわざ任務を志願する者は、いない。
だからこそ疑問に思っていたのだ。
『ああ、それなら五条さんが…、っあ!いえ、あの、何でもないですっ!』
「………………………」
電話越しだというのに、伊地知が取り乱し、焦っている姿が目に浮かぶ。しかし…今はそれを気にしている余裕はなかった。彼は今何と言った?
流れる沈黙に、伊地知が生唾を飲み込む音がハッキリと聞こえた。
「…………伊地知くん」
『は、はいっ!!』
「知ってること……全部話してくれますよね?」
伊地知に拒否権などなかった。
伊地知から洗いざらい…知っていること、関わっていることを聞いた七海は彼との通話を切ってすぐに五条へ連絡を入れる。
自身が想像していたよりもあっさり、五条さ七海からの電話に出た。七海は用件のみを伝える。今すぐうちに来い、と。まるで脅迫めいた声色で、有無を言わさない緊張感。五条からまともな返事を聞かずに、七海は通話を切った。
電話をしてから一時間後。五条はやってきた。
渡した合鍵で玄関を潜り、伸ばした語尾はなにかを誤魔化すように聞こえてしまい七海の眉間の皺はさらに深くなった。
そんな七海の顔を見て、五条は口を閉じる。
思い当たる節があるからだ。
「五条さん」
「…………なに」
都合が悪くなったり、分が悪くなれば口数が減る。常日頃から軽薄な態度は子供っぽいと感じているのだが、このような態度を取られてはいよいよ子供を相手にしていると錯覚してしまう。
溢れそうになる溜息を飲み込み、七海は口を開く。
「私の分の仕事まで請け負ってるというのは本当ですか?」
問いかけではなく、確認。
全て伊地知に聞いた内容。
どうやら五条は七海の誕生日に合わせて、数日前から大半の任務を一人で引き受けていたらしい。全ては、七海の誕生日に、任務が割り当てられないように。
本人が誕生日というイベントを、気にしていなかったとしても五条は七海を気にかけていた。一年のうち、数日くらい…任務やら仕事やら…呪霊のことやらを考えなくても良い日があってもいいじゃないか。それが五条が考えた……七海への誕生日プレゼントだったのだ。
「だって七海 言ってたじゃん」
「………」
「休みが欲しいって」
記憶を遡るが、いまいち思い出せない。つまり五条を目の前に零した言葉ではないということ。もしかしたら同業者にうっかり漏らしていた本音を、五条がたまたま聞いていた可能性がある。それを、真に受けたのか。
確かに、仕事はしたくない。それは紛れもない本音なのだが…社会人である以上……大人である以上…自身の我儘一つで世界が回ってるとは思っていない。子供のように…学生のように、拒否をしても受け入れてもらえない場面が多く存在する。
上手く生きていくためには、ある程度割り切るしかないのだ。
自分に与えられた仕事だから、それを熟すのは当たり前。他人に押し付けてまで…他人に任せてまで、楽に生きようとは思わない。
「……仕事がないのは嬉しいですが、残念なことに私が一番欲しいものはそれではないですよ」
「えっ!?」
本気で分かっていないらしい。アイマスクによって輝く蒼が隠されているのが気に食わなくて、七海はそっと五条の目隠しを下にズラす。
「────ななみ?」
無下限術式で阻まれることもなく。拒否をされることもなく。五条はただ、七海の取る行動を、首を傾げて見ているだけ。
あまりに無防備な姿。油断していると言ってもいい。別の問題で頭を悩ませることになりそうだが、今はそれよりも。
「まだ 貴方の口からお祝いの言葉を貰ってません」
一番欲しいのは。
休暇ではない。一人の時間ではない。任務のない日ではない。
一人では意味がないのだ。
自分の隣には、いて欲しい存在が、いる。
「……ぉ、誕生日 おめでと」
少しだけ、唇を尖らせて。頬はほんのりと桃色に染まっている。照れているな…そう誰もが気づいてしまうほどの分かりやすい態度。
素直なのか、そうじゃないのか。
思わず笑ってしまうほど……目の前にいる彼が愛おしかった。
「ありがとうございます」
感謝の言葉は忘れずに。なんたって今、一番欲しい言葉を送られたのだから。
腕のなかに彼を閉じ込めても、抗議の声は上がらなかった。少しだけ体が強張ったような気がしたが、それには気付かぬフリをして背中に回す腕を強めた。
下から覗き込むように、数センチ高い位置にいる彼の顔を見つめる。蒼い瞳と、目が合う。
赤いままの頬を手のひらで包み、欲しくて堪らなかった唇を、五条の承諾を得る前に奪った。
END