『カフェー』をめぐるエトセトラ(仮)前編 ひょんなことから真島とメールのやり取りをするようになり、数か月。同僚ともいえない、かといって純粋な友人関係とも言い切れない距離感のまま、宅飲みまでする仲になっていた。
今日も今日とて、柏木の家で他愛無い話をしながら酒を飲み交わしていた折、こちらの携帯電話が激しく鳴った。ちらりとディスプレイをみやった後、着信を切ったが、続けて三度電話が鳴った。向かいに座る真島に、悪い、といって立ち上がる。携帯電話で折り返し、相手に一言二言言葉を返した後、テーブルに戻った。
「なんや、アクシデントか? 俺、帰ろか。」
「いや…。」
と首を振る。せやけど、と真島が遠慮した風に言うのに、
「もう長いこと、のびのびになってる問題なんだ。」
と柏木は話し出した。
電話は、今年、80歳になるラウンジの経営者から。戦前の喫茶店、女給さん、とよばれるラウンジガールがいた頃より、この界隈で商売をしている人間だ。当時の『カフェー』いわゆる美人喫茶という今のラウンジに近い形態の店が主な稼ぎ頭だったが、バブル時代にビルを建て替え、今は一階はテナントにして貸し出していた。現在はそのビルの三階で、紳士の社交場としてのクラブをひっそり経営していた。ピンク通り沿いのなかなかの立地の店だが、この度、そこの経営権含め、誰かに譲りたいのだという。
「その回答をせっつかれててな。すぐに後任は探せないから待ってくれ、と言ってるんだが…。」
「電話かけてきよんのか。」
「そうなんだ。相手も年取って気も短くなっていてな、何度も事務所にも電話かけてくるのがアレだってんで、俺の携帯教えておいたら、この通りだよ。」
と真島に、ディスプレイに表示される着信の回数を見せた。同じ番号から、何日も続けてかかってきている。そらかなんな、と真島は少しの憐れみをもって相槌をうつ。
「今日はそれで事務所にまで来たが、俺がいない、と。」
「ほんまか。」
「確かに、もう言われてから半年ほど経ってるんでな。相手がお冠なのはわかるんだが、なんせそういう店の人間ってのは、だいたい自分の仕切りの現場を持ってる人間が多くてな…。」
条件もあるが、すぐには見つからない、と素直に困った顔をしてみせた。真島は、そらそうやろうなぁ、と同じく困った顔をしてみせた。
「後任のアテあるんか。」
「アテは、いくつかあったが、すべて断られちまって、この状態だ。」
「宙ぶらりんでおいとくなんて、あんたらしないやないか。」
「たしかにな。根負けしてくれねぇかとおもってんだが、そうもいかねぇようだ。」
はぁっとため息をつき、頭を振る。こちらの普段見せない様子に、真島は俄然興味がそそられたようだ。
「そんなめんどくさいやつなんか。」
あんたにそないな顔させる爺てどんな奴やねん、とウキウキした声で言う真島。こちらは、世間話のついでだ、というように、その人物の名を言った。
「名前は聞いたことあるかもしれねぇな。」
「いや、ぴんとこんわ。」
「ミラノ、って喫茶店あったの、知らねぇか。」
かなり前だが、神室町の西の入り口のほう、と言うと、真島は思い出したのか、あぁ、と合点がいった顔をしてみせた。
「ああ、なんやあったな。もう俺がこっち戻ってきた時には新しいビルになってもうてたが。」
「そうだ。バブルのときか。昔は、小説家だの芸術家だのなんだのが、たしなみで訪れる店ってので有名だった。」
「せやせや、ほんま小さいころや。子供心にも普通の喫茶店とちゃうなぁとおもてた。」
インベーダーとかおいてあったとことはちゃうって、と言うのに、あったなぁ、とこちらも笑いをもらす。
「俺も中には殆ど入ったことなかったんだがな。店んなかは、タバコの煙でもうもうとしててな。二つ先のテーブルに誰が座ってるか分からない状態だった。それでも、お忍びの芸能人もいたり、スクープ記者もいたり…なんというか歴史的な場所ってかんじだったぜ。」
今のクラブのように、ソファ席に一人は女給がついて、客の相手をするのだった。戦後こういう形態の喫茶店がメジャーになったため、それと区別するために、今の純喫茶だとかジャズ喫茶だとかいう名称が生まれたのだった。また神室町の中のこととはいえ、辺り一帯まだ木造の建物が並ぶ時代の話だった。
「懐かしいな。赤線の名残みたいなんやったんか?」
