にゃんともすてきな日々 自宅の作業部屋でボードのメンテナンスをしながら、暦は隣の椅子に視線をやる。
硬い椅子の上にクッションを乗せたそこに我が物顔で座り込み、ふんわりとした毛並みの尻尾を揺らしながら優雅にこちらを眺めている雄猫に、暦は首を傾げながら声をかける。
「ここに居て楽しいか?」
すると意味が通じているのかいないのか、目を閉じてふいと顔を背け、前足に頭を乗せて寝る姿勢を取り始めた彼に、そうですかと肩をすくめて作業に集中する事にした。
メンテナンスを一通り終えてオイルのついた手をタオルで拭っていると、徐に立ち上がった彼が作業机に飛び乗る。止める間もなくボードの上に乗ってすんすんと鼻を近づけるのを眺めて、暦は首を傾げた。
「オイル臭いんじゃねぇ? 平気か?」
オイルが拭いきれていない手で彼に触れるのを躊躇っていると、ひょいとボードから降りた彼は当たり前のように暦の膝に飛び移ってそこで丸くなる。ズボン越しに感じる温もりに和みかけるが、このままだと立ち上がれない事に気付いて眉を下げた。
「なぁ、手ぇ洗いに行きたいんだけど」
ダメ元で声をかけてみるが、そんなことは関係ないと言わんばかりにそっぽを向く。仕方なく、タオルで出来る限り手を拭ってからふんわりとした身体を持ち上げようとするが、気に入らないのかふしゃあと声を上げられてしまった。
「なんだよ、そっちにクッションあるだろ?」
「なぁご」
「なんだよ、嫌なのかよ」
母屋の方に行けば、妹たちがこれでもかと構ってくれるだろうに。
「んなぁ」
ぐりぐりと腹の辺りに頭を押し付けられて、撫でろと言う催促なのかとそっと背中を撫でてやる。長毛種特有のふわふわと触り心地の良い毛並みは、撫でている側としては心地良いが、オイルが付くと絡まってしまう。手の甲でそっと撫でてみたが、お気に召さないのか低い唸り声がする。
「ワガママだなぁ」
オイルついても知らねぇぞ、と手のひらで撫でてやるとぐるぐると喉が鳴った。どうやらご満足いただけたらしい。
鮮やかな青みがかった毛並みを堪能しながら、しばらく背中や頭、尻尾を撫でてやる。されるがままになっている姿に、大分打ち解けてくれたなと思わず口元が緩むのを止められない。
彼は、元々別の家で飼われていたらしい。
飼い主である女性が高齢と痴呆症の悪化により施設に入居する事になり、迎えの人間が家を訪問した際に放置されている彼が発見されたのだという。
恐らく、飼い主の女性の調子が良く記憶が安定している時は餌を与えられていたのだろうと思われる彼は、掃除の手が回らずに散らかった部屋の隅で、殆ど餌を与えられず、長い毛にゴミやら埃が絡まった、毛玉に近い酷い状態で、保護しようとした人間を威嚇して近付こうとしなかったらしい。
そんな彼は保護猫のボランティア団体のスタッフによってなんとか保護されたものの、入れられたケージからは殆ど出ず、餌と水は辛うじて口にするものの、触れようとする人間にはかたっぱしから威嚇をするような状況で、せめて絡まった毛をなんとかしてやりたいとスタッフを悩ませていたのだが、そのうちの一人が暦の母の友人だったのだ。
保護猫の保護や譲渡会などの活動をしている彼女が、このままだと次の出会いがなくなってしまうと困り果て、話を聞いた母・正恵が、人慣れのリハビリを兼ねて一時的な預かりを申し出た事で、喜屋武家に仮の家族が増えたのだった。
余程困っていたのだろう。少しでも良い方向に転がればという願いと共にケージに入れられてやってきた彼は、初めボロボロのぬいぐるみかと思うような見た目をしていて、居間の隅に置かれたケージからは決して出てこなかった。
珍しい生き物に興味津々の七日や千日は構いたくて仕方ない様子でケージを覗き込んでいたが、正恵から、出てきたいと思うまではこちらから無理矢理撫でようとしないこと、と言われたのを守ってじっと眺めては、餌やりの度にどちらが運ぶかケンカして、その様子を暦は月日と一緒に微笑ましく見守っていたが、彼はそのまま一週間経っても二週間経ってもケージから出てこなかった。
