シリィ・カーニバル第2話06(終)「守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃ」
泣き出しそうな、泣くのを必死に堪えているような声に、レクトは顔を上げた。
見覚えがある気がする大きな杯から、止めどなく水があふれている。水は床に広がりながら扉を通って外に流れていく。水流の激しさに扉は閉まらない。閉めたところでいずれはあふれるだけ。
誰かが泣いている。
「止めなくちゃ。私が。聖下に託されたのだから。私が」
杯の縁に立つ誰かが、杯へと身を投じた。水の勢いが衰える。
このまま止まるのか。止まらなかったのか。わからないまま。世界が水に満たされた。
「守れなかった」
誰かが泣いている。水に沈んだ聖堂の中。杯の中にいる誰かが。
「私だけでは、堰になるには足りなかった。私ひとりでは。贄が足りなかった」
誰かがこっちを見る。泣き腫らした目が、レクトに手を伸ばす。
「モット。贄ヲ」
軋んだ声が、レクトの腕を掴んで。
レクトは答えた。
「えっと、ごはん食べる?」
いつのまにか手にしていたパンを差し出せば、影は戸惑ったように腕の力を緩めた。
水に滲んでよく見えないその顔が、やっぱりお腹が空いているように見えて、レクトは言葉を重ねた。
「よくわかんないけど、お腹空いてるときに独りで色々考えると、焦ってますますわかんなくなっちゃうよ。まずはいっしょにごはん食べようよ。僕もお腹空いたし……」
影がぼやける。そういえば、ここ水の中だけどパンふやけないかなと考えて、レクトは今の状況にようやく違和感を覚えて、
『一歩でも動いたら飯抜き!』
「ひぃごめんなさいっ!!」
カイの声に跳び上がった。背中を見る。カイの姿は見えない。暗闇に、光が走る。
『だいじょうぶ』
軽やかな声が、聖堂に穴を開けた。
水が流れていく。青空が見える。爽やかな風が頬を撫でて。
レクトは目を覚ました。
* * *
目を開けて、青空が一番に飛び込む。目覚めたばかりの朝の気配。盛大に腹が鳴り、勢いよく身を起こす。
「ごはん!!」
「第一声がそれか」
呆れたカイの声にふり返って、レクトは目を瞬かせた。カイはいつも通りの旅装で、不機嫌そうな表情もいつも通りだが、何かがおかしい。
すぐに違和感に気づく。小高い丘の上。見渡す限りの草原。遠くに森。視界を遮る物は何もない。
「あの遺跡は?」
「そこだ」
カイに指差され、ようやくレクトはすぐそこにある湖に気づいた。
湖の縁を飾るように、霊菫が咲いている。澄んだ水の底には、内側から爆散したような砦の残骸が横たわっていた。
「え? こ、壊しちゃったの?」
「違う。最初に砦を見つけたときから、もう異界に足を踏み入れてたんだ。異界を壊してランに還元させてみれば、この有様だ。クソっ」
骨折り損だと舌打ちして、カイは頭を掻いた。湖の底を浚うには神官の手を借りないといけないが、こうも破損していては神殿の許可が降りないだろう。
いつになく静かに、レクトが湖を見ている。魚でも探しているのかと思ったが、やがてぽつりと言った。
「夢でさ。砦の人が、洪水を止めようとしてたんだ。鏡水? の杯に身投げして……」
「同調を切ろうとしたのか」
鏡水は『青空を映す澄んだ水面』である必要がある。自死によって物理的にも霊的にも穢せば、水龍との接続を破壊するには十分だ。
それが手遅れになる前か後か、カイたちにも、当の神官にもわからない。死者の時間は死亡した時点で凍りつき、現世にしがみつけば前に進むことなく腐り続ける。
「あの人、ちゃんと眠れたのかな」
「さぁな」
そもそも、レクトの見た夢がどこまで正確かもわからない。意識を失うほど魔物に同調していたのを考えると、死者の記憶を垣間見ていてもおかしくないが、怖気づいている間に溺死したのを美化した記憶ということもありうる。わざわざ口にすることでもないが。
「おはよぅーっ」
夢の中でも聞いた軽やかな声が、レクトの耳朶を打った。
草に寝転がっていたランが、元気よく跳び上がる。解いていた髪がひとりでに黄色いリボンで結ばれて、白い寝巻きが赤い短衣に変わる。
溜め息を吐いて、カイは下り坂に足を向けた。
「行くぞ。お前が寝てる間にランから人里の位置を聞いた。
……今度こそ生きている人間のいるところなんだろうな?」
「いっぱいいる!」
カイの念押しに、何一つ安心できない笑顔でランが保証する。溜め息を吐いて歩き出したカイを、レクトが慌てて引き留めてくる。
「待ってよカイ! ごはんは!? 僕昨日から何も食べてない!!」
カイは無言で干し肉を投げた。
一応囮としては役に立っていたし、魔物との同調も、最終的には隙を作るのに役立ったのを加味しての破格の対応だったが、しっかり受け取りながらレクトはなおも叫んできた。
「待ってカイ! この澄んだ水でスープ作るから! 水によって食材と合う合わないがあるから調べないとっ」
「そうか。好きなだけ調べてろ」
「だから待ってってばぁ〜〜〜」
「しゅっぱ〜〜〜つ」
泣き顔で干し肉を齧りながら追いかけてくるレクトと、楽しそうに跳ねるランを置き去りにしたい衝動を抑えながら、カイは黙々と丘を下った。
一行を見送る湖が、お辞儀をするように波紋を立てていた。