≪トマ蛍≫新居の○○になりたい2【冷蔵庫になりたい】
冷たいお水を求めてキッチンへと入れば、クッキーの入った瓶に手を突っ込んだ先客がいた。
その脇をすり抜けて奥の冷蔵庫に向かおうとしたのに、右へ左へ、口の端にクッキーの欠片をつけたままの蛍がトーマの行く先を塞いで妨害する。
「なーにしてるの」
「邪魔してる」
「オレお水飲みたいんだけど」
「だめー」
正面を突破しようとすれば、その小さな体をめいっぱい広げて止められる。体当たりを受け流したくても、蛍にきゅうと抱きしめられてしまえばどんな弱い力だってトーマは動けなくなってしまう。
寄りかかる蛍を受け止めて、むふ、と得意げに笑う顔を飾るクッキーの欠片を、その唇に押し込んだ。
「進めないよ」
「うん、邪魔してるからね」
「冷蔵庫行きたい」
「だめー」
そう繰り返しながら瓶に手を伸ばした蛍はクッキーを寄越す。やや強引に唇に刺されたそれをさくさく咀嚼すれば、豊かなバターの香りがいっぱいに広がった。
昨日の蛍がせっせと焼いたシンプルなクッキー。その素朴な優しい味わいについ手が止まらなくなってしまって、食べ過ぎだと頬を膨らませていたから我慢していたのに。
キッチンに来るたびにつまむ誰かさんのせいで、気づかないうちにずいぶん減っていた。
「うん、おいしい」
「ね」
「もう一枚食べたい」
「いいよ」
あ、と開けたところに放り込まれたクッキーが、どんどん口の中の水分を奪っていく。
「やっぱりお水」
「もーしょうがないなあ」
トーマにしがみついてふらふら暴れる体を支えながら冷蔵庫へ。取り出した冷たい水をコップに注ぐと、トーマに回っていた腕がそれを攫って先に飲み干してしまった。
「あ、こら!」
「んへへ。もうちょっと飲みたい」
「もう、はいはい」
ぷは、とコップを離した蛍がにっこり笑ってトーマを振り返る。その可愛い笑顔に、形だけの説教など勝てるはずがない。
惚れた弱み、というやつだろうか。いやでも、通せんぼやら何やら、そういう小さないたずらは蛍なりの甘え方なんだから、それを甘やかしてやるのは当然だろう。
そもそもこんなに可愛い蛍がいけない。トーマの分は私が入れるね、と張り切るその愛しい人にキスを落とした。
【鏡になりたい】
くぁ。噛み殺せなかったあくびを、鏡越しの蛍が真似をする。未だにこくこく揺れる目の前の金の頭にはぴょんと跳ねた寝癖。何度撫でつけてもそのそばから元気に立ち上がる。
「なに?」
「ここ、寝癖」
「やだあ、どこ?」
トーマにだけ見える後頭部。手渡された櫛で優しく梳く間にも、されるがままの蛍は、まだ重いらしい瞼に抗うこともなく蜂蜜色を覆い隠そうとする。
声をかけるトーマに起きてる起きてる、と雑な返事をしながらも慌てて開かれた目。鏡の向こうの蛍がゆるりと笑う。
「あは、トーマも前髪跳ねてる」
「うそ」
「ここ」
くるんと振り返った蛍がトーマの頭に手を伸ばす。
つままれた箇所には確かに立派な寝癖。鏡を目の前にしながら、ぽやぽやふわふわな蛍に夢中で自分の姿などまったく見ていなかった。
急いで櫛を通しても直る気配がない。そろそろ目覚めてきたらしい蛍が、踵を上げてそれをぺちぺち撫でつける。あの、もうちょっと優しくね。
その力加減に笑いながら、ついいつもの癖で背伸びした蛍の腰を支えてしまったトーマをじとりとした視線が突き刺した。
「あ! ちゅーじゃないからね」
「そんなつもりじゃあ」
「ほんと?」
「……してほしいの?」
「……ちがうもん」
そりゃあ、キスを強請る蛍をそうやって引き寄せるのがいつものお約束だけど。寝起きでふらふらな蛍が転ばないように支えただけだし、むしろそのつもりだったのは蛍の方じゃないのか。
トーマの指摘にぷっくり頬を膨らませてふん、と前を向いてしまったけど、その表情は正面にばっちり映し出されている。
寝癖がなくなったその頭に鼻を擦り寄せると、明らかに増えたまばたきに、もにもに波打つ唇。ぱちりとぶつかった瞳がきゅうと細められる。
小さな体に凭れかかるように抱きしめれば、その頬がぽぽぽと色づいた。
「こっち向いて」
「……むぅ」
「ほら、蛍」
腕の中でもじもじ、素直になれない蛍が諦めるのはいつになるだろう。いいよ、いつまでかかっても。鏡越しにずっと見守るだけだから。
【米粒になりたい】
洗濯もした、掃除もした、食材なら昨日山ほど買ってきた。
