悪魔の夢に味覚はあるか カチャカチャとキーボードを打つ音、廊下からたまに聞こえる学生たちの騒がしい声、それ以外はほとんど何の雑音もない。いつもの新聞部、いつもの放課後だった。
「メフィストはさ、寝てる時に夢は見るタイプ?」
今やすっかり俺の定位置となった隅っこの壁際から、デスクに向かうメフィストフェレスの後ろ姿に話しかける。
「夢? 覚えていないな」
メフィストは甚だ興味が無さそうな様子で、振り向きもせずに答える。
「じゃあ、見ないってこと?」
「覚えていないから分からないと言っている」
仕事の邪魔をされてメフィストは至極面倒くさそうだ。
「ふーん、そうなんだ。俺は結構見る方なんだよね、夢。で、さぁ……」
俺は強引に話を進めた。
子供の頃から毎晩のように夢を見ている。現実味のある夢から、突拍子も無いファンタジーまで、その内容はバラエティに富んだものだった。そして、どんな夢も起きている時と同じように五感で感じることができた。色も、音も、感触もリアルにそこに存在していた。
ただ、目が覚めるとすぐに忘れてしまうし、一部分しか記憶に残らないことも多かった。夢日記をつけてみたこともあるが、文字に起こすと現実の記憶とごちゃごちゃしてしまうのですぐにやめた。
「俺、昔見た夢で、どうしても忘れられない味があってさ。味も見た目も普通のイチゴゼリーなんだけど、なぜかそのゼリーのことがどうしても忘れられないんだよ」
「ふん、それで? それがどうしたというんだ」
俺はすくっと立ち上がる。そして、椅子の後ろからグイッと回り込んで腕を伸ばし、メフィストの眼前にD.D.Dを差し出した。
「……それが、あったんだよ。魔界に」
「んッ!?」
画面が近過ぎてよく見えなかったらしいメフィストが、顔を後ろに引きながら目を細める。
「なんだ……? デビルグラム……?」
「そう! 最近オープンした和風カフェ。ここのメニューに、夢のゼリーが載ってたの」
画面に表示されているカフェのデビグラには、寒天やかき氷などの涼しげで夏らしいスイーツの画像が並んでいる。はっきりとした毒々しい色が多い魔界スイーツにしては珍しく、淡く清涼感のある優しい色味だった。
「えっとね、これ。これ見て」
後ろから身を乗り出してタッチパネルの操作をするのがやりづらく、段々とメフィストの首に巻きつく襟巻きのような体勢になってきた。それにしても、夏だというのに、メフィストからは嫌な臭いのひとつもしない。
「このゼリー。色も形も夢で見たままなんだよ。絶対に食べたい」
「は? これが? こんなどこにでもあるようなゼリーが?」
俺が指差した画像をメフィストが二度見する。そして拍子抜けした声を出す。
「これなら、RADの食堂にも同じようなものがあるだろう」
「いや、確かにそうだけど、違うんだって。これに間違いないって気がするんだよ」
呆れられてしまったが、確かにメフィストの言うことも分かる。夜空に星が瞬くような寒天や、薄紫の紫陽花が細工された練り菓子、色とりどりのフルーツが散りばめられたハーバリウムのような蜜豆……そんなメニューの中で、俺が差しているのは「いかにもゼラチンを固めただけのシンプルなゼリー」なのだった。山型のゼリーをガラスの皿に盛り、生クリームとチェリーを一粒添えただけの素朴なものだ。昭和レトロ、といえば聞こえがいい。
「ね! 一緒に行こうよ、今から」
「今から!?」
メフィストの首に巻き付いたままゆらゆらと体を揺らす。メフィストは「はぁ」と大きなため息をつき、パタンとノートパソコンの画面を閉じた。
「行けば静かになるのか、お前は。……仕方がない、少しだけ付き合ってやる」
「やったぁ」
そのまま首筋に頬擦りをして戯れつくと、メフィストが俺を引き剥がそうと腕に力を込める。
「「こら、やめろ」」
その時だった。メフィストの声が二重に聞こえ、俺の脳内スクリーンには今起こったことと同じ光景が映し出されていた。記憶の映写機がカラカラと回り、現実が既視感に重なって進行する。
(……デジャヴ?)
今までの会話や俺を見つめるメフィストの表情にも見覚えがあった。
(まさか、そんな)
「おい、聞いているのか? せっかくニューオープンのカフェに行くんだ。使えるかどうかは別として、記事にできる程度の取材とレポートをしておけと言っている」
メフィストに声をかけられるうち、既視感は徐々にフェードアウトしていき、はっきりとした現実が戻ってきた。俺は何でもなかったように返事をする。
「え、取材? それって経費で落ちるってこと?」
「ふん、そういうことは使える記事を書けるようになってから言え。ほら、時間がないんだ。さっさと行くぞ」
「ケチだなぁ」
デスクの上をバタバタと片付け、身支度を整えながらメフィストは部室の鍵を手に取った。身支度という身支度もないが、俺も何となくズボンの埃を払ったりポケットの財布を確認したりして動きを合わせる。
さっきの既視感は、昔見た夢のもので間違いない。
すると、現実で出会うよりもずっと前に、俺とメフィストは夢の中で会っていたのだろうか。
(俺が忘れられなかったのはゼリーのことだけだったのか?)
運命だとか予知夢だとか、そういったものはあまり信じない。しかし、それでも、あの夢で食べたイチゴゼリーの味が、これからメフィストと食べるイチゴゼリーの味と同じなら、それはそれで全然ありだと思うのだ。