平安時代AU 第7話三日目の晩が明ける頃、江澄は準備していた言葉をやっと曦臣に伝えた。
「曦臣、そろそろ私も宮中に戻ります。これ程長くお休みをいただいたのは初めてですし、もう仕事に戻らないと」
金家に行かずに帝の別邸に行った。しかもそこで三日も過ごしたことが宮中でどう広まっているか予想はできる。きっと入宮した時以上に悪い噂が広まり腫物のように扱われるだろうとわかっていた。しかし、江澄の居場所は宮中にしかなく、時が経てば経つほどに戻りづらくなるだろうと、悩んだ末にその言葉を発したのだ。
その言葉を聞いた途端、それまで心底嬉しそうに腕の中の江澄の髪を撫でていた曦臣が少し困った顔をした。
「まだ色々と準備を整えないといけないから、私が呼び寄せるまではここにいて。宮中のことも阿澄が心配することは何もないよ。」
準備とは何だろうか、自分のことで想像以上に良くない事態が起きているのだろうか。そう訊こうとしたところ、曦臣は口付けで江澄の言葉を遮り「いいね?」と念押しした。もしや、自分だけでなく実家や嫁いだ姉達にまで何か悪いことが起きたのではないかと、江澄の顔に影が過った。曦臣はその影を振り払うように江澄の額に口づけを落としていく。
「阿澄に肩身の狭い思いは絶対にさせない。誰が相手でも私があなたを守る。私の美しい蓮の花、どうか今少しこのままで。」
朝の光の中、宮中に戻っていく牛車を見送ると、寝所には曦臣の和歌が残されていた。初めての日の朝も残されていたためこれで三通めだ。雲母がきらきらと輝く薄水色の紙に、誰よりも美しい字で江澄への想いを純粋に詠んだ和歌。自分のような者が受け取るには、何もかもが綺麗すぎて不安になる。
使いの者が外で待っているため、曦臣への返歌をしたためないといけなのだが、いつも筆がとまってしまう。曦臣と同じように私もあなたを恋い慕っているのだと、ずっと側にいたいのだと詠んでいいのだろうか。本当に今の自分の行いは大丈夫なのか、曦臣の別邸で側室のように振舞っていることはとんでもない間違いなのではないか。そんな思いがぐるぐると頭を巡っていく。
(何が最善なのか、こんな時どうすればいいのか、誰か…、誰でもいいから教えて欲しい。)
しかし、江澄が頼れそうな者はいなかった。姉や無羨に文を出そうかとも思ったが、今の状況をどう説明すればいいのかわからず、二人を悩ませることはしたくないという結論にしか行きつかなかった。
何もすることがなく浮世離れした別邸で一人過ごしているとどうしても思い悩んでしまう。起きているうちで悩まずに済むのは、夜に訪れる曦臣に甘く愛しまれている時だけだった。江澄が曦臣に手を伸ばせば、いつも温かな手がそれを迎えてくれた。
(どうか、少しでもこの関係が続いてほしい、この美しい夢が醒めないでほしい。)
そう願いながら季節が一つ過ぎ去り、その頃から曦臣の訪れが徐々に減っていった。
この別邸は曦臣以外に訪れる者はおらず、見張りの者や使用人はいるが江澄と言葉を交わすことはない。だから宮中や都の話は江澄の耳には入らず、屋敷から見える美しい景色と静けさにより、本当に現世から離れたようだった。
しかしこの日は突然の来客により、その静謐さが色を変えた。
「江澄!よかった、ようやく会えた!」
「無羨…!どうしてここに!?」
「藍湛が帝に掛け合ってくれて、江澄の話し相手ってことでやっとこの屋敷に入らせてもらえた」
久しぶりに見る無羨の無邪気な笑顔に、江澄もつられて微笑みが零れた。無羨が嫁いで以来の再会であり、今や立場も変わってしまったというのに昔と何一つ変わらない接し方をしてくれることが、口にこそ出さないが本当に嬉しかった。
他愛もない話が無羨の口からぽんぽん出てくるのを聞いていると、ふと姉と無羨と江澄で過ごしていた婚約が破断される前のあの日々に戻りたいという寂しさに襲われた。
