さなぎのつづき3桐生の番号と言って渡されたものの、その夜はかけることが出来なかった。もしこの番号が嶋野組の誰かのもので、自分と真島が通じているなどと言われたら事である。真島はそういう策を弄するタイプてはないと思う。
(だが、今回は…。)
嶋野の命令で少女を探していると言った真島。少女とは何者だろうか。あの時の真島の声音を信じないわけではないが、状況が状況であった。この情報が錯綜している状態で、フェイクの情報を掴まされて判断を誤るわけにはいかない。風間がいない間に組に何かがおこれば、すべてこちらの責任である。花屋からの連絡はまだない。この街が騒がしい。今日四度目の痛み止めを飲んで、眠りについた。
朝、携帯の着信で起きた。まだ暗い時間。シンジからであった。病院に組員ではない者の影が見えるので、風間が目覚め次第、風間を移送するという。
「意識は戻ったのか?」
『ええ、夜中のうちに。この事はまだ誰にも知らせていません。』
「わかった…無理せず、といってもこの状況だ。何かあれば、必ず連絡をくれ。」
『わかりました、落ち着けるところが見つかり次第、ご連絡します。』
「お前も、気をつけろよ。」
『はい。柏木さんも。』
そう手短に言って、シンジは電話を切った。風間が意識を取り戻したという一報に安堵した。移送できる程というのだから、峠は越えたのだろう。もしもの時と万が一をずっと考えていた、その張り詰めた緊張感からは解放された。ベッドから降りる。時間を確認する。午前六時前。洗面で顔を洗い、リビングに戻る。タバコに火をつける。携帯を見たが、それ以外の連絡は入っていなかった。思わず、本部への連絡を考えて止めた。
今まで風間に何かあれば、すぐに世良に連絡をしていた。風間が単独行動をする時も、裏では日侠連を動かしてサポートしてくれていた。その世良も今は物言わぬ骨である。昨日はいろいろあり、葬儀の最期には出席できなかった。今頃もう荼毘に伏されているだろう。
「…………。」
身内の死にふいに心が痛んだ。世良、と登録されている携帯の番号も、ついぞやこちらからかけることはなかったが、向こうからは何度もかかってきたというのに。
世良を狙撃した者の目星はついている。今頃、日侠連のターゲットにかけられているはずである。そしてそちらも、また自分のよく知る者であり、複雑な気持ちになった。
(そして親父を撃った相手も…。)
風間を狙撃した者も、恐らく自分が顔を知るところの者だ。賽は投げられた、そう、よく知る声が聞こえてきそうだった。
昼過ぎ、事務所に顔を出すと、本部からの達しで、百億の件で、アレスの美月という女のことについて知らないか、と連絡があったといわれた。
「本部から? 誰の裁量だそれは…。」
会長の世良も若頭の風間も不在である。写真も送られてきています、とパソコンの画面を見せられた。写真の女は、見たことがあった。ミレニアムタワーの最上階で会員制のバーを仕切っている、雇われのママだった。ミレニアムタワーはその利権を世良が東城会に寄贈した、もともとは日侠連の持ち物であり、実質の管理者は風間組であった。そこの最上階に店を持たせてやったのは風間であった。美月というその女は、一部で風間の女、と言われていたし、会長の女、とも噂されていた女性である。
「なんでも、その女が百億持って逃げているのだと…。」
「百億つったら、紙の束で何キロになるってんだ。実際そんな可能性はないだろうが、だが…。」
写真を見る。なにか既視感があった。
「…?」
風間と世良とつながりがある女性。ひっかかりがあるが、思い出せなかった。パソコン画面を凝視していると、子分が慌てた形相で事務所に入ってきた。
「カシラ、中道通りで近江連合の代紋の一団を見たと…。」
「なんだって。本当か。」
「一人二人ではなく、十数人、団体で歩いていたということで、何事かと店側から報告がありました。」
ちっと舌打ちする。ここぞとばかりに騒がしにきたということか。風間組と嶋野組が互いに顔を突き合わせて、見えない壁を作っていた。その街の障壁が壊れたということか。それとも、中から手引きする者がいるということか。
