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    さなぎの続き。時系列は極。ソシャゲのシナリオネタも入っています。柏木視点、真島視点と続きます。

    #柏真
    kashiwajin

    さなぎのつづき22005年12月4日。東城会三代目であった世良が何者かに狙撃され殺害された。その葬儀の翌日、前夜に出所してきたという桐生を街で探したが、見つからなかった。桐生は風間が狙撃されたその場にいた。自分か駆け付けた時にはもうその姿はなかったが、シンジ曰く、風間が呼んだらしかった。相変わらず自分が知らないところで風間は動いているな、と苦虫を噛んだが、親の思考が読めないのは別に今に限ったことではない。とかく桐生と連絡をとることが先だと、シンジに聞くと、昔からの桐生たちのたまり場であったセレナというバーが連絡拠点になっているという。そちらに電話をかけたが、あいにく不通だった。社外秘ならぬ、組外秘のことだが、桐生には、風間の容態は伝えた方がいい気がした。きっと心配しているだろう。風間は搬送先で一度意識は回復したものの、手術の影響からか再び眠りについた。心臓付近を撃ち抜かれ、予断は許さない。だが、とにもかくにも一命はとりとめたことを教えてやらねばならない。会場では、桐生が風間を襲撃したという噂がまことしやかに流れていた。

    (きっとまたあいつは、独りでとんでもない事に巻き込まれている。)

    葬儀の日、その噂を払拭し、すぐにでも行方を捜してやりたかったが、あいにく自分も身がままならなかった。風間の救急車を待つ間、嶋野の襲撃に耐えた。風間とともに自分も一度は病院に搬送されたが、組長のいない間こそ気張らなければいけないのが若頭の務めである。日付が替わる頃、気力で事務所にもどり、やれ、かえしだ、犯人探しだ、と沸き立つ組員をいさめ、日々の任務を遂行した。
    若頭は弱腰だという下っ端がいることは耳にした。だが、世良が倒れ、東城会がこれだけ混乱している時に、これ以上内部で疑いかかって喧嘩をしている場合ではないのだ。
    この街は風間組と嶋野組、その強力な睨み合いと水面下の駆け引きでもって、他の組織をいれないようにしてきたのである。堂島が殺害され、風間組が直系昇格してから十年、ライバルの嶋野組とは冷戦が続いてきた。ある日を切っ掛けに、鷹揚であった風間は口数が少なくなり、それまではなにかと共同戦線をはることもあった嶋野との会合すらもたなくなった。二人の間に何があったのか、想像しか出来ないが、妙なバランスでもって保たれていた関係がついに崩壊したのだろうということだけはうかがい知れた。組同士の亀裂は目に見えて広がっていった。いつしか、東城会全体が、世良を擁する風間派閥か、それをよく思わない嶋野派閥かに分類されていった。どちらにも属したくない組もあったろうが、この街でコウモリ的な動きをすれば、どちらの組員にも睨まれる。必然、口だけでもどちらかに与するかを決めなければ、東城会の中で立場が危ういということになっていった。小さな所帯の組は、この十年、この街では息を潜めるようにして過ごしてきた。暴対法の取り締まりが年々きつくなり、昔からのショバ代やみかじめをとることすらままならない。金を稼げるシノギは高度な専門知識を求められることも多くなり、廃業、統合してゆく組も数多く見てきた。
    組織の縦の部分が固定されてしまっていた弊害が出たのか、今まで抑えられていたものが弾けたように、神室町の治安は悪くなっている。特に、今回の会長襲撃は下っ端にまで下剋上の夢をみさせたのかもしれない。世良は堅気との融和政策を図っていたので、東城会全体としても、あまり無茶なことはしなかった。だが、その世良がいなくなり、また後ろ盾であった風間が襲撃されたことによって、なりをひそめていた古い組や、新興のギャングたちがここぞとばかりに好きにしだした。勝ち馬にのりたがる者は一夜にして嶋野組に翻り、また、二人を邪険にし、なりあがりを夢見る若い組は錦山につこうとしている。街のバランスが一気に崩れる気配がするのだ。そしてバランスが崩れた時には必ず他の組織が入ってくる。
    現に今も、近江連合の者が街に入り込んでいると報告がきている。まだ風間組はなくなったわけではない、自分がしっかりしなければならない。

    「…っ…。」

    事務椅子に腰かけながらも、思わず身を屈めた。嶋野に殴られた傷が癒えていない。痛み止めを飲んでいても、胸部が痛む。肋骨にヒビがはいっていた。
    今回、嶋野は本気なんだろう、と思われた。風間が撃たれた時、その場にいたのは嶋野であった。こちらが駆け付けた時、風間の横にしゃがんでいた嶋野は、何を思っていたのか。こちらを振り返ったその表情には鬼気迫るものがあった。

    (長年のライバルを、弱り切ったその姿のまま、その手にかけようとしていた瞬間だったのだろう。)

    昔なら、きっと互いが万全の時に決着をつけていたはずなのだ。しかし、風間が杖を使い始めてから、とても万全とは言い難い状況になった。互いに歳が近く、風間も嶋野ももう六十歳をすぎた。夢を見るに、これが最後のチャンスである。

    (若い頃の二人の間に何があったのかは知らない。だが、好敵手という言葉や先を越された憎しみなどで片づけられる関係ではなかった。)