はじめはにゃんにゃんと声をかけていた七日と千日も、ただ静かにケージからこちらを見ているだけの彼に段々慣れて、餌やり意外では積極的にケージに近寄らなくなった。掃除係を割り当てられている月日と暦も一先ず様子を見てはいるが、このままではあまり預かった意味が無いのではないかと思い始めたころ。
ひょっこりと、本当に何気なく彼がケージから出てきたのだ。
日曜日。朝から公園に遊びに行って力いっぱい遊んだ七日と千日が、縁側で昼寝をしていた。その小さな体に毛布をかけてやっていた時だ。
千日の頭の近くに毛玉が居た。初めは何かと思ったが、ケージの近くだった事を思い出してまさかとケージを見ると、そこには何もいなかった。
「……もしかして、お前」
動き難そうに身体を動かしながら、毛玉が暦の足元に寄ってくる。触れて良いのか迷ってそのまま様子を見ていると、掠れた声がした。
「……触るぞ?」
ゆっくりと手を近づけてみると、絡んだ毛の向こうで静かな瞳がこちらを見ているような気がした。そのままそっと頭の辺りに触れると、ごわりとした毛の感触と、その下の微かな体温を感じる。手触りの悪い毛並みを何度か撫でていると、微かに暦の手のひらに頭を押し付けてきた。ごろ、と微かに聞こえた音が嬉しくて、そのまま何度か繰り返してみる。
抵抗する様子がないので、そのまま正恵を呼んでぬるま湯とタオルを用意してもらうと、絡まった毛を濡らして少しずつ汚れを取っていく。整えることは出来なくても、少しはマシになるはずだ。暦のしている事がわかるのか、されるがままになっている彼を胡坐を掻いた足に乗せてひたすら毛を拭う。湯が汚れると取り替えてそれをしばらく繰り返していると、少しずつ青みがかった毛色が見えてきた。背中、足、尻尾と繰り返して、最後に顔回りを拭ってやると、絡まった毛に隠されていた紅い宝石のような澄んだ瞳が現れた。
「……すっげ、綺麗だな」
手触りの幾分良くなった毛並みを撫でてやると、ゆっくりと目が細められる。
「毛、ちょっと邪魔だよな。切ってもらおうな」
「んなぁ」
まだ少し掠れた声で、まるで暦の言っている事がわかるように答えたのが面白くて、つい噴き出してしまう。
「イケメンにしてもらおうな」
前足を持ち上げて握手するように上下に振ってやればふん、と機嫌が良さそうに鼻を鳴らした。
それから保護主に連絡をしてトリマーを手配してもらい、改めて全身をしっかりと綺麗にして毛並みを揃えた彼は、ぼろぼろのぬいぐるみに見えたのがウソのように美しくなって帰ってきた。青みがかった毛色もふかりとした毛並みも、宝石のような紅い瞳も、どこをとっても間違いなくイケメンならぬイケネコであった。
そんな彼は、ケージを出たその日から家の中を好き勝手に歩き回るようになった。七日と千日が喜んで撫で回すのも、ある程度は付き合ってくれている。あまりしつこくすると逃げ出すらしいが、それでも引っ掻いたりせずに辛抱強く付き合ってくれていると思う。
不信感が薄まったのかだいぶ家族とも親しんでくれているようだし、そろそろ保護主のところに戻しても問題ないのではないか。
撫でろと手のひらに頭を擦りつけてくるのを撫でてやりながら出会った頃の事を思い出して、近いうちに訪れるだろう別れを思って、つい「寂しくなるな」と零してしまった。
「いって!?」
がぶり、と撫でていた手を思いきり噛まれて、油断していた暦は思わず声を上げた。
「なにすんだよ!」
噛まれた手を押さえて怒ると、ふしゃーっと声を上げられた。
何故こっちが怒られるのかと納得がいかないが、何か気に食わない事があったらしい。暦の手を前足で器用に捕まえると、そのままがぶりともう一噛みされた。
「痛い! いってぇよ!」
思わず振り払ってしまったが、そのまま難なく綺麗な着地を見せると、ふぎゃーっと一鳴きして居なくなってしまった。
「なんだったんだよ……いってぇ」
噛まれたところから血が滲んでいて、甘噛みではなかった事に少しばかりショックを受ける。
仲良くなれたと思ったのに、と傷口を水で流しながら思わずため息が零れた。
「それ、寂しかったんじゃない?」
「寂しい?」
晩ご飯のゴーヤチャンプルーを摘まみながら、暦の手に残った噛み痕を見た月日が言った。
「だってあの子、おにーちゃんに一番懐いてるし」
「……そうか?」
