想・喪・葬・相 ⑨広大なドッグランで寄って来る犬を撫で、顔や手を舐められている江澄は終始笑顔だ。
曦臣は犬を見る振りをしながら、犬と戯れる江澄をずっと見つめていた。
「曦臣、曦臣もこっちに来て撫でてみろよ。可愛いぞ」
「本当だ、人懐こくていい子だね」
曦臣が横にしゃがんでも江澄は身体を強張らせたりしなかった。
それだけのことが、横にいることを許してもらえたようで、どうしようもなく嬉しかった。
「な、こいつちょっと曦臣に似てるよな」
「そうかな」
「口を開けると笑ってるみたいだ。ああ、本当に可愛いな。家に連れて帰りたい」
子供のように笑う江澄はここにいるどんな犬よりも可愛かった。
この笑顔を自分は小さい頃から知っている。ずっとこの先も、この笑顔を毎日見ていたい。
笑顔だけじゃない。
怒っている顔も、悪かったと謝る時のちょっとしょんぼりした顔も、仕事の愚痴をいう時のうんざりした顔も、感動ものの映画を見て涙をこらえる顔も。
どんな顔も、側で見ていたい。
そして、出来るだけ笑顔でいさせてあげたい。
(阿澄の笑顔がこんな私を救ってくれた。阿澄がこの想いに気がつかせてくれた)
この気持ちをそのまま江澄に伝えよう。そして今日までの日々を謝り、これからのことをちゃんと話し合いたい。
ふと微笑む江澄と目が合い、「阿澄」と呼びかけようとしたその時、江澄の鞄の中でスマホが鳴った。
「ん?誰だ、こんな時に」
その画面が見えてしまった瞬間、先程の温かな想いが嘘のように凍てついた。
通話画面に表示されているのは、江澄の彼氏の名前だった。
身体が硬直し、頭が真っ白になった。
「悪い。すぐ戻るから」
江澄が立ち上がって背を向け、ここから離れようとしている。
(まただ。また彼氏が阿澄を独占してしまう。阿澄が私から遠ざかってしまう)
「あっ!曦臣、何するんだ!」
「彼氏からの電話だね。話して、私の前で」
即座に江澄の手からスマホを奪った。
そして江澄が制止しようと動いた瞬間、応答とスピーカをオンにする。
『あ、江澄、聴こえる?』
「ぁ…」
『あれ、もしかして寝起き?日本時間だと昼間だよね?』
どういう人なのかは江澄が仕事の話をしていた時に聴いてはいたが、こうして声を聴くのは初めてだった。明るく人懐っこそうな声だ。
「あ、いや。昨日ちょっと遅かったから」
『そうなの?もう繁忙期は過ぎてると思ったけど、急な仕事でもはいった?』
「そうじゃないが」
『なんかあった?元気ない感じだけど』
「何もない」
(何もない、か)
その言葉に、江澄にとって自分は取るに足らない存在なのだと言われたようで、電話越しの彼氏に今までのことをぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
江澄はベッドの上でどんなふうに自分に抱かれたのか、どんなに可愛らしく喘いだのか、羞恥に泣き悶える姿はどんなに煽情的だったのか。
電話の先の男はどれ程知っているのだろう。
「その、要件はなんだ。何かあったのか」
『要件っていうか、こっちでのこと話したくて。江澄もどうしてたか気になってたしね。あれからどうしてた?』
「悪い、昨日ちょっと飲み過ぎて具合が悪いんだ。後でかけなおす」
『そうだったんだ。ごめんごめん。じゃあ、伝えたかったことだけ手短に言うね。あのさ、江澄、僕こっちで恋人ができたんだ』
指の力が抜け危うくスマホを落としそうになった。
(今、何て言った?)
『恋人ができた』そう言ったのか?
江澄が待っているというのに、この男は異国で恋人を作ったと、そう言ったのか?
目の前の江澄も予想だにしていなかったのだろう。驚きを隠せず、視線がうろうろと彷徨い、瞬きを繰り返している。
「そ、そうなのか」
『あの日、あんなこと言ったのに何言ってるんだって思ってるよね。ごめん』
「謝ることじゃないだろ」
『そう言ってもらえて嬉しいよ、ありがとう。こっちでこの人こそ理想って人に出会ってさ。色々あったけど、恋人になれたんだ。江澄にはちゃんと伝えておきたくて』
「良かったな」
『具合悪いのに電話してごめん。また今度ゆっくり話すよ』
「そうだな…じゃあ、また」
『ああ、またね。江澄の恋も応援してるよ。江澄の恋話も今度ゆっくり聞かせてね』
一方的に江澄を振り、そして惚気たかと思えば、失恋したばかりの江澄に何ということを言うのだと、生まれて初めて激しい憎悪を覚えた。
怒鳴りつけようとしたが、その前に江澄がスマホを取り返してしまった。
「何故?何故、あの男に何も言わないの。恋人が出来たなんて。あんなに一方的に振られて、どうしてそれを受け入れるの」
江澄は怯えた目をしていた。スマホを両手で握りしめている姿は、あの男を守ろうとしているようで、ますます怒りが込み上げる。
抑えようとしても、どうしても声が震えてしまう。
「違うんだ、曦臣」
「何が違う?あの男が好きだったんでしょう?抱かれている時もあの男のことばかり想っていたんでしょう?関係をばらされるのが怖くて、嫌々私に抱かれ続けたんでしょう?それくらい好きだった相手にいいように振られて、どうして黙っていられるの」
「曦臣、違う、そうじゃないんだ」
江澄が弱弱しく首を振る。
こんなになっても相手を庇う姿を前に、悲しみが押し寄せた。
どうして江澄はあんな男に心を寄せたままなのだろう。
何故その一途さを向けられるのが自分ではなく、あの男だったのだろう。
あの男はどんなつもりで江澄を手に入れ、そしてこんなに軽々しく捨てたのだろう。
先程の会話が嫌でも頭の中で繰り返し響き、憎悪の炎が全身の血を煮立たせた。
「阿澄、そのスマホを貸して」
「なんで」
「決まっているでしょう。彼と話をする」
「駄目だ!」
「阿澄」
「あいつは悪くないんだ、全部俺が」
「阿澄!!」
江澄がビクっと身体を撥ねさせた。
まだあの男を庇うのか、それ程までに好きなのかと詰問すると、みるみる江澄の目に涙の膜が張った。
「ごめん、曦臣。嘘なんだ」