    風間は昔言っていた、

    『嶋野って男は、こちらの考えがわかるってのに、最後には、それは違う、というから面白い。』

    と。自分は風間の考えは分からないことが多い。思考の先が遠大すぎて、いつしか彼の話の百をわかろうとするのではなく、十は完璧に分かって実行できるようにしようと思うようになった。風間はこちらのその態度が気に入ったのだろう。若頭にもなり、信頼もされ、今までやってきた。その風間をして、嶋野太という男は、理解に足る男だと言っているのだ。手放しの賞賛に近かった。きっと気質は違えど、同じ思考のステージにある、言葉が通じ合う者同士なんだろう。それは嶋野も同じなのかもしれない。大きな組の組長とは孤独なものである。力で成り上がってきたのだから、いつか下の者に力で倒されても文句は言えない。例え敵同士であっても、その孤独は、どこか通じ合うものがあったのだろう。

    葬儀の日。こちらが、嶋野の言葉にのらず、部屋から出ていかないと言った時、嶋野は明らかに機嫌を悪くした。そして言われたのだ。

    『悪いがおんどれは信用できへん…風間から離れろや。離れへんなら…桐生とグルやとみなして……殺す。』

    まるで語るに落ちたような言い方だったが、あれは本音かもしれなかった。あの時の嶋野は、風間を守る為、というわけでなく、風間を殺す権利をかけてこちらに殴りかかってきたのだ。

    『風間は殺させへんで…柏木ぃっ!!』

    それは、何者にもこの関係を手出しさせない、という気迫だった。不味いところを踏み抜いたのだ、とその瞬間に悟った。さしずめ龍の逆鱗ではなく、虎の逆鱗といったところか。極道の根幹であるところ、そこが確かに、風間と嶋野は似ている、と、妙なことを考えながら只管その拳が振るわれるのに耐えたのだった。


    口を切っていて、水を飲むのも痛い。なんとか大きな錠剤を飲み込み、痛み止めの薬のシートを屑籠に捨て、はぁっと溜息をつく。
    賽の河原に使いをやらせ、桐生の動向を探らせいた。この街にはいるはずだ。遠くには行っていないだろう。風間にはシンジがついている。もし、このまま、目覚めない時にはどうするか、それも考えつつ、日々の業務を進める。

    (風間の親父がどうなろうと、風間組がどうなろうと、東城会がどうなろうと、この神室町で生きる人間にとって、日々やることに変わりはない。時間は待ってはくれない。)

    今日も仕事帰りのサラリーマンが、そろそろ飲み屋ののれんをくぐる時刻である。ネオンが輝きだし、金が動き出す。神室町に何一つ問題なく平穏な日というのは存在しないといっていい。本家も世良がいなくなり、大混乱している。そして、いま本家の若頭である風間が重体。考えれば考えるだに頭が痛くなった。
    電話が鳴る。受話器をあげる。電波が悪いが子分が何やら指示する声が聞こえた。

    「どうした?」
    『あっ、カシラ! 桐生がいました!』

    子分の声に、どこだ?!と立ちあがる。肩口が痛み、ぐっと体幹に力を入れた。

    『シャイン…ピンク通りのキャバクラの前で喧嘩してる姿を目撃されてます。』
    「今か?」
    『ついさっきのことのようです! 遠くには行っていないかと…。』
    「わかった、すぐ行く。留守番を頼む。」

    受話器を置き、席を立つ。へいっ、と頭をさげる子分を尻目に、速足で事務所を出た。



    中道通裏を抜けてピンク通りに出ると、そこはまだ騒然としていた。野次馬がようやっとチラホラ解散し始めているところ。大きな喧嘩があったと見える。派手なシャツの男、柄物スーツの男の背中がある。桐生は極道者とやりあったのだろうか、もしかして嶋野組の組員であればことだ、とこちらも気合をいれ、子分が待機する横を通りすぎる。少し殺気すらにじませ、その人垣のなかに入っていった。
    すげぇオカマがケンカしてたってよ、と若い男が言い、写メ撮った?と横のチャラそうな男が聞いている。

    (オカマ…?)

    道路に、目を見張るような派手なピンクの付け爪が一本落ちていた。人を縫って割り込むようにして入ると、そこには見知った真島組の組員がいた。野次馬を留めているような仕草に、何があった?と聞くと、はっこれは柏木のオジキ、と頭を下げられ、道をゆずられる。桐生がいたそうだが…と聞こうとして、口をつぐんだ。キャバクラ、シャインの看板の下、道端でうずくまっていた女が立ち上がった。いや女ではない。

    「…?」

    振り向いたその顔には眼帯があった。

    「お前……。」

    思わず口ごもってしまう。化粧ののったその顔を見れば、見知った顔。会長の葬儀の翌日だというのに、なにをしているのか。

    「なにをしているんだ、真島。」
    「あれ? 柏木さんやないか。」

    恐らく喧嘩で切ったらしい血のでる唇をぺろりと舐めってから、

    「あと、真島とちゃうで、ゴロ美やで?」

    と、おどけてみせた。

    「…………。」
    「ゴ・ロ・美!」
    「はぁ?」

    声が裏返ってしまう。真島はヒールの高い女物の靴で器用に歩き、こちらに近寄ってきた。同じくらいの背丈だが、いまはヒールのせいてこちらより少し視線の位置が高い。

    「真島、さっき桐生が…。」
    「真島やないて、ご、ろ、み!」

    言葉を遮られ、ジト目て睨んでやるが、それすら面白そうに真島は笑い、少ししなをつくった仕草で、

    「シャインに新しく入ったキャバ嬢やで?」

    と店の看板を指してみせた。その爪には綺麗にネイルが施されている。その爪の中指の一本がとれていた。

    「あぁ、やっぱり爪見つからんわぁ。」

    そう言って落としたコンタクトを探すように、また真島はしゃがみ、道路に手をつき俯いた。真島組の組員が人除けをしていたのはこのせいか、と思った。

    「………。」

    一体何を思ってこんなことをしているのか。真島の思考は理解に苦しむが、彼なりの道理や何やらがあるのだろう、と思い、はぁっと息を吐き、先ほどの人ごみのなかに戻る。道路に落ちていた、一度踏まれたらしき爪を拾って、真島に近づいた。