「そうでしょ」
そうだっただろうかと、ご飯を口に放り込みながら考える。確かによく撫でろと要求される気がするが、そんなに懐かれていただろうか。
むずむずとする口元を抑えながら、そうだったら嬉しいと横目でケージを見る。早々に食事を終えて、ぺろりと前足を舐めている彼は、暦の視線に気づいたのかぷいとそっぽを向いてしまった。
「……怒ってる」
「あとでおやつあげれば?」
「そうする」
許してもらえるかはわからないが、出来れば仲直りがしたいし、また触り心地の良い毛並みを堪能したい。
そんなことを考えながら、早く夕飯を終わらせてご機嫌取りをすべく目の前の皿に集中することにしたのだった。
******
翌日。
あの後、おやつをあげて平謝りをした結果、少しだけ撫でさせてもらえるようになったが、ご機嫌はいまいち直らなかった。
どうしたものかと昼休みにスマートフォンで機嫌をとれそうなおやつやおもちゃを検索していると、隣でジャンボサイズのパンを食べていたランガがその画面を覗き込んで首を傾げた。
「……暦、猫飼ってたっけ?」
「んー、飼ってるっていうか、一時的に預かってるっていうか」
「へぇ、どんな子?」
「えっと……美人?」
「ふうん?」
「毛並みがふわふわで、すげー気持ち良い」
「写真ないの?」
「あるぜ、ほら」
画像フォルダから気に入っている写真を表示させてランガに見せると、不思議そうに首を傾げる。
「なんていうか、偉そうだね」
「それなー」
元々の性格もあるのかもしれないが、堂々として優雅なその様子は、どうにも血統の良いおぼっちゃんのようなのだ。ただ座っていても、寛いでいても鷹揚に構えているように見えて、写真を撮るとやたらと偉そうに見える。そんなところが少し愛抱夢に似てると思うのは、暦だけの秘密だ。
「カリカリとかのドライフードより缶詰が好きだし、刺身食べてると良いところ欲しがるし」
「食通だね」
「そうなんだよ、しかも絶対俺の狙ってくんの」
「貰えるのが分かってるんだな」
「まあ、分けてやるけど」
「やっぱり」
ばくりと大きな口でパンを頬張りながら、ランガは頷く。
「だって、腕のところに前足乗せてくるんだぜ? 身を乗り出して、目をキラキラさせてんだぞ? 断れるか? 断れねえよ、なんだあれ可愛いだろ」
「わはっひゃよ」
「飲み込んでから喋れよ」
「……分かったよって言った。でも、預かってるだけなんだろ?」
「……そうなんだよなぁ」
「いつまで預かるの?」
「人慣れが目的だから、そろそろかも……」
「暦はそれで良いの?」
「え?」
ペットボトルのフタを開けながら、ランガが暦を見る。
「だって、寂しそうだ」
「……っそれは、だって、仕方ねぇじゃん」
家に来たばかりの姿を思い出す。ケージの中で静かに過ごしている姿と、今の気ままに家中を歩き回る姿を思い出して、罪悪感で胸が締め付けられる。
少しずつ心を開いてくれたのに、約束事とは言え人間の都合で別れを告げなくてはいけないのだ。
「それって、暦の家で飼ったらダメなの?」
「へ?」
預かるだけだと聞いていたが、どうなのだろうか。確か、保護猫を飼うには色々と厳しい条件があると保護主から聞いたが、暦の家はどうなのだろう。
「聞いてみたら?」
「で、でも……」
「聞いてダメでも、別にいいだろ。後でやっぱ聞いとけば良かったってなるより、絶対良いと思う」
「うぐ……」
「帰ったら、聞いてみなよ」
「……おう」
スマートフォンの画面に映るねずみ型のおもちゃを見て、これで遊んでくれるだろうかなんて考えてしまう辺り、自分は大分あのワガママな猫に夢中らしい。
駄目で元々だ、とスマートフォンを握りしめると相棒に礼を言う。
「さんきゅ、ランガ」
「お礼はプーティーンで良いよ」
「へいへい」
笑いながらDAPを交わして、暦は弁当の残りに箸をつけ始めた。
******
「あら、暦も?」
「へ?」
帰宅してすぐ、決心が鈍らないうちにと台所で夕食の支度をしていた正恵を捕まえて、彼を正式に喜屋武家に迎えたいと伝えた暦は、正恵の予想外のリアクションに、ぽかりと口を開けた。
「七日に千日、月日もそう言ってるのよねぇ」
「そ、そうなの?」