その想いが表情に出ていたのだろう、無羨が心配そうに江澄を覗う。
「江澄が宮中からいなくなったって聞いた時は本当に驚いた。物の怪に攫われたんじゃないかって、宮中も左大臣家も騒ぎになったから。そうしたら、帝の別邸で過ごしてるってわかって、それまた大騒ぎ。今や都の貴族で江澄の名を知らない人なんていないくらい」
「とんだ恥知らずだと…。江家や姉上達にも迷惑をかけてしまった」
「違う違う!そういう意味じゃない。あの穏やかな帝が別邸に連れ去るほど執心して寵愛するだなんて、どんなに美しい姫なのかって意味!」
明るく笑って励ましてくれるが、江澄にとっては余計に気を重くさせた。自分は曦臣に相応しい姫などではない。取り得も後ろ盾もなく、曦臣に見捨てられてしまえばこの最後の居場所すら失くしてしまうような何もない人間だ。曦臣への愛と曦臣から向けられる情しか持ち合わせてはいないのだ。
「それにしても帝も。いくら宮中や左大臣家のことで忙しいからって、こんな都の外れに江澄を置いたままにするだなんて!」
「左大臣家?何かあったの?まさか、姉上にも何か…!」
「違うって。決まってるでしょ、帝がついに結婚するからその準備で忙しいんだよ。」
その言葉に江澄は思考が凍り付いた。曦臣が左大臣家の姫とついに結婚するのか。それはそうだろう。自分は確実に訪れるその時を怖れて、受領の妻になってでも都から離れようとしたのだから。
(ついにその時が来てしまった。所詮夢は夢でしかないのだからこうなることは仕方なかった。けれど…やっぱりいつまでも醒めない夢を見ていたかった…)
「阿澄…、顔色が悪いね。どうしたの、具合が悪い?」
「どうもしてない、気のせいでしょう」
こんな日に限って曦臣は夜に訪れた。自分がどんな顔をしているかわからず、なるべく袖で口元を隠していたというのに、曦臣は江澄の少しの変化も見逃そうとしない。
「こんな都の外れに阿澄を置いたままにして申し訳ないと思う。けれど、今少しだけ待っていて」
(曦臣と左大臣家の姫との結婚の儀が終わるまで?)
そう問うてしまいたかった。けれど、せめて曦臣の口から言ってほしかったのだ。帝ならば皇后以外に側室がいることは普通のことだ。自分はその側室の一人なのだとちゃんと曦臣の口から告げてほしかった。
左大臣家の姫との結婚は今この時も江澄の心から血を流させていたが、それについてはもうどうにもならないことだ。せめて曦臣の結婚を人づてに聞いて傷つくよりも、曦臣に傷つけてほしかった。
「曦臣…、私に何か隠していることはない?」
「何故そんなことを?誰かに何か言われたの?」
「何も…、昼間に無羨が少し話をしてくれて。宮中が今忙しいようだったから。曦臣が無理をしているのではと思っただけです。」
「最近、こちらに毎晩赴くことができずにすまない。けれどもうすぐ…、もうすぐ阿澄を宮中に迎え入れられる。そうしたらずっと阿澄と一緒にいよう。」
曦臣の手が袖に隠れた江澄の手を握る。温かい手に包まれているというのに、この日はいつまでたっても手が冷たいままだった。
結局、曦臣の口から真実は語られることはなかった。
江澄にとって安心の象徴でもあった曦臣の腕の中で、今や暗澹たる思いを抱えていた。
(結婚することすら教えてもらえないような、私は曦臣にとってそんな程度の相手なのかもしれない。)
曦臣は別邸に連れ去った当初は毎晩別邸を訪れてくれた。それは、雨のなか直衣が濡れるのも構わずに馬を駆けさせ訪れたこともあったほどに熱心なものだった。しかし、最近は徐々に足が遠のいている。それは左大臣家の姫君との結婚が控えているからというだけでなく、もう自分への気持ちが薄れているからではないだろうか。
(とんだ勘違いをしていたのかもしれない。側室どころか都合のいい時に少し相手をするだけの女、それが私だったのではないだろうか。そうか、だから宮中に戻そうとしているのか。ここに来る前のように、女官として宮中へ戻り、都合のいい時だけあの秘密の戸を開けて逢瀬を繰り返すために)