    「これか。」

    さしだすと、あーーっ!と大きなリアクションでもって、真島は立ち上がった。

    「これやこれぇ! よう見つけたなぁ。めっちゃ探したんや。」
    「向こうに落ちていた。だいぶ派手にケンカしたみたいだな、真島。」
    「真島とちゃう。」

    爪を受け取った真島は、むすっ、と頬を膨らませ、もう一度、ちゃう、と言った。拗ねたような響きがある。考えるように横を向き、そっとため息をついてから、目の前のとんでもない格好の男に向き直った。

    「ごろみ、か。」
    「そやで?」

    ぱっと真島の表情が明るくなった。何かの遊びの一貫かもしれないが、のってやるほうが話が早いだろうと言葉を続けた。

    「じゃあ、お嬢さん。桐生ってやつを見なかったか。探してるんだ。」
    「いやー、お嬢さんやて! 上手いわぁ! さすが風間組の若頭さんやぁ。」

    女のような声で言う。それに回りの組員からどっと笑いがおこった。殴り飛ばしてやりたくなるのを堪え、睨むだけにしておいた。そもそもそんな大きな声でこちらの素性を言わないでほしい。周りの視線が痛かった。

    「その生傷、今しがたのケンカでできたんだろう?」

    短いスカートから出た、刺青の入った太腿。その下には網タイツが履かれている。その膝が擦りむいていた。

    「いやーん、えっち!」

    とスカートの裾を下す真島。その楽しそうな姿に、はあっとため息をもう一つ。

    「話す気はねぇんだな…ならいい。」

    こちらが踵を返そうとするのに、真島は、あー、まってやぁ、と聞いたことのないような甘えた声をだした。

    「待つもまたねぇもない、忙しいんだ。用がないところで駄弁ってる暇はねぇんだよ。」
    「桐生チャンやろ。どこいったか。知りとうないん?」
    「知っているのか?」

    それに真島は、ニィっとルージュで彩られた唇を歪ませて、

    「ここではなんや、中で酒でも飲みながら話そや。」

    と、女の声ではない声で言った。


    シャインに入る。まだ時間が浅く空席が目立つが、真島組の貸し切りではなく、通常営業をしているらしい。その奥の座席に案内される。店長が自ら出てきたが、真島が慣れた様子で追い払った。真島組の子分も店内まではついてこず、二人きりになる。
    ピンク通りの店は付き合いのある店も多かったが、接待といえどもキャバクラなどには久しく入っていない。シャインもこんな内装になったのか、と視線を天井の照明にやっていると、真島は、その姿のままこちらの横に腰かけた。わりと近いところに座られ、一瞬身を引いた。

    「どーもー、シャインにようこそー。ゴロ美でーす!」
    「………。」

    甲高い声の自己紹介に、思わず固まって、その顔を凝視してしまう。真島はさすがに居づらそうに、一瞬目を伏せ、

    「なんや、テンション低いのぅ。」

    と低い男の声で言ってみせた。

    「お疲れか?」
    「…いつも通りだ。」
    「いつもより、眉間に皺よっとるやないか。お酒、なににする?」

    普通に嬢として接客しだす真島に眩暈を覚えつつも、

    「水割り。」

    とつい答えていた。ふわふわとしたソファに負荷がかかり、肋骨が痛い。思わず胸を押さえる。サイドなににする、と可愛い言い方で言って、真島はこちらに食べ物のメニューを見せた。キャバクラごっこに付き合っている暇はないのだが、無駄に歩き回ってこの街で桐生を探すよりは、ここで真島から何かを聞き出すか、花屋の情報を待つ方が良いだろう。桐生のこと以外にも、真島から聞きたい話もある。なんでもいい、適当にしろ、と言うと、ほなこれとこれ、とボーイに注文し、真島は長い爪のまま、器用に水割りを作り出した。

    「おまちどうさまー。」

    ちゃっかり自分のも作った真島は乾杯と、グラスをさしだした。おう、と腕を上げて、一口つける。傷には染みたが、なかなかうまい水割りだった。

    「しかし、いったいなんだってそんな格好してんだ…。」
    「桐生ちゃんと喧嘩するためやで!」
    「なんだ、嶋野の叔父貴からの指令か。」
    「違うて! 好きでやっとるんや、ひっさしぶりにあいつが娑婆にでてきよったんやから、楽しませんとなぁ!」

    そう心底楽しそうに言った。確かに、彼らはよくケンカしていたし、歳もそこまで離れていないこともあってか、つるむ、というまではいかないものの、時々一緒にいたところを見かけたものだった。

    「よく桐生を見つけたな。出所日知っていたのか?」」
    「そら出所日までは知らん、けれども、あいつが神室町戻ってきた、いう話はすぐ耳に入ったからな!」
    「まぁ…確かにな。」