「そうよぉ、おばあやお父さんとも話してね、ちょっとお願いしてみようかしらって言ってたところなのよ」
頬に手を当ててころころと笑う正恵に、思わず肩から力が抜けた。
生き物を飼うのは、とかくお金がかかる。理想だけでは飼う事は出来ないし、特に犬や猫は長ければ十年近く大切な家族の一員として共に過ごすのだ。
どうやって説得をしようかと考えていた事が一気に解消して、思わず安堵する。
「まぁ、引き取るってなると手続きとか色々あるみたいだし、まだ決まってはいないんだけどね」
「分かった」
ふとズボンの裾を引かれて視線を下げると、自分の話をしているのが分かっているのか、こちらを見上げている宝石のような瞳と目が合った。じ、と伺うようなその目に思わずしゃがみ込むと、頭をそっと撫でながら話しかける。
「なぁ、このままうちに居ろよ。たまになら、刺身分けてやるからさ」
「なぁん」
返事をするように鳴いて、手のひらに頭を擦りつけてくるのが嬉しくて、よしよしと何度も撫でる。と、満足したのかするりと離れて行ってしまう。それを追うように台所を出ると、彼は勝手知ったるとばかりに廊下を悠然と歩くと、僅かに開いている扉から暦の部屋に入っていく。
ちゃんと扉を閉めていなかっただろうかと首を傾げながら急ぎ足で追うと、彼はベッドの上で丸くなっていた。夕食まで、ここで寝るつもりだろうか。
足元に危ないものが落ちていないかを確認しながら制服を脱いで適当にハンガーにかけると、起こさないようにベッドに座って壁に背中を預ける。
丸まった身体をそっと撫でながらお気に入りの雑誌を広げて、夕飯までの時間を一人と一匹で過ごすことにしたのだった。
******
結論として、無事に彼は喜屋武家の一員として正式に迎え入れることが決まった。
具体的な手続きは両親が行っているので分からないが、今回は特例として認められたらしい。それも、彼が見違えるほど元気になっていると言うことと、保護団体のスタッフがケージに入れて連れて帰ろうとしたのを威嚇して拒否したからである。
分かりやすい拒絶に困ったように笑った母の友人でもあるスタッフの女性は、そう言う事ならと手続きを進めてくれることになった。元々、友人として正恵の人となりを知っているのも良かったのかもしれない。どちらにしろ、これで彼は正式な家族なのだ。
「良かったな」
「なぁお」
浮かれて全身を撫でてやると、珍しくされるがままになってくれる。きっと彼も喜んでいるのだろうと思うと、暦の喜びも増していく。
「そう言えば、お前の名前ってなんていうんだろうな」
預かった当初に正恵が名前を確認したが、飼い主だった女性が名前どころか彼の存在を認識できていない状態だった為に分からず、なんとなくそれぞれが適当な名前で呼んではいたが、どれもいまいち反応してもらえなかった。
正式な家族になるのであれば、一応統一した方が良いのではないかと思っていると、スタッフがぽんと手を叩いた。
「そうそう、この子の名前が分かったんですよ」
「え、そうなの?」
「ご本人にはまだ確認が取れてないんですけど、動物病院に通っていた書類が出てきて、その病院に問い合わせられたので」
「あらぁ、分かってよかったわねぇ」
「ええ、本当に」
「それで、なんて名前なの?」
「ねこちゃん、お名前なにー?」
「なにー?」
正恵にくっついて話を聞いていた七日と千日も、興味津々でスタッフを見る。暦も気になって、撫でていた手を止めた。
「らぶちゃん、です」
「……らぶちゃん?」
「そう。愛って書いてらぶ。らぶちゃん、までが名前」
「え、らぶちゃんくん……?」
「ほら、首元の毛の模様がハートっぽいから、それでじゃないかなと」
独特のネーミングセンスに、思わず家族全員が彼こと『愛ちゃん』に注目する。愛ちゃんは、視線の意味が分かっているのかどこか居心地が悪そうだ。
そんな彼に、暦は恐る恐る呼びかけてみた。
「……らぶちゃん?」
「……ぬぁうん」
嫌々、というか渋々、というか。聞いたことが無いほど低い声で鳴いた彼に、暦も家族も、スタッフも思わず笑ってしまったのだった。
愛ちゃんのご機嫌が直るまで、一週間程撫でさせてもらえなかったのは、余談である。