この視界とも二十年の付き合いで、普段はあまり隻眼での不自由は感じない。免許の更新だとか、それに関わる書類事。あとは、バッターボックスに立った時だとか、両目でなくてはならない事、と世間で決められているとなればちょくちょく困ることはある。
だが最近片目で困る時、というのが出てきた。目にゴミが入った時だ。そんな事、と笑う莫れ。季節性の花粉や黄砂が原因で目を掻いてしまった時は最悪である。おそらく今回も睫毛が目に入ってしまったのだと思うが、鏡を見てとろうとしても、瞼を指であげると視界が滲む。単焦点の困りどころだった。
「………。」
涙袋の周りを指でなぞってみても取れなくて、むぅ、と唸る。チクチクとする感覚はあるが、どこにゴミが入っているか、それとも何か出来物でもあるのかも分からなかった。瞼をこする。
(痛いのぅ…。)
まさか子分に、ちょっと見てくれ、とも言えない。だからといって、こんなことで医者にかかるほどでもない。目薬はさし、瞬きをし、自然と中に入ったものが出てくるかと思って半日。
(ああ、あかん。めっちゃ痛い。)
経験則からして、きっと涙腺のほうに睫毛がいってしまった気配がした。以前、それを放っておいたら、眼球の表面がゼリー状に膨らんで、こらあかん!と急ぎ、医者に診てもらった。アレルギー症状が一因であるらしかった。
今回もそれか、と事務所の椅子に深く腰掛け、天井を向く。目をつぶり、蛍光灯の光が瞼に映らないよう手をかざした。
「…………。」
ピッピピッ、と普段のメール受信の音とは違った音とともに、携帯電話のディスプレイが光った。柏木からのメールの着信である。なんとか痛む目を開き、画面を見た。
『事務所にいるか?』
そう、そっけない一言だけのメール。柏木が、こちらの事務所の組長室に明かりがついているのを確認した時に、よく送ってくるものだ。きっと下にいるに違いない。椅子から勢いよく立ち上がる。窓を開けようとして、手をかけたが、いや、それより、と思い直し下に降りる。
コンクリートの階段を駆け下りると、予想通り、柏木が公園のガードレール近くに立っていた。
「おった、おった。」
そう言って、柏木に手を振る。柏木は携帯電話を手にしたまま、こちらを見て手をあげる。早速晩飯か酒に、という仕草だが、ちょっとこっちきて、とビルの中へ呼ぶ。
「なんだ?」
雑居ビルの一階のエントランス、そこに素直に入ってきてくれた柏木に、
「ちょっと。ちょっと。見て。」
と顔をさしだす。いきなり距離を詰められた柏木は、ん?と怪訝な顔をした。
「目、痛いねん。なんかなってないか、見てくれんか。」
「お、おう。」
柏木はわずかに戸惑いつつも一歩こちらに少し近づき、薄暗いそこで、目をこらす。
「…見たところ、赤くもなってねぇし、何もないようだが。」
「そんな遠いとこで見てわかるかい。」
こう、と柏木の手を持ち、こちらの顔に添えさせる。柏木は、思わずつんのめるようにして、こちらの前に来た。柏木が手をひきそうになるのに、ついていかないように、爪先に力を込めた。
「まつ毛とか入ってないか?」
「瞼…手ぇ、触れるぞ。」
「おう、ええで。」
眉の上に手をそえられ、親指で瞼に触れられる。掌が温かい。しかめっつらの柏木が、真剣な目でこちらをのぞき込む。人影で視界が少し暗くなり、柏木の気配が近くなる。大気の気温がわずかにあがったように感じる、その変化に胸が躍った。
「視線、さげたほうがええか?」
「いや…。」
「あげたほうがええ?」
「目、動かすな。」
黒目が邪魔だ、と言われ、笑う。
「多分、まつ毛やと思うんやけど、とれんでなぁ。」
「目薬はさしたのか?」
「そりゃもう。せやけど、とれん。チクチクしてたまらん。」
柏木が、どうだろうな、と言って手を離した。瞬きを何度かした。やはり何かあるようだ。痛い。
「片目やろ、自分で見てもわからんねん。」
鏡で見ても焦点あわん、と言うと、柏木は、ああそうか、と頷いて、もう一度こちらに手を伸ばした。本腰いれたように、こちらに向かい合った。先ほどより距離が近い。
「ちょっと上向いて、そう…屈め、いや、膝曲げたらいい。」