    桐生一馬、堂島の龍。十年服役していたとはいえ、神室町では親殺しとして有名な名前だった。顔を知っている者もまだ居るだろう。あんな事件があった翌日であったから、地回りで警戒していたヤクザに顔を見られれば、一気に情報が駆け抜けることも想像に難くない。こちらも桐生の出所日を忘れていたわけではなかったが、前日に世良が殺害され、風間組もそれどころではなかったのが、今回の擦れ違いの原因だった。

    「それに、桐生チャンやったら、すーぐにこういうとこ来るやろ? 子分に見張らせとってん。ドンピシャやったで。」

    十年、女のいないところにいたら、気持ちは分かるが。いきなりソープではなく、こういう場所に来るというのが、変に真面目な桐生らしいと言えばそうなのかもしれない、と苦笑する。

    「喧嘩しとうてたまらんから、よっしゃ!おもて道で襲撃したったら、筋の通った喧嘩でないと買わんいいよるねん。十年ムショで暮らしても、ほんま変わってへんで、あいつ。」

    そうどこか嬉しそうに言われる言葉に、こちらもつい温かい気持ちになる。錦山も由美も、風間ですらああなってしまった今、この街で桐生を待っていてくれた人物が、自分以外に一人でもいたことが嬉しかった。

    「それで、筋通してやろおもてな! 女の子としゃべろう、という気持ちで入ったら、こんな眼帯のオカマでてきたら、話がちゃうってなるやろ。カッとなるやろ! 喧嘩しとなるやろ!?」

    な、筋とおっとるやろ?!と顔を覗き込まれ、その派手な化粧ののった顔に、思わず笑ってしまう。ふっと香る香水の匂いに、胸がずきんと痛んだ。

    「ははっ、あまり笑わすな、痛い。」
    「なんや、どっかケガしとるんか?」

    こちらが脇腹を押さえるのに、真島ならぬゴロ美は心配そうに覗き込んだ。

    「あぁ…ちょっとな。」
    「確かに、顔にも痣あるやないか、あんたが、そないになるて。どないしたんや、一体。」
    「聞いてねぇか。」
    「いや、まぁ…噂には。そうか…あれほんまやったんか……。」

    そう沈んだ顔で真島は言った。葬儀でのごたごたは色々な尾ひれがついて伝わっていただろう。こちらが救急車で搬送されてからも、いろいろあったという。真島は、はっと短い溜息をついて、水割りを飲んだ。

    「なんや、おもろないことになっとんな。」
    「面白い、とお前ぇなら言うと思っていたがな。」
    「俺は喧嘩したいだけやからな、それ以上の面倒臭いゴタゴタには巻き込まれとうない。」

    その目に憂いがあった。

    「それに…。」

    なんだ、とこちらが言葉を待つのに、真島は、そのナイロンらしき金髪の毛をふるふると振って、

    「やっぱりおもんない! こんな話はおもろないわ。せっかくゴロ美になっとるんやから、そういう仕事の話はなしやで!」

    そう癇癪起こしたように言った。そこに、ボーイがフライドポテトの山盛りとフルーツ盛りをもってきた。そして、その横にはシャンパン。グラスは二つ。

    「お前ぇ、これなぁ。」

    ピンクのドンペリである。真島はそれをボーイから受け取り、長い爪で器用に栓のラベルをはずした。

    「金もっとるんやろうが。」
    「そういう問題じゃねぇ。」

    何故、真島と飲み交わさなくてはならないのか。桐生の話さえ聞ければ、すぐにでも事務所に帰って、山積みの仕事を片付けなければならないというのに。

    「今日は酔ってる暇ねぇんだよ。」
    「こんなもん一本くらいで酔うかいな。」

    そう言って、上封が切られた瓶を持ち、蓋を開けた。ポンっと景気のいい音が鳴った。ロゼのそれが注がれる。シャンデリアの光に照らされ、それは細いグラスのなかでキラキラと煌めいていた。

    「ほれ、乾杯や~。」
    「あぁ…もう…。」

    半ば自棄ハチで、手に押し付けられたグラスを、ぐっと煽った。


    結局、瓶を半分開けたところで、傷が痛むと勘弁してもらった。もっと無茶に飲まされるかと思いきや、それなら早よ言いや、と真島は素直に引き下がった。彼はこれでも嶋野組の若頭である。嶋野の狂犬、武闘派真島組の組長。ライバルの組の同格であり、メンツや人の目もあり、真島とサシで飲むことは今までなかった。個人的な付き合いもなかった為、このように親しく話すことも妙に新鮮だった。立場が違えば、こんな風に飲み交わすこともあるのかな、と思った。

    「それで、桐生ちゃんがな、自分もいっぺんキャバクラの黒服やってみる、言いよんねん。ほんまおもろいで。」

    先ほどまで桐生と話していたらしい会話を面白おかしく聞かせてみせた。こんなところで飲んでいる場合ではないと思っていたのに、気づけば真島の話にまんまと乗せられていた。こんな話術があるのだ、と感心するとともに、ふっとあの夜の記憶が蘇った。自分は、彼のこの話術を知っている。人をその気にさせる、喋り方を聞いたことがある。

    「…っ。」

    少し酔いが回る。長い髪をかきあげる仕草に、あの日いなくなった青年が重なった。ずっと封じてきた記憶だ。もう古い記憶過ぎて忘れていた。いや、あえて忘れようとしていたのかもしれない。