「舐めやがって…。」
拳を握りしめる。どうします、と聞かれるのに、奥歯を噛みしめ答える。
「まず近江のどこの組か調査。誰かに呼ばれて入ってきていることもある。だが、万が一、この街で無暗に暴れることがあれば、片付けていい。それが挑発であったとしても…ここは誰のシマか思い知らせてやれ。」
はっ、と子分の顔が引き締まった。普段、穏健派だなんだと言われているが、承知できぬことはあるのだ。東城会のなかで、ガチンコの喧嘩が行われようとしている。それを漁夫の利を狙った者にひっかきまわされるなど許せなかった。
夕方、ミレニアムタワーに近江連合の代紋をつけたスーツの男を見かけた、と報告があり急行する。組員何人かで手分けし探したが、平日の夜、商業施設にはショッピングやディナーを求める一般人で混雑し、思うようにいかない。上階のオフィステナントにはそれとなく注意をしたが、理由を知らない者もおり、話はスムーズにはすすまなかった。
捜索の甲斐なく、組員をタワー内に残し、事務所に引き上げる。苛立ちをこらえながら事務所に戻ろうと、泰平通りを西に歩いた。冬晴れの夕暮れ時。中道通りには人があふれていた。街より帰宅する人、遊びを求めて入ってくる人、行き交う人ごみを分けて、前から人が歩いてくる。そのいで立ちに、人はぎょっとして道を譲る。天下一通り裏に入る手前。一メートルほど、周囲に無人の空間ができた。蛇皮のジャケット、眼帯の男。真島吾朗。
「…………。」
「…………。」
視線が絡み合う。黒い眼。夕日に照らし出された真島の顔からは、明確な表情は読み取れなかった。
「………。」
相手が視線をはずした。こちらも今ことを構えるつもりはない、と横を通り過ぎようとした瞬間。真島の手が動いた。シュッとスプレーのような音がした。首元に冷たいものがかかる。
「…っ?!」
思わず口を覆う。真島の顔を見る。
「……っ。」
真島は、少しだけ微笑んで、そのまま通りすぎていった。
「ごほっごほっ…はっ…ッ。」
息をしたが、たまらず咳き込む。むせかえるほどの甘い匂い。睡眠薬やエタノール系の薬剤ではなかった。周りを見る。雑踏が聞こえるだけ。
(これは…。)
香水だ。強烈な花の匂いがする。
(なんのために…?)
人の波で真島の背中はもう見えない。甘い香りだけが首を絞めるように残った。
* * *
翌日、真島の姿で事務所に戻った自分のところに、子分から様々な情報がよせられた。百億の鍵となる子供の名前は、サワムラハルカ、という。9才の少女で、神室町にいるという話だったが、今は桐生と一緒にいるらしい。その子供を嶋野のところに連れてくる為には、桐生を殺してもいい、という命令すらくだっているようだった。
桐生は風間の秘蔵っ子で、それが後にどのような禍根になるかわかっているだろう嶋野が、そう指示をした。
(こりゃもう、後戻りせんつもりやな。)
その命令には、嶋野の焦りが見えた。嶋野組の事務所には、近頃様々な人間が出入りしていた。百億の議題が幹部会であがる前から、錦山組がなにやらキナ臭い動きをしているらしいということに嶋野は気づいていた。錦山組の情報を持っている、という近江の人間にも挨拶させられた。寺田というやつだ。共謀の相手らしい。
(それに加えて中国マフィア、か。)
念にはねんを、ということなのだろう。子分の話では、神室町でマトを取り逃がした時のために、横浜の中国マフィアにまでコンタクトをとっているようだった。さすがに嶋野組の他の組員も愚痴っていたそうだ。ハナから自分たちがヘマをすると思われているのか、と。保険をかけすぎやしていないかと思う。なにが嶋野をそこまで怖がらせるのか。策を張るにしても、その手の込みようは、彼の他人に見せることの出来ない”恐れ”な気がした。
(なにビビっとんねん。)