言われた通りにする。柏木と頭一つ分の身長差を作る。柏木は再びこちらの額に手をあてた。エレベーターホールの白熱球、それが柏木の顔の向こうにある。少しまぶしくて、瞬きしてしまう。柏木は真剣な目でこちらの目を覗き見た。
「たぶん、瞼の裏に入ってもてるんとちゃうか、とおもて…。」
「…下にあるな。睫毛だろう。」
目の輪郭の下のほうにある、と柏木は説明した。
「とって。」
「は?」
「指入れてくれてええから、とってくれ。」
「いや、でも…。」
自分でどうにもできんから頼んでんねんで、というと、柏木は困ったように、こちらの顔から手を離した。
「雑菌入ったりしたら、もっとヤバいことになるだろ。目洗うとか、いろいろあるだろ。」
「そういうのはもうやったんや…。」
あー、痛い、とうつむく。指で自分の目を押さえる。柏木は、あっこら、とこちらの手をとった。
「眼球傷ついたらどうするんだ。それでなくても、一つないのに…。」
そう明らかに狼狽え心配した声で言われて笑う。その声に甘えて、こちらも拗ねてみた。
「せやっても、とってくれんねんもん。こんなこと子分らに頼めんやろ。」
「そうだな…わかった。」
仕方ないな、と柏木は一旦態度を改めるようにしてジャケットのポケットを探った。綿棒かなにかあればいんだが、と柏木は言いながらも、ティッシュをとりだし、それを三角に折ってから、再びこちらに向き合った。
「上向け。」
おん、と頷いて顔をあげる。柏木の大きな手がこちらの頬にあてられた。
「…っ。」
柏木の顔がずずいっと近づいた。思わず息を飲みそうになるのを耐える。
「じっとしてろ。」
ん、と鼻で頷く。初めて柏木の家に上がらせてもらった、あの日以来はじめて触れたが、やはり熱い手だ。眼球にティッシュの先を近づけられ、生理的な涙がでる。柏木の真剣な顔がぼやけるのが勿体ない、と思ってしまう。
「むこう、むけるか。」
視線だけ、といって柏木が顎をしゃくる。そちらの方向に黒目をやる。柏木の顔が見えなくて寂しいな、と思ったら、ぎゅっと目じりにティッシュをあてられ、そのあと、手が離れていった。
「とれた。」
「とれたか、ほんま?」
「ああ。長い睫毛だ。」
ティッシュを手渡され、そこにあった黒い弓なりのそれを見て、おおほんまや、と嘯く。
「こんなもん刺さっとったらそら痛いわ。」
「お前も痛いと思うことあるんだな。」
「俺を何やとおもとんねん。」
柏木が笑うのに、ティッシュをポケットにしまってからそう言う。ゴミで捨てるのには、なぜか勿体ないなどと妙な感慨がよぎる。
「目薬、さしておけよ。」
「おう。」
ぱちぱち、と何度か瞬きするのに、柏木が少し照れたような顔をしてぶっきらぼうに言った。
「え、ほんで、飯。」
「おう、そうだな。」
思わず腕をとりたくなるのを我慢して、柏木の横に並ぶ。
「何食わしてくれるんや?」
こちらが甘えるのが心地よいと思っているふうの柏木にそう聞く。柏木はエントランスを出る足取りも軽く、何がいいかな、と楽しそうに言った。
「腹のすき具合は?」
「わりと。」
「和食か洋食。」
「どっちでも。」
「俺が決めたら中華になるぞ。」
「それもええな。おっきな唐揚げ。」
「じゃあ今日はビールだな。」
そんなことを言いながら、西公園前からタクシーに乗り込んだ。事務所をほったらかして来たが、今日はこの街も珍しく穏やかだしいいだろう。銀座一丁目、と柏木は運転手に告げる。
「ほーん、どこまで連れていってくれるんやろ。」
うきうきした声で、シートに座る柏木の横に少し距離をつめた。お楽しみだ、と恰好つける柏木の横顔に、にっこり笑いかける。柏木はそれを横目で見て、ニッと唇の端をあげてみせた。
雰囲気は恋人かなにかのそれ。だが、実際は同業者で顔見知りのメール友達という関係である。互いの寂しさのぶんだけ、相手を求める感情は強くなると、どこかで聞いた。それが男女であれば、恋心と呼ばれるものに素直になり得るのだろうが、これはどうなのか疑問は沸く。ずっと、独り身だったから、そういった錯覚の類かもしれない。とにかく、この関係は、愛だの恋だのというには少しまだ抵抗があるけれど、次も目にゴミがはいった時には柏木を呼び出してやろう、と思うほどには惹かれていた。
つづく