シリィ・カーニバル第0話「吟遊詩人の歌と占い師の予言」 人混みのにぎわう大通りで、吟遊詩人は弦をつま弾き歌を紡いでいた。
道行く喧騒に歌のほとんどはかき消されていたが、詩人は気にした様子もなく歌を奏でている。彼の歌は上手くもなく下手でもなく、はっきり言って修練は積んであるが才能はない凡庸な歌だったが、詩人は気にせず好きなように歌い、人々も思い思いのままに騒いでいた。
心を騒がせるほどの力はない歌だから、町は喧騒に包まれたまま、静寂は訪れず、歌に耳を澄ませる人は誰もいない。
そして詩人は気にせず歌う。彼だけが知るこの世界の真実を、誰に聴かせることもなく。
「この世の果てに眠るのは 天地(あめつち)統べし神なる乙女
眠る彼女を探すのは 神を殺めし蒼き龍
幾千の海と空を越え されど再会は果たせず
龍もまた地に墜ちて 氷の棺に身を納めん」
目の前に誰かが立ち止まり、詩人は帽子をつまんで目線を持ち上げた。
詩人に影を投げかけたのは、二十かそこらの年若い女性だった。肩にかかる淡い金髪をゆるく結んでおり、薄汚れた旅装から旅人だと知れる。詩人はあまり興味がなかったが、やわらかい輪郭の綺麗な女性だ。顔も鼻もくちびるも小さいのに、つり目がちの薄碧の瞳だけが大きく丸っこい。
まじまじとこちらを見る彼女のくびれた腰に、小さな横笛が仕舞ってあるのを見て、詩人は言った。
「合奏はお断りしてますよ」
詩人の言葉に、女性は少し目を丸くした。ややあって戸惑いから覚めると、わずかに微笑んでみせる。
「ああ、違います。ちょっとお尋ねしたいことがあって」
「知りたいこと?」
あくまで弦を奏でる指は止めず、詩人は軽く自分の姿を省みた。古ぼけた三角帽子を目深に被り、羽織ったマントはぼろぼろに色褪せている。こんな乞食めいた人物に物を尋ねるのは、よっぽどせっぱ詰まっている人か変な人かのどちらかだと、いまいち自覚の薄い詩人にもいい加減わかっていた。
わかっていた、が。
「んー、いいよ。何?」
わかっていても、“面白そうだから”の一言で詩人から憂慮は消えてなくなる。
女性もにっこり笑って、彼女の知りたいことを尋ねた。
「若草色の髪に緑がかった金色の目で、人形みたいに顔立ちの整った十五歳ぐらいの女の子、知りませんか?」
「――…」
(知ってる)
懐かしい声が耳に弾けた。はつらつとした少女の声。若草色の髪。緑がかった金色の目。あどけなく笑う少女。
その容姿に該当する人物に、心当たりはあった。
しかし、一瞬の沈黙を挟み、詩人はにこやかな笑みを微塵も崩さず答えた。
「緑色だなんて、変わった髪の色だね」
にこやかに、親切そうに、言外に“知らない”と告げる。女性はすぐにそれを悟り、「そうですか」と答えた。特に期待してなかったのだろう、あまり残念そうではない。
「ごめんね。役に立てなくて」
「いえ、こちらこそお時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。
それでは、これで。お仕事がんばってくださいね」
お礼の貨幣を手渡すと、一礼して女性は詩人に背を向けた。
最後に、詩人はその後ろ姿に話しかける。
「ねえ、もしかしてその子、人間じゃないんじゃないの?」
女性は驚いた顔で振り返った。また声をかけられるとは思っていなかったのか、それとも、驚いたのはかけられた言葉の方か。
どちらにせよ、彼女はすぐに余裕の微笑を浮かべた。
「あら、ばれました? 実は私が探しているの、人間じゃないんですよ」
詩人は笑みを返す。
「へえ。じゃあなんだい? その女の子」
彼女は内緒話をするように人差し指をくちびるに当て、冗談めかして真実を告げた。
「龍(ドラゴン)」
歩み去る女性の後ろ姿と一緒に、腰に差された横笛が揺れている。どうせ礼をもらうなら合奏してもらえばよかったかな、と少し考えながら、詩人は再び歌い始めた。
町の雑踏は途切れることなく続き、ざわめきは止まらず、聴こえてくる歌に耳を澄ませる者は誰もいない。
誰もが思い思いに行き交うその町で、吟遊詩人が人知れず顔をほころばせていた。
「この世の何処かで眠るのは 泡沫(うたかた)揺蕩う碧き龍
眠る彼女を探すのは 地を這い生きる人間たち
幾千の朝と夜を越え かくて龍の元に辿り着く
そのとき、人の子よ 汝は何を望むのか」
* * *
木漏れ日の差し込める長閑な森。日射しで温もった平たい石に腰かけて、少女が膝に置いた寄木細工の箱を覗きこんでいる。
淡い紫の面紗【ヴェール】を顔に垂らし、透けて見えるまなざしはそれよりも深いすみれ色。覗いた口元と輪郭から察するに、年の頃は十代半ばくらいか。癖のない金髪を後ろで一括りにした、まだ幼さの残る愛らしい少女だ。
少女は掌に乗せた小さな箱を見つめ、瑞々しい唇を子猫のようにほころばせた。サイコロを振るように箱を宙に放る。
くるくると回る箱が模様を変えて、少女の眼差しが意味を読み解く。時間。距離。場所。景色。言葉。
