ある日の喧嘩夕暮れ時、薄いオレンジ色の光が窓の隙間から差し込み、部屋の隅々に淡い影を落としている。静かで穏やかなはずの景色なのに、この部屋だけはまるで違った。
空気はピリピリと張り詰め、肌に刺さるような冷たさが漂っている。
「いい加減にしろ。」
低く、落ち着いた柏木の声が静寂を切り裂く。
その一言が、空気の張り詰めた糸をさらにきつく締め上げた。静かだからこそ、その声は余計に真島の胸の奥に響く。思わず眉をひそめ、拳をぎゅっと握りしめた。
確かに今日は少し無茶をした。大勢に相手の喧嘩を買い、勢い任せに突っ込んだ結果、腕には粗末に巻いた包帯からじわりと血が滲んでいる。
こんなの大したことじゃない。痛みなんて、慣れっこだ。そう言ってるのに。心の奥でモヤモヤが膨らんでいく。
「はいはい。いちいちうるさいやっちゃ」
最初はヘラヘラと笑って場を和ませようとした。柏木さんだって、それで少しは落ち着くと思った。だが、口から出る言葉は気づかぬうちに棘を帯びていく。開口一番ずっと説教だなんて、もううんざりだ。
「お前なら上手く避けれる癖に、こんな怪我して帰ってきやがって」
効率重視だ。当事者でも無いのに何故そこまで怒れるのか。そう反論しようにも言葉にならない感情が喉元で渦巻く。
いつもはよく回る口が、心の奥で暴れるそれに耐え切れず、反射的に声を荒げた。
「だから、お前にはどうでもええやろ!もうほっとってくれ」
声が乾いた部屋に反響する。その瞬間、柏木は深くため息をついた。何も言わずに立ち上がり、無言で玄関へ向かう後ろ姿。ポケットからタバコを取り出すその仕草が、やけに冷たく見えた。
バタン、とドアが閉まる音が部屋に響く。その瞬間、何かが胸の中で崩れ落ちたような感覚がした。
なんや、結局置いていくんかいな。
冷たい床に視線を落とす。期待してた分、余計に堪える。今日は柏木が出張に行っていた為2週間ぶりの再会だった。同棲していて普段常に居住を共にしているとしても、お互いそれを楽しみにしていた筈だ。いくら同業と言えど派手な怪我をして来た恋人にいい気がしないのも、事実なのだろうが。
傷ついたとか、そんなこと言うつもりはない。ただ、じんわりと指先が冷えていくのを感じる。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。時計の針の音すら聞こえない静寂の中、ようやく玄関のドアが開く音がする。柏木が帰ってきた。
胸の奥がまた微かに締め付けられる。足音が近づいてきて、無言で靴を脱ぐ音が響く。そのまま淡々とキッチンへ向かう気配だけが、妙に鮮明に耳に残った。
包丁がまな板を叩く、トントンという乾いたリズム。鍋がカタカタと揺れる音。普段なら何気ない、むしろ心地よいはずのその音が、今日はやけに耳障りだった。
まだ、怒ってるやろなあ。心の中で呟く。でも、それが答えなんて分かりきってる。頭では分かってるのに、どうしようもなく胸がチクリと痛む。
気づけば、過去の記憶が頭を支配していた。冷たく湿った空気と、薄暗い穴倉の中。そこでは、誰に何を期待することもなく、痛みも苦しみも当たり前だった。
「……俺の分だけメシ無いとか、当たり前やったし。別に、ええわ」
誰に聞かせるわけでもない独り言が、空気に溶けて消える。自分でも気づかないうちに、冷たい床に座り込んでいた。膝を抱えて、背中を丸める。それはもう癖のようなもので。
この部屋はあの頃とは違うはずなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのか。
ふと、柏木の足音が静かにこちらへ向かってくる。
そのわずかな気配だけで、心臓が不自然なくらい速く脈を打った。胸の奥が締めつけられるような感覚が波のように押し寄せる。
「……真島」
柏木の静かな声が、ふわりと耳に触れる。だが、顔を上げることができない。
呆れられるだろうか。だが、もう怒られるのは懲り懲りだ。いっそ殴ってくれたら楽なのに。それとも、もう、嫌われるのだろうか。
そんな考えが脳裏を巡り、喉がこわばる。今更になって必死に言葉を紡ごうとするのに、なぜか声が出ない。
普段なら、いくらでも取り繕うことができるはずなのに——今日に限って、それができない。
だがその間にも柏木はそのまま離れることなく、静かに膝をつき、そっと真島の頭に手を置いた。
「そんなところに座り込んでたら風邪ひくぞ。一緒に食わないのか?」
「っは?なんで」
咄嗟に顔を上げた。その瞬間、自分の声がかすかに震えたのがわかる。
柏木は何も指摘せず、ただ穏やかに微笑みながら言った。
「なんでって……そりゃあ、お前の好物も入れてあるし」
その一言に、胸の奥で押し殺していた感情が揺らぐ。顔を伏せる。不貞腐れていると思われたっていい。普段通りを装いたかった。でも、
「一緒にゆっくり風呂に浸かるのもいい。だから」
「…っ、」
喉が詰まって、うまく言葉が出てこない。視界が滲み、涙が今にも零れ落ちそうになる。
「真島」
柏木が近づいてくる。鼓動と重なるように耳の奥に響く。表情を崩さないよう、ただ必死に耐えた。
「どうした」
膝をつき、優しく目線を合わようとする柏木。その手がそっと顎に触れた瞬間、思わず小さく首を振った。
「ん……いやや、なんでもない……」
震える声で絞り出す。でも、そんな薄っぺらい嘘は、柏木には簡単に見透かされてしまう。
「ああもう……ほら」
ぐいっと引き寄せられて、柏木の腕の中に包まれた。その瞬間、堪えていた涙が一気に溢れ出した。
「大丈夫だから、おいで」
ぽん、ぽんと背中を優しく叩くリズムが、心の奥まで響く。
「___っ。」
「こら、唇噛むな。、ほら。」
「っ、ひっ、ぅう」
強がろうにも、情けないくらい涙がこぼれる。必死で隠してきた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。情けない、こんな姿見せたくなかった。逃げようとするも、腕を捕まれそれを制止される。
とうとう堪えきれず、子供のようにしゃくり上げる。
「会って早々あんなじじいみたく説教かまして悪かった。俺も寂しかったよ」
「……っごめん……なさ」
「お前が甘えんの下手なのは分かってたのにな。
でも、惚れてるやつの心配くらいさせてくれ」
その一言が、深く胸に沁みた。自分のために怒ってくれて、心配してくれていたことが、やっと理解できた。
「ん、いい子だ」
そう言うと柏木はぐっと距離を詰め、震える真島を抱き上げ抱き抱えるように膝に乗せた。
顔が熱くなるのが分かる。
おでこをコツンと優しく合わせて、真っ直ぐ目を見つめられる。
「仲直り、してくれないか」
「っ...かしわぎ、さん」
その言葉に、また涙が零れた。耐えきれず、柏木の胸に顔を埋めて、震える呼吸を整える。その間も、柏木は優しく背中を撫で続けた。
「このままリビングに連れてくから捕まっとけ。とりあえず飯だな」
「…ん」
小さく頷いて顔を上げると、柏木が優しく微笑む。その笑顔は、真島にとって何よりも温かくて、すべてを包み込んでくれるものだった。