いつも通り、真正面からいけばいいではないか。互いに直系、誰に遠慮する必要もない。ここまでくれば真っ向勝負で風間組に喧嘩をうればいいではないか。天下をとるに、その取り方が重要だといった漢(おとこ)はどこにいったのだ。年のせいか、臆病風に吹かれたのか。嶋野の策がうてばうつほどに、風間に一枚落ちとみられる気がする。
(近頃の親父は、自ら男を下げにきとるやろ。)
葬式の時に、風間も柏木も搬送されたらしい。風間は意識不明の重体だという。敵は瀕死だ。今更、嶋野はなにを怖がっているのかわからなかった。
(もしかして、殺したないんか。)
そうなのかもしれない。嶋野は風間を殺さず、風間組の面目を潰す方法を考えているのかもしれない。
(だからか、妙に歯切れが悪いのは…。)
今までなにも読めなかった嶋野の考えが、ここにきて、少しだけわかった気がした。嶋野は、風間にただ認めてもらいたいだけなのかもしれない。風間のいないうちにすべてを片付けて、まいりました、と言わせたいだけなのかもしれない。
「は…っ。」
思わず溜息のような笑いが漏れた。そうか、と腑に落ちた。嶋野にとって、東城会のトップという地位が重要なわけではないのだ。
(きっと、風間の叔父貴を若頭にすえたまんま、会長やりたいんやろ。)
同じ年代に生まれて、比較されて今まできたのだろう。どちらも才覚がある同士、一歩も譲らずここまできた。どちらか少しでも歳が違えば、素直に兄貴と慕い、その軍門に下る選択肢もあっただろうが、同い年ともなれば、それはできない。どちらかが、負けました、というまで、その張り合いは続くのだ。
「………。」
携帯電話の電源をいれ、留守番履歴を見る。事務所からではなく、嶋野からの直電が何件か入っていた。
(なんや、親父も人の子か。)
ただひたすら恐ろしかった男だが、ここにきて少し可愛げがあるじゃないかと思って噴き出した。彼にも若い時はあり、人に言えない弱味もあるのだ。
(ライバル、か…。)
もし今でも義兄弟が傍にいれば、自分もそのような悩みをもっただろうか。互いに見るべき相手がいる、というのは励みにもなる。力量を比較され、苦しむことができるというのは、それはきっと幸せなことなのだ。
街の喧騒を遠くに聞く、静かな事務所に電話の呼び出し音が鳴り響いた。子分が受話器をとり、驚いたような声をだした。
「親父、本部からお電話です。」
「本部から? 東城会のか?」
受話器を渡される。二次団体の事務所に本部からかかってくることは珍しい。何かと聞くと、美月という女を探せ、という本部命令だった。パソコンメールのほうに写真を送る、と言って事務的に電話は切られた。
「なんや、こちらも人探しかいな。」
ミレニアムタワーのアレスというバーでママをやっているらしい、その女が百億を持って逃げている、とのことが文面に書かれている唯一の情報だった。
「ミレニアムタワーか…。」
東城会名義だが、実質は風間組の持ち物だ。どうも今回の事件も、すべてがそこに収斂していっている気がする。
(親父も、俺らも、みーんな、また風間の叔父貴の手の上やったりしてな…。)
カラの一坪の事件で、最大の恩恵をうけたのは日侠連であり、その世良の背後にいて、すべてを仕組んでいたのが、かの風間新太郎であった。
(せやけど、柏木さんは知らん風な感じやったけれどな。)
今回のことはどうかわからないが、前の事件のあの夜に語り聞かせてくれたことを思い出す限りでは、柏木も、全体像は知らされず使われていたようだった。ただ、当時風間が神室町に不在といっても、獄中から指示がだせる状態だった。今は瀕死の重傷だそうだ。担架にのせられた状態を見た組員が、あれはヤバそうだと言っていた。心臓付近を打たれ、意識がない状態で運ばれた、とも噂されていた。
(親父が激怒しとったから、きっと撃ったんは嶋野組のやつとちゃうんやろ。)
喜怒哀楽が激しいように見えて、策略家の嶋野は、その表情を偽ることもあるが、今回ばかりは違う気がした。
(もし、風間の叔父貴がこのまま死ぬことがあったら、親父はどうするんやろか。)