箱が宙を踊り掌に戻るまでの数瞬。少女の瞳は瞬きを忘れ、ここではない何処かの景色を見つめていた。
* * *
寒々しくも澄みきった大気の立ちこめる草原を、背の高い青年が足早に歩いている。どこか苛ついた様子で、青年の乱暴な足取りに合わせて後ろで結んだ癖のない髪が激しく揺れる。
青年の背筋は苛立ちながらもまっすぐに伸び、長い足は規則正しく動かされている。髪と同じ濃茶の目は鋭く周囲を見渡し、怜悧に整った面差しは眉をひそめているせいで険が増していた。
唐突に、青年の視線がある一点で止まった。自然と足も止まる。なぜか、眉間のしわも深くなった。
何かに耐えるように腕を組むと、青年は何かをつぶやき始めた。耐えるように、祈るように。聞こえぬ言葉をつぶやきながら、その表情は段々と険しくなっていく。
と、物音がして、青年の睨んでいた繁みから黒い影が飛び出した。
「あ、カイ!?」
飛び出したのは、背が低く目が丸っこいせいで、やたらと幼く見える少年だった。自分の背より高い荷物を苦もなく背負い、細っこく見える手足は俊敏で溌剌としている。鈍い色合いの金髪はぼさぼさだが、頭上の空のように青いバンダナに覆われているせいであまり見苦しくはない。
「よかった~! 今度こそ置いてかれたかと思った!」
琥珀色の目を輝かせ、少年は満面の笑みで青年の元へ走り始めた。まるで迷子の仔犬が主人の元へ急ぐように、背中の荷物の重みを感じさせない足取りで、全速力で青年の元へ駆けていく。
それとは反対に、青年は立ち止まったまま、まだ何かをつぶやいていた。眉間のしわはますますくっきりとし、心なしかこめかみの辺りに青筋が浮き出ている気もする。
その様子に気づいたのだろう、少年は青年の近くで足を止めると、その険しい表情をおずおずと覗きこんだ。
「カイ、どうかしたの?」
少年のその言葉を聞いて、青年の中で何かが切れた。
切れたのは青年の血管だったのか、それとも俗に言う“堪忍袋の尾”だったのか。
鋭い眼光を向けると同時に、青年は右腕を少年に突き出した。青年の手のひらにバチバチと放電する物騒な雷球を見つけ、少年が青ざめて後ずさるが、遅い。
「どこをうろついていたんだお前はぁぁあ!!」
青い雷が地を奔る。
荒れ狂う青年の怒号と、轟き炸裂する雷光が、爆音と共に少年を吹き飛ばした。
* * *
「うぅ……だ、だってさ。声が聴こえたんだよ。泣いてたんだよ。可哀想だったんだよ!?」
「知るか。お前ごときに心配されんでも、その子猫の方がよっぽどしたたかだ」
少年の言い訳を一言で斬り捨てながら、青年――カイは呆れた様子を隠さなかった。馬鹿かお前はと暗に告げているまなざしを、仄かに焦げている少年に向ける。
「それで? 猫が呼んでいる声がしたから? ふらふらと歩いていって、枝から降りられなくなった猫を見つけ、親切に降ろしてやり、そうしてふと我に返れば自分のいる場所がどこだかわからず、しょうがないからその辺を散歩していたと、そういうことか?」
引きつった愉快な動きを見せるカイのこめかみを見上げながら、少年は恐る恐る、言った。
「え、と。散歩、っていうか、お腹が減ったからごはんを探し」
「同じだ」
容赦ない拳骨が飛ぶ。頭を押さえてうずくまる少年を半眼で睨みつけ、カイは鼻を鳴らした。
「全く。朝起きれば行方不明、少し目を離せば行方不明、狩りに行かせれば行方不明。行方不明になるのが趣味なのか? お前は」
「ううぅぅ、そこまで言わなくても」
頭をさすりながら少年が呻く。しかし非が全面的に自分にあることを自覚してか、痛がりつつもとりあえず手は動かし、荷物をまとめ出発の準備をしていた。
カイも一通り説教を終え満足し、普段の冷静な表情に戻り荷物を担いだ。何となく眉間のしわが定着しつつあるような気がするが、考えないことにする。
「よし、行くぞ」
短く言い放ち、ふり返らずに足を進める。少年が慌ててついてくる音がした。
「ちょ、ちょっと待ってよカイ! ごはんは!?」
「俺はもう食った。お前は抜きだ」
「そんなぁ!!?」
少年の悲鳴を聞きながら、カイは嘆息して遠くを見遣った。全く。これでは目的地に着くのはいつになることか。
一度だけふり返り、カイは少年に声をかけた。
「うだうだ言ってないで、さっさと行くぞ、レクト。今日中には菫橋(すみればし)の跡地に入るからな」
「うう……はぁい」
空きっ腹を泣かせながら、少年――レクトが後に続く。草原は遥かに続き、道程は遠い。
二人の旅人の背中を見送って、子猫が軽やかに喉を鳴らしていた。
* * *
掌に箱が着地して、少女の視界は本来の景色を取り戻した。微笑んで、少女は箱に向けて囁く。
「もうすぐ、迎えが来るよ」
その言葉は、風にさらわれていった。大気に溶けゆく音の波が、いずこかで眠る誰かに届く。
「待ってる」
うたた寝の返事を聞いて、少女は立ち上がった。木漏れ日を浴びながら、森の外へと駆けて行く。
お気に入りの物語のページを開くように、少女の目はきらきらと輝いていた。