昼の月 梅雨はまだ終わらない。夢を見た。
夢の中で七海は高専にいた。前方に一学年上の先輩たちがいて、わいわいと何か賑やかそうにしていた。うちの一人、茶色い髪の小柄な女性が振り向く。家入さんだ。七海、と彼女は言った。「灰原、帰ってきたぞ」
「本当ですか」七海は言った。嬉しかった。胸の中がパァと明るくなって「灰原」目が覚めた。
七海は自宅のベッドの上で目を開いた。夢だ。そう思った。心臓は別にドキドキもしていない。呼吸も。全てが穏やかな中で、ただ、夢の中のあの強烈な嬉しさだけが七海の胸に残っていた。は、と息をつくと次の瞬間、強い、悲しみに襲われた。
夢の中の自分は子どもだったのだろうか。あの真っ直ぐな明るい喜びの感情は。こんなにも嬉しいのかと思った。灰原が帰ってきたとしたら。喜びの反動で息が詰まる。帰ってきたと思った、帰ってきたと思った、悲しみに囚われて今、息が出来ない。
寝起きで頭がはっきりしないのだ。それで感情が揺さぶられているのだ。そう判断できてもしばらく動くことが出来なかった。そうだ、水を飲もう、ようやく七海はベッドから出てキッチンへ向かった。
冷たい水を飲むと少し落ち着いてきた。仕方がない、七海は思った。それは仕方がないのだ。失くしたのだから。何年経っても偶にこうした気持ちにはなる。それはそうだ。
灰原の夢は何回も見た。最初は、あの凄惨な、まさにあの時の夢を何回も見た。それから時が経って穏やかな夢も見るようになった。それから頻度も下がって…
フーッと七海は息を吐いた。部屋の空気は湿気を纏っていてどこか重苦しい。まだ早いかとエアコンをつけなかったが、つけて眠れば良かった。連勤も続いていた。しかし、明日は予定通りなら早く上がれるし、明後日は久しぶりの休みだ。
ベッドに戻りながらそこにいない長期出張中の五条のことを思った。会いたい気もしたし、この取り乱した感情の自分を見られなくて良かったとも思う。あの人こそ、こうした思いを何回もしているだろう。白い頭を抱きたくなった。
五条さん、小さく口にすると眠気がやってきて、七海はもう少し眠った。
翌日も雨だった。小ぬか雨程度の降りだったが、見上げた空は雲が厚く一片の晴れ間も見えない。任務は終わった。都心から少し離れた山中で七海はため息をついた。体が重い。補助監督の待つ場所まで歩いて行こうとしたそのとき、
「お疲れ~~」
そぐわない明るい声がした。五条が、目の前に立っていた。
「…出張、終わったんですか」
「うん! 終わらせてきた。お前、顔色悪いねえ? 何? 手こずった?」
「いえ…」
しっとりと濡れた自分に対し五条は髪も体もからりとしている。
「…雨が続くので、気持ちがくさくさしています」
「ハハっ、お前でもそういうこと言うんだ」
確かに、子どもっぽいことを言った…七海が黙っていると、
「じゃあさ、行く? 雲の上」
五条は大きな口を笑んで、七海を後ろから抱きしめた。
クンと高速のエレベーターに乗ったときのような体が引かれる感覚があった。思わず顔を顰め目を閉じた七海に
「ほら」
五条が嬉しそうに言う。
「ほら、ななみ」
目を開けると、明るく乾いた空気の中に七海は五条と浮かんでいた。
「僕にしっかりくっついててよ、ここ空気薄いからね」
眩しい。空はこんなにも青いのか、雲はこんなにも白い。遮るものは何もなかった。雨雲はもっと下の方にあるのだろう。
「ほら、ななみ、昼の月」
見渡すと青い青い空の中ほどにぽっかりと白い月が出ていた。地上で見るより輪郭がはっきりしている。
「綺麗だね」
首を捻ると五条が目隠しを外した碧い目で笑う。
眩しくはないですか、七海は言おうとして、ふいに涙が出そうになった。「ええ」かろうじて伝えると
「ハッピーバースデイ、ななみ」
五条が言った。
「お前、今日、誕生日だろ。忘れてたろ、ななみ」
七月三日、ああ、そうだ。今日だった。それでこの人は。
私に会いに仕事を早めに終わらせてきたのか。今、目の前に広がるこの景色を私に見せて喜んでいる。
「あ、もちろんさ、プレゼントは別に用意してあるんだよ? でもさ、思いつきだったけど」
五条は言った。
「これ、見れてよかったよ、お前と」
「五条さん」
「うん?」
ありがとうございます、七海は言った。五条は嬉しそうに本当に嬉しそうに笑った。
悲しみは何回でも襲ってくる。時が経っても。失くすとはそういうことだ、それでも。悲しみに囚われて目の前のこの人との幸せを取りこぼさないようにしよう。
灰原。七海は思った。私はそうしますね。
うん 七海
空から声が聞こえたような気がした。
青い空の白い月がこちらを見ていた。