「暇だな」
「そうだね」
蛍と二人、リビングに大の字で転がりながらぽつりと呟く。
触れた指先にこちょこちょちょっかいをかけるのも、投げ出された足につま先ですりすり甘えてみるのも、もう何周もしてすっかり飽きてしまった。
裁縫に読書に、暇つぶしの手段ならいくらでもあるが、今日はそういう気分にもならない。吹き込んだ風が戸を揺らす音を聞きながら、ただ何をするでもなく天井を見つめていた。
「トーマ、お腹すいた」
「オレも。なにか作ってよ」
「トーマのご飯が食べたい」
「オレは蛍のご飯が食べたい」
昨日作ったのはトーマだ。そう主張すれば、蛍はトーマの体に顔を埋めてぐうぐうと唸った。ひと通りその匂いを吸い込んでしぶしぶ立ち上がる。
キッチンに立った蛍はひとつふたつ作業をする度、トーマの匂いを嗅ぎに戻る。トーマの匂いなくなってきた、なんてわけのわからないことを言いながら炊きあがったご飯をほぐしていた。
両手に塩を広げ、ふんわりとご飯をまとめていく。塩むすびだ。炊きたての米のほんのり甘い匂いにつられて、ふらふらとキッチンに吸い寄せられた。
「ちっ……ちゃ」
思わず飛び出たその声に、蛍は不思議そうに顔を上げた。
皿に転がったおにぎり。蛍の手から次々に現れるそれは、トーマの知るものよりもずっとずっと小さい。おままごとに使うおもちゃのようなころころと可愛らしいサイズ。こんなもの、トーマに与えたらぱくっと一口だ。
蛍の手が小さいことは理解していたつもりだったけど、両手を使って握ったってこんなサイズにしかならないなんて。改めて蛍の手を眺める。
「どうしたの」
「いや……手伝うよ」
試しに自分で握ったおにぎりを並べてみると、三倍……はあるだろうか。
突きつけられたその体格差。トーマはそんな小さな手に一体何をさせているんだ。
やはり蛍は自分が守ってやらねば、と深く深く決意した。ひとまず、残りの米は全てトーマが握ることにしよう。
突然やる気になったトーマに困惑していた蛍も、いつの間にかすっかり切り替えてその大きな背中にしがみつき、トーマの匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。
【プリンになりたい】
「期間限定」の文字が、家路を急ぐトーマの足を止めた。きらきらと輝くショーケースに並ぶ色とりどりのプリン。
蛍はきっと、キャラメルかチョコレートにするだろう。買うだなんて決めてもいないのに浮かんだその考えに、ついその店に引き寄せられてしまう。トーマの中の無意識にまで蛍が侵食していることが、照れくさくもあり嬉しくもあり。
早く喜ぶ顔が見たいと、いっそ駆け出しそうな程に急ぐトーマを迎える食べ物の匂い。焼き魚、煮物、カレー、自分の家はどれだろうかと想像するだけで、どれだけ疲れていても自然に心が弾むものだ。ずいぶん久しぶりだったその経験がまた当たり前になりつつある日々。
小さな幸せを噛み締めて玄関を開け、ぱたぱたと駆けてくる蛍を抱きしめる。いつもは長いことこのままなのに、今日は早々に埋めた顔を上げた蛍がトーマの腕をくいくいと引っ張った。
「あのね、プリン買ったの、期間限定なんだって」
「え」
いたずらっ子のような笑みを浮かべる蛍に引っ張られるままついていけば、冷蔵庫から取り出されたキャラメルプリンとチョコプリン。お店だって、フレーバーの組み合わせまで、ぶら下げた袋の中身と全く同じ。
「ごめん、被った……」
「あ!」
肩を落とすトーマとは反対に、いっぱい食べられるねとくふくふ笑った蛍は、四つのプリンを丁寧に並べた。
「お揃いだね」
「……うん」
「一緒に食べたくて買ってきたんだよ。トーマもそう思ってくれたの?」
「うん」
「ありがとう、嬉しいね」
サプライズも完全に成功したわけではないけれど、トーマが見たかった喜ぶ顔はここにあるし、蛍の言うようにたくさん食べられるのもいいことかもしれない。
どんなことでも楽しく受け止めてくれる蛍にどうも愛しさが溢れてたまらない。キスを落とそうと近づいたのに、先に手を洗ってこいと怒られてしまった。
でもまさか、丸被りするとは思わなかったな。
トーマが考える蛍の好みと、蛍が考えるトーマの好みが同じだったのだろう。それが元々の好みだったのか、一緒に過ごすうちに似てしまったものなのかはもうわからないけれど。