そのまま漁夫の利、ではないが、風間を撃った犯人を締め上げたうえで、嶋野が会長になるのだろうか。
(会長も若頭もおらんようなったら、誰かがやらんとしゃーないわな…。)
このまま嶋野が東城会で天下をとれば、自分にも何かしら本部の役職が回ってくるのかとふっと考えて嫌になった。失敗してくれんかな、とまで思う。
女も金も地位も名誉もさして欲していない。日々を生きていけるだけの食い扶持と、そして少しの刺激があればいい。
(あんな、ごっつい椅子に座らされて、身動きとれんようになるのは御免や。)
幼い頃は、この街も面白かった。いろいろな人間がいて、多少無茶苦茶でも、この街だから、とその愚行が許されていた。カスでもクズでも金さえあれば、なんとかやっていけた。自分の花を売り色を売り、それでも生きていけたらいい。野垂れ死ぬよりはマシ、と大人は騙しあい、力を強硬に用いて金を稼いでいた。幼心にそういう生き方もあるのだな、と思ったし、この道なら自分もひょっとしたら上にいけるのではないか、と思ったのだった。そしてそんな多彩な人間を束ねていたのが、東の極道の雄、東城会であった。その会長の椅子はさぞかし価値のあったものだったろう。
(しかし、今はどうか。)
電飾の陰りが見えるにつれて、この街にも、そういった無茶をやる人間は消えていった。暴対法や神室町の路上条例などが施行され、まともな景色があふれるようになった。極彩色の看板やビルは消えて、他の都心とおなじように、スタイリッシュでモノトーンな高層ビルが建つようになった。この街のカオスに溶け込もうと選んだジャケットは、今やこの街から浮いたように感じる。
「………。」
煙草を取り出し、火をつけ、深く吸った。はぁーっと溜息とともに煙を吐き出す。最近、ひどくこの街に飽きているのだ。
今日の新聞を見ていないことに気づき、デスクにあった日刊を開いた。そして、訃報掲載欄の横を見る。死刑執行がされれば、ここに小さく出るのだ。念のため社会面も見てみたが、法務大臣が替わったという記事もなかった。内閣や大臣が変わると、一気に数人の執行がされることがある、
(ない…か。)
死刑判決から十五年。再審の動きはなく、刑が確定した。義兄弟がこの街に帰ってくることはないだろう。彼の妹の行方もわからずじまいだ。興味を失ったように、新聞を投げおいた。煙草を吹かす。
自分は幸か不幸か、獄中の生活は知らない。留置所に入れられることはあっても、起訴までいったことがないからだ。さぞかし塀の中は不自由だろうと思う。桐生も十年あの中にいて、細くなって帰ってきた。食事も制限されているのだ、それは仕方ないだろう。わかっているが、ただただ、本当に寂しかった。昔ほど全力で喧嘩は出来ない。
(みんな、変わっていってしまうな。)
きっと嶋野も変わるだろうな、と思った。老いて小さくなってゆく姿も受け入れがたいが、テッペンをとって保身に走る親父は絶対に見たくないな、と思った。まだ先の話だけれども。
(まぁ…まず先に、その少女を見つけることやが。)
噂の段階では、桐生と一緒にいたらしい、と言われている。
(桐生チャンも弱なったからな…。)
きっと全力でやれば勝ってしまうだろう。そして、その少女をどう用いるのかしらないが、その子供を嶋野にさしだせば、嶋野の計画は確実に大きく進んでしまう。
「あぁ、めんどくさいな…。」
吐き捨てるように言って、煙草を灰皿に押し付けた。ただ、嶋野に反抗したら、今度こそ、この命でもってケジメをつけられるだろうな、と思う。かといってすんなり事が運べば、この街のバランスや組の上下関係も変わってくる。どう転んでも、この街で自分の立ち位置が変わることに、嫌とはいえない状況だ。
(下手して死ぬかもしれんしな。)
本気の喧嘩で死ねるなら、それもいいかもな、と思う。武士の本懐ならぬ、極道の本懐ともいうべきか。
「………。」
席を立ち、事務所の窓を開けた。西公園のブルーシート街が見える。寒風の中、ところどころに篝火ようように、ドラム缶で焚いているだろう火がちらちらしているのが見えた。