    「…………。」

    思わずよく動く真島の唇を凝視してしまった。ルージュが引かれている、ぽったりとした下唇。その唇を重ね、こちらに縋りつくように腕をまわしてきた、あの夜の熱。鮮やかに蘇ってしまい、はっとする。誰にも言うことのできない、墓場まで持っていこうと決めた記憶だった。動悸がするのを悟られまい、と胸をおさえる。

    「どないした?」
    「いや…なんでもねぇ。」

    急に視線をそらした自分を、真島は怪訝な顔をするかと思いきや、心配するような声音で言った。

    「すまん、飲ませすぎたか。」
    「情けねぇが満身創痍でな。」

    そう言って、立ち上がった。これ以上は、耐え難かった。あの日の朝、別れ際が苦しかった、そんな想いまで蘇ってしまったのだ。

    (彼はもういない。)

    目の前の男ではないのだ。そう強固に言い訳し、席をたつ。ブースを出ると、こちらを伺っていただろう店長がやってきてお辞儀する。会計は事務所にツケておいてくれ、すぐにでもいるなら人をやらす、というのに、店長はいえいえと大きく首を振った。真島がこちらの後に続き、玄関まで送る。

    「柏木さん。」
    「ん?」

    ちょっと待って、というような仕草をして、横にいたボーイに何やら指示をした。奥から携帯電話を持ってこさせた真島は、それを操作し、レジ備え付けのメモ用紙にサッとペンを走らせた。

    「これ、桐生チャンのメアドと携帯番号や。」
    「桐生が携帯を?」
    「せや。ここの嬢に聞いてん。」

    調べるの難儀したんやからな、といわれるのに、驚きと真島の恙無さを改めて見直した。

    「わかった、礼はする。このことは…。」
    「親父には関係ないから言うつもりないで。」
    「そうか…。」

    なら、風間の耳にもいれないほうがいいのかもしれない。それがフェアなのかもしれなかった。すまないな、というように目礼すると、真島はやはりどこか柔い会釈でもって返した。

    「じゃあな。」

    ボーイが扉を開けて頭を下げる。その横を通りすぎようとした瞬間、真島に腕をとられた。

    「…っ!」

    驚いて身を引く。だが、かなりの力で腕をひかれた。真島がこちらに身をよせ、顔がよせられた。ふっと甘い香りが鼻をかすめる。

    「親父に女の子探せ、言われとる。」

    耳元で低い声で、囁くように真島は言った。

    「もし、あんたんとこにおったら、あんたともケンカせないかん。」

    挑発めいた文言だが、その言葉は苦慮に満ちていた。肩に彼の薄い胸が触れる。彼を一度この腕に抱いたことを思い出した。

    「親の命令や、手加減はできんで。」
    「…わかった。」

    そうかろうじで頷くと、真島は、ふっと息を吐いて身を離した。緊張が霧散する。扉をくぐる。

    「またのおこしをおまちしてまぁーす!」

    可愛く声を裏返した真島が頭をさげる。色々聞きたかった、話したかった。だが、あの日のことを覚えているか、等とは口が裂けても聞けない。

    (もし覚えていたとしても、互いに墓場まで持ってゆく記憶だ。)

    真島の視線を後頭部に感じながらも、振り返らないように店を後にした。甘い香水が鼻先にのこった。





       * * *




    東城会の会長である世良が狙撃された次の日、あの堂島の龍、桐生一馬が十年の刑期を終え出所したらしいと報告を受けた。翌日、世良の葬儀で風間が何者かに撃たれ、その場から桐生は逃げた。街で会った彼は昔と変わってはいないようであったから、きっと今回も何者かの陰謀に巻き込まれているに違いなかった。
    桐生は、模範囚として塀のなかで大人しくしていたらしい。街で久しぶりに見かけたその姿は、昔の凛々たる龍の面影はなく、どこにでもいる務め帰りの極道そのものであった。手合わせしても、その実力に陰りが見えていた。それだけでも随分寂しかったというのに、そんな桐生に、昨日、嶋野は負かされた。

    (しょーもな…。)

    親が膝をつく様子を見、思わずそう胸中に呟いてしまった。桐生は、軽くとはいえ、こちらと手合わせした後に、嶋野と事を構えたのだ。

    (親父も歳なんかのぅ…。)

    嶋野太という男は偉大であり、巨大であった。漲るオーラで場の雰囲気を変える、誰が見ても一目置く男であった。そうであったのに、紋付き袴で膝をつく、その背中が少し小さく見えた瞬間だった。

    今回の一件、嶋野が張り切って動き出したのは、その寄る年波の焦りからではないか、とすら思いはじめた。嶋野はいつも風間を意識していた。昔、自分を使い堂島を失脚させようとした時、テッペンをとるのならば、倒し方を考えなければならない、と嶋野は言ったのだ。あれから十余年、嶋野組と風間組とは、米ソの冷戦のごとく、冷たい戦をこの街で繰り広げてきたのである。
    昭和から平成に代わり、極道をとりまく環境だけでなく、世の中全体のスピードが変わってきた。東城会の役割も変化してきた。それを息を殺すように嶋野は時流を待っていたのだろう。幹部会で百億の話がでたらしいその後、こちらは呼び出された。

