誘拐事件東城会本部。
鋭い声と資料をめくる乾いた音、時折響く誰かの怒声と、それに伴う椅子の軋み。張り詰めた空気が満ちる中、真島は微かに眉を寄せていた。
目が痛む。表面的な痛みではなく、目の奥からじんじんと響くような鈍い痛み。眼精疲労と寝不足が原因だろうと分かってはいるが、どうにもならなかった。
このところ、仕事に追われて事務所に閉じこもりきりだ。長らく世話になっている恋人の家にも、随分と戻っていない。そんな折に、よりによっての定期集会。多少の目の違和感には慣れてはいるが、今日は殊更にきつい。
「……の資料なんですけど。あれ、叔父貴?」
集会が終わるや否や、迎えに来た西田が早速仕事の話を持ち掛けてきた。しかし、真島はその声を聞き取ることも辛く、誤魔化すようにやかましいと軽く一蹴する。
そんなこんなで出口付近。騒ぎが増したところで、ふいに聞き慣れた低い声が響いた。
「大人しく着いてこい」
「へ?」
柏木さんだ。
気配で近づいて来ていたのは分かっていたが、さながら誘拐犯じみたセリフを口にされたものだから、思わず間の抜けた声が漏れる。わざわざ本部内で接触を図るということは仕事の話だろうか。大した問題は無かったはずだが。
そんな真島の戸惑いを気にも留めず、柏木は無言のまま風間組の車へ向かって歩き出す。真島はその背中に訝しげな視線を向けつつも、また連絡すると西田に一言告げ、結局その後を追った。
連れて行かれたのは風間組の事務所。ミレニアムタワーの高層階に位置する事務所は照明も落ち着いており、都会の喧騒から隔絶されて静かな雰囲気を漂わせていた。今日は大きな黒バンで舎弟たちも同乗していたせいか、ここまで柏木と一言も交わさずに連れ込まれており妙に落ち着かない。
「仕事の話なら手短に頼むわ」
扉が閉まる音と同時に真島が口を開く。しかし柏木は何も応えず、代わりにソファに腰掛けて軽く手招きをした。
「ここに座れ」
「なんや、人のこと誘拐しといて説明も無しに」
「いいから」
「あ?まさか説教かいな」
戸惑いながらも真島が近づくと、次の瞬間、柏木はその腕を伸ばし、ぐいと引き寄せた。
「わっ……!?」
体勢を崩した真島の頭が抱えられ、そのまま柏木の膝の上に落ちる。膝枕だった。それも、風間組の事務所で。
「ちょっ、ほんまに何やねん!!」
「黙ってろ」
「んな横暴な」
真島が慌てて起き上がろうとしたその瞬間。
「……っ!」
目元が覆われた。柏木の手のひらが、眼帯の上からしっかりと、もう片方の目まで隠す。
「目、痛むんだろ。ここで休んでいけ」
「……っ、なんで、」
「見てたら分かる。少し赤くなってるな」
その言葉に身体が、ぴたりと止まる。けれど真島はすぐに、じわじわとした不安を滲ませて身じろいだ。
「…あかん、ここじゃ、ややこしい。やし、大丈夫やから」
「落ち着け」
柏木の声が、静かに降ってくる。
「誰もいないし、鍵もかけた。一言だって漏れはしねえよ」
「せやけど、」
「いいから、一度休憩しろ。少ししたら起こしてやるから」
「……っ」
目の上の手は、ただ優しく乗せてあるだけなのに。その体温が、じわじわと心を解かしていく。
「なんや若頭直々に申し訳ないなあ」
「代行だ。それに今は組のことは関係ねえ。こういうのは恋人の特権だろ」
「分かってるけど、なら余計こないなトコでええんかいな」
「こちとらヤクザものなんでな。利用できるものは使うさ」
「、柏木さんってほんまイケメンよな」
「はいはい。ほら、触るぞ」
そのまま、柏木はもう片方の手を動かした。片手で目元を覆ったまま、もう一方の手でそっと額に触れる。眉の端からゆっくりと、親指を滑らせていく。
「……っ」
指の腹がぐっと押し当てられた瞬間、じんわりと圧がかかる。それだけで、奥に張っていた痛みが、少し緩んだような気がした。
「少し痛いかもな。我慢できるか?」
「……大したことあらへん」
「ちゃんと言えよ。痛すぎたら止める」
低く、落ち着いた声。目が塞がれているせいで視界はないのに、なぜかそれが安心に変わっていた。
親指がゆっくりと眉間を押し上げ、こめかみに沿って滑っていく。
「……っ、ん……」
自然と、ソファの端に置いていた手が、柏木の服を掴んでいた。
それに気づいた柏木に短く笑われて、真島は反射的に指を離そうとするが、すぐに柏木の手がそっと上から手を押さえた。
「お前が落ち着くならそのままでいい」
こめかみから耳の後ろ、首筋にかけて指が移動する。僅かに力を変えながら、ゆっくりと緩めていく。
「凝ってるな、きついだろ」
「別に、」
「隈も酷え。無理すんなって何度言わんだ」
言葉は厳しいのに、指先は驚くほど優しい。目の周りを撫でるように、額を流れるように、まるで痛いところを全て把握されているかのようだ。
「今日も事務所戻るのか」
「せやな、あとは西田と書類まとめるだけやけど」
「なら早く帰ってこい。そんな急ぎでもないだろう」
「…仕事持ち込みたくなかったんや、あっこの家落ち着くし」
「それは嬉しいな」
力が抜けていく。気がつけば、目を覆っていた手にも体温が移っていた。そのままマッサージを繰り返され、もう眠気からほとんど声も出ない。
「あした、」
「ああ。晩御飯用意しといてやるから」
「……ん」
頷いたつもりだったが、もう動けなかった。手のひらから、指先から、優しさが伝わってきて。
真島はただ、明日に約束された平穏を夢み、柏木の膝に体を預けた。