(俺を殺すのは、桐生か、親父か、はたまた…。)
そこまで考えて、出てきた名前に、ぎゅっと胸が痛んだ。
(柏木さん、か。)
風間組の最後の砦はあの人だ。ガチンコの勝負をして、嶋野が風間を殺して柏木を生かしておくわけはないと思う。そうすれば、きっと、自分は試される。今度こそ、銃を持たされ、決断を迫られる気がする。
(あの人を殺すんか。)
それだけははっきりと嫌だと心が告げていた。だからといって、殺されるのは猶更嫌だと思った。自分が死ぬのはいいけれど、自分などに手をかけることで、あの人を“人殺し”にしたくなかった。
「…………。」
窓にうつる自分の顔がひどく情けない。こんな表情は子分に見せられない、と顔を撫でる。はぁっ、と短く溜息をついた。
どうしても嫌な、投げ出したい時がくるたびに、あの夜のことを思いだす。見ず知らずの自分を、役にもたたないチンケなチンピラをかくまってくれた。そればかりか、丁寧に愛してくれた腕を思い出す。自分と向き合う義理は何一つあの人にはないのに、それでも大事な物だというように、扱って貰えた記憶。
父親にも母親にも愛されなかったから、人の愛し方などわからない。けれど、あの日、自分に触れた手は熱く、否応なしに、自分自身がその場では掛け値なく大切な人間だというように自覚させられた。自分の身体を粗末にしていたことを怒られて、はっとしたのだ。自分の価値がわかっていれば、身体など軽々しく売らない、とまともな人間が言う意味が初めて分かった。
憂鬱が襲ってくるたび、あの日の言葉を思い出した。自棄になる前に立ち止まって考えてみろ、と柏木は言う。助けを求めれば助けてくれる人が現れるかもしれない、と。信じがたい言葉だが、柏木はきっと助けを求める人間が傍にいれば助けるのだろう。だからこそ、あんな言葉が言えるのだ。
見ず知らずの自分にも、大丈夫か、と幾度と聞いてくれた。あの声を思い出して気分が安らいだ。本当は、大丈夫ではないのだと泣き崩れたかった。生き残ったことを後悔していることをぶちまけたかった。
あの朝、彼が去った部屋で泣き叫んだ。ドアを閉められ、鍵のかけられる音がした瞬間、涙があふれ出て止まらなかった。言葉にできない色んな感情が綯い交ぜになった涙だった。風呂でもまた泣いて、そのあと、泥のように眠った。部屋を出たのは翌日。部屋代を支払い済みだったことに、心が軽くなった。その頃には、現金だな、と笑う余裕ができていた。
髪を切り姿を変えて、儀式的なことをして、一度自分が死んだのだとケジメをつけなければ前に進めなかった。
それでも、あのどん底の日から、一歩進む力をくれたのは、あの人だった。我ながら女々しいなと思う。
(一度だけ、思い出してもらえんやろうか。)
もう一度だけ、あの青年のことを、思い出してくれないだろうかと思う。
(こちらが死ぬまでに…。)
あの手を、あの声を、もう一度だけでいいから、自分にむけてほしかった。
「親父! 近江の一団が、ミレニアムタワーに入っていったらしいです!!」
ドアを蹴破るように入ってきた子分の声に、はっと我に返る。
「なんや、近江が?」
「へいっ、なんでも美月って女を探す為だとかってんで…! 他の施設にもちらほら目撃されてます!!」
チッと舌打ちした。嶋野は、前のように、また近江をバックにつけて事を起こすつもりなのだろうか。美月という女の情報もこちらより早く向こうに入っている。どこまで手をまわしているのか。それとも、他の組が引き入れたのか。とっ捕まえて聞き出さなければ気がおさまらなかった。
「行くで、お前ら。」
へいっ、と事務所に待機していた子分が頭を下げる。ドスをとり、事務所を後にした。
夕暮れの神室町は、街から出る人入る人でごったがえしていた。ミレニアムタワー前には、風間組の組員が辺りを警戒したように立っていた。敵陣に乗り込むわけにはいかなかった為、自分たちは街の別の地域を探した。だが、近江のバッジをつけている姿は見当たらなかった。
(ほんまに近江の奴ら、おったんか…?)