「さぁ、どうだかな…俺もさすがに当時は知らねえから。」
まぁたしかに、と真島も相槌をうつ。風間や嶋野ならば、その当時、酒のでる場所で遊んだ記憶はあるかもしれないが、自分たちはまだそんな悪所に通うには子供すぎた。
「とにかく、その頃から有名な経営者だった。やり手、ってのとはまた違うのかもしれないが、いろいろなコネが多くてな。」
「無碍にはできん、と。」
「そうだ。」
2000年代に入り、今はキャバクラ全盛期。小学生のなりたい職業ランキングに、キャバ嬢が入る異常事態。高級ナイトクラブは安価なキャバクラに押しのけられ、大箱のキャバレーやダンスホールも姿を消した神室町に、その老人の手腕もだんだんと敵わなくなってきたらしい。
「いくつやって?」
「今年、80らしい。さすがに体もきついんだろう。」
「そりゃあなぁ。」
こちら愚痴めいた話を、真島はなぜか興味津々といったふうに聞く。
「今もその店、繁盛しとんのか?」
「繁盛…わりと客入りはいいんだが、こういっちゃなんだが、客層は老人ホームだな。」
その経営者の昔話目当てに訪れる客が多い。真島が、ほぉんと相槌をうった後、たしかに話聞いてみたいかもしれんわ、と返した。
「風間組に、その経営を引き継いでほしい、言うてきとるんか。」
ええやんけ、丸儲けや、と言うのに、ただ…とこちらは難しい顔をした。
「条件あるんか。」
「ああ。従業員をそっくりそのまま雇ってほしい、ってな。」
あぁ、と曇った声で真島も相槌を打った。
「その経営者と話すために来てた層もいる。それが引退ってなると、売りがなくなるのと同義でな。」
「キャストも婆さんばっかりで、採算とれん、か。」
「そうだ。」
組の仕事の内容をここまで詳しく話すというのは、あまりないことだったが、真島がいやに興味深く聞くので、つい吐露してしまった。真島はそこまで聞いて、ふーん、と首をひねり考えたふりをする。
「俺、昔、黒服っちゅうか、キャバレーの支配人やってたって話、したか?」
「ああ、うっすら聞いたな。」
そうか、と言い、真島はテーブルの空き缶を退け、横の袋から新しいものを取り出して、氷とともテーブルに置いた。以前からサービングの手付きが異様に器用だったので、こういうことに手慣れているのだろうとは思っていた。
「その時も、俺に経営立て直してほしい、っちゅうか、そういう条件付きの店の話はあってん。キャストそのままで、とか多かったわ。」
「やっぱりそうか。」
「長いこと一緒にやってたら情も移るやろからな。」
そうだよな、とこちらが眉を顰めるのに、真島はこちらのグラスまで新しいのにしながら、言い募った。
「せやけど、やっぱり立地がどうとかやのうて、そこの経営の話になると、中で働いてる奴らがようないことが多かったわ。」
「だろうな…。」
「まぁ、せやけど、そういう店の勧誘も上手いこと断ってたんや。」
缶酎ハイの残りを新しいグラスに注ごうとすると、それを真島にとりあげられた。まだやで、と言われ、真島がウイスキーの瓶を開けるのを眺める。さっさと二人分の水割りと作ってくれた。口をつける。思いがけず、それは美味かった。ふぅん、と唸ってやると、まんざらでもないやろ?と真島は自信ありげに微笑む。
「それでも、お前の力量を見て、アドバイス頼まれたんだろ。すごい手腕だったんだな。」
「まぁ当時は景気よかったからなぁ。」
こんな水割りでも一平気で五千一万いうかんじやったし、と当時を思い出したように真島は言う。確かに、景気がよかったとはいえ、同じように酒や女を提供する店がだされると、付け焼刃の店が飽きられるのは自明の理で、当時でも経営がうまくいかず、負債を抱え首が回らなくなる輩も多かった。
「運に恵まれたっちゅうのもあると思うで。」
「それでも、その運引き寄せたのはお前の力だろ。」
そう褒めてやるのに、真島は、くすぐったく笑ってから、はにかむ顔を隠すように酒を飲み干した。
「引き抜きも多かったろ。」
「そもそも、俺に店選ぶ権利はなかったからのう…。」
あんまり身動きとれんでな、と言う真島。先ほどの楽しそうな雰囲気から一転、眉を顰めて、その店のオーナーがちょっとな…と言葉を濁す。真島の過去は気になるが、今はこれ以上は突っ込んだ話もできまい、と先ほどの経営者の話に話題を戻した。