    「真島、時は来たり、や。」

    いつでも動けるようにしておけよ、と。ご機嫌な顔でそう言われたのである。

    ちょうどその夜であった。世良が神室町のビルの一室で何者かに狙撃された。自分の事務所に戻ろうと街に戻ってきて異変に気付いた。未だ規制線の張られたビル、パトカーのサイレンがあちこちで聞こえる。ヤクザ者が携帯電話片手に、慌ただしく連絡をとっている。警官が辻に立ち、周囲を警戒している。
    ほどなくして、ニュースに、東城会の三代目が狙撃されたと一報が流れた。報道のヘリが飛んでいる。普段見ない格好の人間が、野次馬が、携帯の写メを構えて道にたむろしている。

    (煩いな。)

    この街のバランスがどこかで崩れた。この神室町全体がグラグラ揺れている気がする。

    (気持ち悪い…。)

    あちこちで、人の思惑が、どろりと醜いものが噴出し始めたのを感じた。



    カラの一坪の事件以来、嶋野はここぞという時にしか自分を用いなかった。何か力づくでしか解決しないことがあるまでは、上納金さえ適当に納めておけば、若頭といえども、のらりくらりしておいていいと放置されていた。可愛い子には旅をさせよ、と冗談か本気かわからぬ顔で嶋野は言っていたが、あれ以降、外面は完全に自分は“嶋野の寵児”であった。
    嶋野組に復帰してから、まずしたことは、穴倉でこちらをいたぶってきた奴らを片っ端から痛めつけることだった。自分があのなかで悲鳴をあげていた記憶など、誰の頭にもあっていいはずがない。暗い中でも、こちらに手出ししてきた輩の顔も声も覚えている。下っ端は入れない場所であったから。大概は嶋野組の幹部や、普段事務所に詰める嶋野の供回りの人間だった。
    こちらが私的に制裁を下すあいだも、嶋野は何も言わなかった。最後に、こちらの顔めがけて尿をひっかけてきた奴を半殺しにしてやろうと思った。だが、相手を調べると、つまらないことで足をとられ、今は服役中とのことだった。出てきたら、口もきけないほど嬲ってやろうと思っていたのに、残念なことに獄中で病死したとの報が入った。

    (つまらん。)

    次にすることは、こちらの片目を奪った人間に復讐することであった。あの場にいた人間、わかる限り全員、物も言えぬくらいにしてやったが、その事で柴田組が嶋野に何かを言ってくることはなかった。柴田が何か声をあげれば、あの日のことを、何故自分が捕らえられ結果義兄弟があのようになったのか、少しは探る切欠が掴めるかもしれないと思ったのに。直系で同格である組を滅茶苦茶にしてやったにもかかわらず、柴田は貝のように口を閉ざし、嶋野も何も言わなかった。全て嶋野はわかっているのだろう。そして、その態度は、絶対にそれを自分には話すつもりがない、ということだ。あの事件で、誰が得をしたのか、誰が仕組んだことで、自分はこうなっているのか。長年の疑問に答えてくれる相手がいない。考えても考えてもわからない。それが常に心を苛んだ。
    どれだけ暴れようと心が晴れることはなかった。自分がヘマをし、穴倉に落とされ、面目を失ったまま、この街に戻ってきた事実は消えなかった。誰も、こちらの標的にされる人間が、穴倉での復讐をされているとは面と向かっては言わなかった。あの事件に関連していること、とうっすらと噂はあったが、噂した人間すら半殺しにした。自分が陥れられ、義兄弟を裏切る下手をうち穴倉にいれられた、と時が経つにつれて誰しも口にできなくなった。力で汚されたことは、力で恥を雪ぐしかないのだ。
    この時点で、事件から四年の歳月が経とうとしていた。もう自分に文句をつけてくる者もいなかった。それどころか、嶋野組の兄貴分でさえ、こちらと目をあわせただけで愛想笑いを浮かべる始末で。ひとつ、やらなければならないことは済んだ。そんな、こちらの癇癪がおさまったと見てとった頃、嶋野は自分を嶋野組の若頭に任命した。
    嶋野の狂犬という通り名が、自分の名前より有名なった。その頃には、神室町で敵なしになっていた。あの日、柏木から名前を聞いた堂島組の桐生という男だけは、腕に覚えがあったようで、時々喧嘩を買ってくれて面白かったが、その桐生もほどなくして街から姿を消した。また面白くない日々がやってきた。

    昔から喧嘩は好きだ。サシの喧嘩の最中だけは、相手の視線が必ず自分だけを見るから。幼いころから、その腕っぷしを試すように、誰彼かまわず喧嘩をふっかけた。勝つことも負けることもあったが、それでも面白かった。しかし近頃、ふと空しくなるのだ。最近は喧嘩をしていても、その視線がすぐに恐怖に変わる。同じだけ面白いと思ってほしい。街を彷徨っても、めぼしい相手が早々見つかるわけではない。

    (つまらん。本当につまらん。)

    極道としての大きな目的もない。この世界で成り上がりたいという気持ちは、義兄弟を失った時点でさっぱり消え去っていた。自分がいま極道でいるのは、一人獄中にいってしまった義兄弟への義理立て気持ちのみだ。どれだけ色褪せた日常が待っていようと、ただ死ぬまで、この街で生きる。それが生き残った人間のできる、せめてもの罪滅ぼしだった。