このままでは本当に曦臣から飽きられてしまう日を怖れながら過ごすことになる。曦臣から情を向けられなくなれば、ますます宮中での生活は苦痛に満ちたものになるが、かといって江澄には最早帰れる実家も嫁げる場所もない。
(そんな…、そんなのはいや。宮中に戻りたくない、どこか遠くへ逃げてしまいたい。けれど私にはもうどこにも居場所がない。
…いや、あるではないか。一つだけ。誰の迷惑にもならず、自分の名を落とさずにも済む方法が、身を置ける場所が。)
最愛の人を抱きしめ幸福の中で眠っている曦臣には、その最愛の女性がどんどん深みに嵌った思考を繰り広げているとは思いもよらなかった。
朝が来て曦臣が別れを惜しみながら何度も江澄を振り返り宮中に戻っていく。曦臣を乗せた牛車が小さくなっていくのを見届けると、すぐに侍女を呼んだ。
「姫様、どういたしましたか」
「今からここの寺に行き、僧都を呼んできてほしい。身体の調子が良くないから加持祈祷をお願いしたい。」
「やはりそうでございましたか。それなら主上にお頼みして薬師も呼んで参りましょう」
「やめてっ!」
「姫様?」
「こんなことで主上の手を煩わせたくない。ここの寺院は代々江家と懇意にしている。まずはここの加持祈祷を受けたい。手紙を書いたからなるべく早く僧都を連れてきて」
侍女は江澄の真意を知らずに言われるがままに僧都を連れてきた。幼少より面倒を見てくれた侍女を騙すことは心が痛かったが、もうこれ以外の方法はない。
「姫君、どのような加持祈祷をお望みでしょうか」
「髪を降ろしてほしい」
「今何と…」
「私は出家します。ですから、髪を降ろして」
「何をおっしゃっているのですか!帝は、ご実家はこのことをご存じなのですか!」
「主上も、実家も…、私が出家しても何一つ困りはしない。私自身が決めたことです。今日より御仏の弟子として過ごしたいのです。」
「尊いお考えではあります。しかし、そのような大事なことをお一人で決めてはなりません!」
「江家は!あなたの寺院に長年寄付をしてまいりました!その江家の一員である私が申しているのです。早く私の髪を降ろしなさい」
「しかし姫君、…今少しお考えになる余地はないのですか。」
「ありません。気の迷いで言っていることではないのです。きちんと考えて決めたことです。」
江澄の意志が固いと認めたのか、僧都は準備をしてまいりますとだけ言って退室していく。その後ろ姿を見て、江澄は強張っていた身体からふっと力が抜けた。
(これでようやく、誰にも左右されない生き方ができる。
今までの人生も曦臣への想いも髪と一緒に断ち切り、今後は本当に一人きりで生きていかなければならない。
母上にも姉上にも無羨にも、そして曦臣にももう会えないけれど。それが辛くないわけではないけれど。大丈夫、寂しいことには慣れてる。
大丈夫、私は一人でも大丈夫。)
控えの部屋では僧都を囲むようにして弟子達が焦り騒いで指示を仰いでいた。
「お師匠様、どうなさるのです!まさか帝の寵愛を一身に受けている姫君が出家したいなどと。本当に髪を降ろしてしまわれるのですか!」
「江家の末の姫君は物の怪に憑かれているのやもしれません!そうでなければ、お優しい帝からのご寵愛を受ける身で現世に何の不満があると言うのです!」
「お前達、落ち着きなさい。髪を削ぐための刃物も持ってきてはいないし、経典やら装束やら準備にもそれなりに時間はかかる。誰か使いを出して江家に伺いをたてて来なさい。当主様が許可したのなら、姫君の望み通り出家させて差し上げよう」
治癒のための加持祈祷に呼ばれたはずがまさかの事態となり、経験の浅い弟子だけでなく年配の僧都ですらどうしたものかと頭を痛めた。
この時、控えの部屋での会話をこっそりと聞いている者がいた。