「立地云々もそうだが、店の業態も変えねぇって話だからな。譲るっても、雇われ店長探すようなもんだ。」
「そりゃ、実質オーナー業引退っちゅうか、いつでも自由に口出せる隠居やりたい、金勘定より、今もその界隈に影響力もっときたい、って話やろ。」
まぁそうなんだろうよ、とこちらは少しわざとらしく、はぁっと嫌そうにため息をついてみせた。
「なら、今の店長に現場の指揮だけ譲ればと進言はしたんだが、そうじゃない、と。」
「せやなぁ。半分は、そのオーナーもようわかっとるねんで。支配人に店継がすとかいうても、実子とかなかったりしたら、信じきれんで嫌や、いうのあったりな。」
「支配人は、たしか若いやつだったが、わりと長く店に務めてるんだがなぁ。」
仕切る才能もありそうなんだが、と言うのに、それやそれ、と真島はこちらを指さし、その指をぷすりとこちらの腕に押し付けた。
「その支配人に継がすのいややから、探せ、いわれてるんやで。」
「まぁ…そうなんだろうな。」
「せやせや、無理難題ふっかけとるんや。」
真島がこちらの腕を、つっつきながら言った。きっと今の支配人は、このままではいけないから変えていこう、と言っているのだと思われた。だが、オーナーはそれを拒否している、という状況なのだと真島も読んだようだ。
「せやから現場引退ちゅうても、なんかあったら言うこと聞いてくれるやつがほしいんや。」
「確かに、見知らぬ他のやつに譲って綺麗さっぱり引退、という感じではないのは、たしかだな。」
「せやろ。」
「はぁ、面倒だな!」
そうわずかにボリュームをあげて言ってやる。その勢いで、ちょっかいかけてきていた真島の手を横によけた。ええ~触ってたいのに~、と酒の勢いで本音が漏れたような声が聞こえて、こちらはウッとなる。
「そもそもその爺さんの件て、風間の叔父貴から対応言いつけられたんか。」
「言いつけられたというか、なりゆきでな。何故かそのオーナーは、親父のこと苦手らしくてな。」
「あれや、冷静に、やり方変えろぉ、いわれるからやで。」
うんうんうん、と頷く真島に、こちらは、知ったような顔で言いやがって、と苦笑する。
「せや、俺が言うたろか。そういう善意っぽい我儘の断りかたは、よう知ってんで。」
「お前が?」
驚いて真島を見る。どこからどう見てもこの神室町で噂になっている狂犬が、風間組の問題に首つっこむのか?と思わず言ってしまいそうになるのに、真島は、あかんか?と上目遣いで聞いてくる。
「お前は目立つからなぁ。」
「変装しても?」
「変装つったってなぁ。」
変装、という言葉に、これは酔っ払いの戯言なんだろう、とおざなりに返事をする。考えといてや、と真島は言い、そうだな、とこちらも頷く。後は酒のテンションで、今まで一番嫌だった親の言いつけ、というお題話などに花を咲かせた。
その話はそれで終わったはずだった…のだが。
次の日。
『差出人:真島吾朗(嶋野組)
件名:re:明日
日時:2003/10/03 20:01
本文:これやったらばれんやろ!』
届いたメールの添付ファイルを開き、柏木は目を見はることになる。
「お前…。」
思わず誰もいない事務所でそう呟いてしまった。写メには、真島の上半身が映っていた。自撮りではない。大きな鏡の前なので、おそらくヘアサロンか理髪店、という内装なのだが。
「おまえ…。」
もう一度、口を押えてから、零れ落ちるようにそう呟いてしまった。写真のなかの姿、鏡に映っている顔は普段の表情をしているのだが、問題はその髪型だった。白い開襟のシャツを着ている真島は、なんと、長い髪を後ろでくくっていた。チリン、と鈴の音が鳴り、再びメールが入ってくる。
『差出人:真島吾朗(嶋野組)
件名:re:明日
日時:2003/10/03 20:06
本文:エクステ!』
写メには、この髪型の制作途中なのだろう、ケーブを被った真島が、頭半分ほど髪の毛が長い状態で写っていた。襟足は刈りあげてあったが、天辺から流れる髪は、首の下30センチほどはあろうか。先ほどの写真のように、後ろで結べるくらいの長さだった。よくよく一枚目を見ると、髭も綺麗さっぱり剃られてあるではないか。
「…………。」
既視感に眩暈がする。これは、昔の、記憶にある限り、一番若い頃の真島だった。
つづく