    三代目が殺害されてから、東城会内部では蜂の巣をつついたような騒ぎになった。つまらなかった街が俄かに色めき立ち、カオスな神室町の雰囲気が戻ってきたが、その喧騒とは裏腹に、こちらの心は塞ぐばかりだった。百億の件、とよばれることで、毎日嶋野から電話がかかってくる。組員も、どうしましょうと落ち着かない。せっかく桐生が娑婆にでてきたというのに、ゆっくり喧嘩することも出来ないとなれば、苛立ちはピークに達していた。
    葬儀の日、嶋野が負けたところを見てから、あまりにも憂鬱でどうしようもなく、かねがね考えていた計画を実行にうつした。女装をして、真島吾朗とは別の女性になりきることだ。
    いつか、なにもかも放り出して、その姿で夜の街に繰り出したいと思っていた。あわよくば、昔のように、誰か行きずりの男性の腕に抱かれたかった。神室町ではない遠く離れた街でのワンナイトスタンド。自虐的な気持ちで、どん底まで落ちたかった。喧嘩で憂さ晴らしができないのなら、セックスで何も考えられないくらい無茶苦茶にされたかった。でも、あの真島吾朗が男に足を開いている、などと噂されたら面倒なことになる。そう躊躇しているうちに、歳を重ねてしまい、いつしか時々部屋のなかで一人楽しむだけになっていた。

    ピンクのドレスに着替え、網タイツを履き、化粧をし、金髪のカツラをつける。ネイルチップを念入りに指につけた。髭を剃るか迷ったが、この一連の流れで公の場に出なくてはいけないことを考え、残った理性がそれを止めた。姿見の前で一回転、出来上がりに苦笑する。

    (バケモンやな。)

    鏡に映るのは、四十路越えの女装のオッサン。いつしか、人目をひく美しい容姿も、男好きする華奢な体もなくしてしまった。

    (せめて笑ろてくれるやろか。)

    桐生あたりなら、ジト目で見つつも話にはのってくれそうな気がする。何一つ、価値のなくなった自分でも、面倒ながらも相手してくれる気がした。

    (せめて怒らせてやって、喧嘩できたらええな。)

    そう思いながら眼帯をつけていると、ピピピピ、と携帯電話がけたたましく鳴った。ディスプレイには、親父、の文字。

    (もう何度目やねん! 知らん…今日は真島吾朗はお休みや!)

    うるさく鳴る携帯電話の電源を切り、ベッドの上に投げ捨てた。後でどれだけドヤされるか分かったものではないが、今日だけは本当に、しゃべることすら気乗りがしなかった。



    ピンク通りのキャバクラ・シャイン。あらかじめ話を通してあった店長に、中に案内される。更衣室に使ってください、と宛がわれた倉庫のような準備室で、使い古しのソファに座っていると、桐生の動向を探らせていた西田が、子分を引き連れ、顔を曇らせてよってきた。

    「なんや、桐生チャン呼び出されへんかったんか?」
    「いいえ、それはもう手配済なんですが…。」
    「せやったら、なんや。」
    「あの…嶋野の親父が、親父の携帯電話がつながらんといって…。」
    「あぁ? 真島組長は非番や言うとけ。」
    「いや、その、そう言うとおもったんで、言付け承ってます。」

    なんでも、百億の件に関わりある少女を探せという話らしかった。

    「アホらし、そんなもん俺やのうてもできるやろ、他にさせとけや。」
    「はぁ、それが、風間組が噛んでる養護施設の出の子供らしく…。」
    「風間組?」

    こちらの声音がかわったのに、子分のあいだにも、にわかに緊張が走る。西田も、元から細い目をさらに細めて、困ったように言った。

    「ええ。風間んとこにおるかもしれんから、力づくでも連れてこい、とのことです。」
    「はぁ…?」

    よりによって風間組なのか。もし風堂会館にいるなどということになれば、こちらの喧嘩相手は、あの柏木ということになる。

    「…………。」

    顎に手をあて考える。子分も不安そうに見ているが、すぐには良い案が浮かばなかった。

    「わかった、とりあえず地回りの奴らに言うとけ。神室町にきとるガキいうたかて、何百とおるやろ。そんなもん探すだけ無駄や。それより他の組の動きに気ぃつけとけ。誰ぞ見つけるやろ。そのガキやと確証とれたら、そいつから奪ったらええわ。」

    へいっ、と低い声で返事した子分たちが部屋を出てゆく。はっと短くため息をつき、合皮の傷んだソファに深々と背を預けた。

    (柏木さんと喧嘩、か。喧嘩はしたいが、しかし…。)

    戯れの喧嘩ならいくらでもしたい。だが、問題は、今回に限っては、風間組に本気のケンカを売らねばならないことだ。今回は嶋野は本気で風間組を潰そうとしている。十年にわたる冷戦状態を解除し、核弾頭を打ち込もうしている。そして、そのミサイルは恐らく、自分なのだ。

    (殺し合いはしとないな…。)

    引き金を引けば、戻れなくなる。組同士の全面戦争だ。場合によれば、嶋野は風間を殺るつもりなのだろう。そしてきっと、その時に、横にいる柏木を殺すのは、自分の役目なのだろう。

    「……っ…。」

    その場面を想像して、息が詰まった。血に濡れた柏木の顔を想像して、唇が震えた。

    (あかん…。)