聞き込みをしても、それらしき姿はない。街から綺麗さっぱり姿を消している。もしかしてあの一報がフェイクで、ガラ空きになった事務所を襲撃するためか?と、残してきた子分に電話をしたが、ここは何もなく静かなものだと返事された。
「チッ、巻かれたか。お前ら、手分けして探せや。」
ガキよりそいつらのほうが先や、と子分に言い伝える。誰かの指図で引き込まれたというのも気に入らないが、もし人がガチンコで喧嘩をしようという今、ただ横やりを入れてきたのであれば、それは許しがたい蛮行だった。
泰平通りからピンク通りを南下し、昭和通りを見回る。模試の点が悪かったと嘆く詰襟の学生がコンビニに入ってゆく。何もしらない女子高生の一団が、今日発売のアルバムがどうとか楽しそうに話して通り過ぎていった。会社帰りのOL、飲みに行こうと連れ立つ若いサラリーマン、この街は普段と変わりない。
(ヤクザがどれだけ内輪揉めしようと、この子らには関係ないもんな。)
普段通りの日常を横目で見ながら、中道通りの街灯の下までくる。
「…………。」
冬晴れの空。見上げた先に、ミレニアムタワーが見えた。全身ガラス張りの瀟洒なボディに、夕暮れの色が反射している。薄紫と白とオレンジ、そして雲の灰色と足元の紺色。美しく凛々しい佇まいだった。この街がカオスな色彩から脱却する象徴ともいうべきスタイリッシュな建物。カラの一坪の跡地に建ったのが、あのビルだった。
人とぶつかりそうになり、ふっと我に返り、視線を地上に戻す。人の頭がたくさん見える、その人混みの向こうから、見知った人が歩いてくるのが見えた。
(柏木さん…。)
供回りもつけず、一人だ。酷く憔悴した顔をしていた。ゆっくりと歩みを進める。自分の格好を見た記者らしき男が、わっと声をだしながら道を譲ったことで、周りから人の波が引いた。人の視線がちらりとこちらを見ては、恐れるように通り過ぎてゆく。それを横目で見、前を向いたときには、柏木が数メートル前まで迫っていた。
「…………。」
相手と視線があった。こちらを見ている。茜色の残光が、その姿を照らし出している。柏木は、事を構えるつもりはない、というように、視線を下げ横を通り過ぎようとした。
(その視線がほしい。)
思った時には、手が動いていた。昨日ポケットにいれっぱなしになっていた香水を掴んだ。柏木とすれ違いざま、それを背中にむかってかけた。ふわっと花の香りと甘い匂いが漂う。柏木のタバコの匂いと混じったら、どんな香りがするだろう、と思うと無意識に微笑んでいた。
「ごほっごほっ…っ…ッ。」
背後から柏木の咳込む声が聞こえた。やってしまった、と我に返った。香りが苦手な人間もいる。柏木がそうなのかもしれなかった。はっ、と苦しそうに息を吸う、その音を聞くと、カッと身体が熱くなった。血が逆流するような興奮が襲ってくる。振り返りもできなかった。ドキドキと高鳴る心臓の音を聞かれないように、逃げるようにその場をあとにした。
つづく