    耐えられない。胸がきゅっとなった。鼻っ柱がツンとする。これはいけない、と頭を振るが、最悪な想像が次から次へと浮かんでたまらない。

    「あー…嫌やな。」

    忘れたかった。けれど、あの日から、ふと心が弱ると、あの思い出に縁(よすが)を求めてしまうのだ。大丈夫か、と心配しながらも、熱烈に自分を抱いてくれた腕を思い出す。あの後、彼を忘れるように遮二無二女を抱く練習をし、結婚や離婚もし、気儘に生きている今でもやはり、あの一夜は特別だと思う。
    激しい怒りも悲しみもいつかは癒えると思うが、先の見えない漠然とした憂鬱は人を殺せると思う。そんなじわりじわりと体温を奪っていく思いに沈みそうになった時、何度も使い古したフィルムのように、脳内に再生される一夜の思い出。夜明けに一人、あまりの虚しさに、いっそ死にたい、と自棄をおこしたくなる時も、それは時限装置のように再生され、思いとどまれ、と記憶の中の彼が言うのだ。

    (助けて、と言ったらほんまに助けてくれるんやろうか。)

    何か困難に見舞われた時、立ち止まり周りを見渡してみろ、と。見てくれる人がいて、助けてくれるかもしれない、と彼は言った。その言葉を信じたかった。けれども、本当にそう叫んで、誰も助けてくれなかった時、それはもう立ち直れない気がしたから、口には出せなかった。優しい思い出に何度も縋った。でも、今回に限っては、それにすら縋ってはいけない状況だ。

    (あんたを目の前にして、あんたを殺したない、って言えるわけないやろ…。)

    嫌やな、ともう一度呟いた時、桐生が来店した、と黒服が告げた。




    桐生と喧嘩したあと、まさかの柏木と酒の席を一緒にする機会に恵まれた。あの夜以来、初めてといっていい。ちゃんと会話できたかわからないけれども、とにかく柏木をそのまま帰したくなくて、必死に喋った。うわっ滑りな言葉もあったと思う。でも、あの日のデジャヴがよぎるほどには、柏木はこちらの話を真剣に聞いてくれていた。
    柏木は、葬儀場であったことを言葉を濁しつつもこちらに伝えた。こちらをまだ敵だとは認識していないような話ぶりだった。嶋野にだいぶとやられたらしい。怪我をする身体をかばう仕草に、嶋野への腹立たしさが更に募った。親への怒りといっていい感情のまま、柏木の腕をとる。驚いたような顔をする、その腕を引く。

    「親父に女の子探せ、言われとる。」

    耳元に顔を近づけると、ふっといつもの煙草の香りがした。ゾワッと体中が総毛立った。

    「もし、あんたんとこにおったら、あんたともケンカせないかん。」

    挑発めいた文言を発する、その唇が震えてやしないかと思う。

    「親の命令や、手加減はできんで。」

    わかった、と柏木はこちらの目を見て頷いた。その逞しい体にすがりつきたい思いをなんとかこらえて、店から出てゆくその姿を見送った。薄暗い店内から、ネオンの光る街に続く扉。あの日のように、逆光に消えてゆく姿に唇を噛む。柏木特有の香りが、ひどく郷愁を誘った。




    つづく
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    sueki11_pxv

    MOURNING京にきてからの鴨五。五視点。維!のド核心のネタバレ有(むしろその話)なのでご注意ください。
    十夜孟冬、市場に殻付きの銀杏の実が売り出される頃。開け放した障子戸から、念仏の声が聞こえる。京の各寺院では、この時期に、十夜法要が開催される。念仏を十日十日唱える、という法要だ。実際には十日も唱えていないのかもしれないが、寺院が多いこの界隈は、この寺が唱え終わるとこの寺、というように、ひっきりなしに様々な音律の念仏が聞こえる。この時期は、お十夜、と京洛では呼ばれていた。

    今日はまだ少し日中は暖かく、褞袍を羽織らなくても、袷(あわせ)の着物一枚だけで心地よい。縁側に紙を敷き、そのうえで銀杏の殻を割る。木槌を使って、一つ一つ殻に割れ目を入れるのだ。面倒だが、これをしないと火鉢の上で爆発する。銀杏の白い殻を持ち、コンと木槌を落として割っていく。コン、ぱり、コン、ぱり、という小気味よい音と、遠くから聞こえてくる念仏の声。穏やかな午後だ。一週間前に、あの凄惨な事件があったことなど、嘘のように。胸に芽生えた苛立ちに、木槌を落とす手元が狂った。コンッ、と高い音がしたと思ったら、指から外れた硬い殻が濡れ縁を転がっていく。
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    sueki11_pxv

    MAIKINGさなぎの続き。時系列は極。ソシャゲのシナリオネタも入っています。柏木視点、真島視点と続きます。
    さなぎのつづき22005年12月4日。東城会三代目であった世良が何者かに狙撃され殺害された。その葬儀の翌日、前夜に出所してきたという桐生を街で探したが、見つからなかった。桐生は風間が狙撃されたその場にいた。自分か駆け付けた時にはもうその姿はなかったが、シンジ曰く、風間が呼んだらしかった。相変わらず自分が知らないところで風間は動いているな、と苦虫を噛んだが、親の思考が読めないのは別に今に限ったことではない。とかく桐生と連絡をとることが先だと、シンジに聞くと、昔からの桐生たちのたまり場であったセレナというバーが連絡拠点になっているという。そちらに電話をかけたが、あいにく不通だった。社外秘ならぬ、組外秘のことだが、桐生には、風間の容態は伝えた方がいい気がした。きっと心配しているだろう。風間は搬送先で一度意識は回復したものの、手術の影響からか再び眠りについた。心臓付近を撃ち抜かれ、予断は許さない。だが、とにもかくにも一命はとりとめたことを教えてやらねばならない。会場では、桐生が風間を襲撃したという噂がまことしやかに流れていた。
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