イニシャル『差出人:柏木さん
件名:傘
日時:2003/06/23 13:47
本文:傘、弁償したい。この時期、ないと困るだろ。
今夜、飯でもどうだ。』
柏木からきたメールに、保存のクリップをつけてから、返信した。
『気にせんでええって言うたのに。でも、飯は行かせてもらいます👌』
OKと打って画面にでた絵文字を入れて送ったら、柏木からすぐに、じゃあ七時に、と返信がきた。それに、
『いつものところで待っとる💛』
と送ると、了解、と固い返事がきた。
(まぁ、まだ夜中のテンションやないか。)
今はまだ昼間。柏木とひょんなことからメールのやり取りをするようになってから、かれこれ四か月経つ。以前のことを思えば、昼間にもこうして仕事の合間をぬってメールをする仲になったことが喜ばしい。あれから、色々小さな事件らしきものが積み重なり、今は時間が合えば夕飯を食べに行くこともあるまでに進展した。
(それだけ、と言えばそれだけなんやけど…。)
この間も、大概二人で深酒してしまって、タクシーに乗り合いで帰宅した。タクシーを捕まえる前、雨が降っていた。自分だけが傘を持っていたので、一本の傘をどちらが差すか押し付け合った。人がいないことをいいことに、雨に濡れながら、きゃっきゃと追いかけっこのようなことをした。柏木に手を持ってもらいながら、自分は逃げるようにして、縁石ブロックの上を歩いた。バランスを崩すふりをして、柏木に抱き留めてもらった。結局その酔いどれのテンションで相合傘をしながら、流しのタクシーを捕まえた真夜中。柏木が、車に乗る時にこちらの傘をドアに挟んでしまって、露先の部分を折ってしまったのだった。
(さて、今夜はどうなるやろな。)
傘が口実なことくらいは互いにもう承知している。毎日ジリジリするほどには、相手の顔が見たくて焦がれていた。
夕飯を共にし、二軒目はバーでしっぽり飲んだ後、言ってた傘は家にあるから、と柏木のマンションに呼ばれた。あがってけ、とご相伴にもちゃっかり預かり、0時前。さて、帰ろう、とした時、柏木が、百貨店の包装紙が巻かれた一本の傘をとりだしてみせた。
「この間は、傘、すまなかったな。」
「ええねん、安物やし。」
と言うこちらに、そういう訳にはいかねぇよ、と柏木は傘をおしつける。それに笑顔で頷いて、包みを受け取った。
「開けてみてええ?」
「ああ。」
柏木からの贈り物。期待していない、といえば嘘になる。ウキウキとした表情でその包みをやぶった。出てきたものを見て、目を見張る。
「あー! いや、こんなええの…!」
それなりの物だろうと予測はしていた。だが、目の前に現れたのは、ただの替わりの傘というわけではなかった。ハンドルが銀で黒革の切り替えしのついた、細身の美しい紳士傘だった。イギリス国旗のラベルがついている。上等なものすぎて、戸惑いが勝つ。こちらが言葉に詰まったのを見た柏木が、
「趣味じゃなくても、持っていけ。」
と言い聞かせるように言った。ぶんぶんと首を振る。
「いや、趣味とかそんなやなくて…! ごっつ格好ええのやけど、めっちゃええやつやろ、これ…。」
「同じ、黒の傘だよ。」
こちらのいつも持っているのは確かに黒の傘だ。壊れたものと同じ黒の紳士傘、とはいえ、柏木から送られたそれは、そこいらの物とは明らかに品が違った。持ち手の部分は磨かれたシルバー、途中、黒革の型押しの切り替えしがついている。ちょうど自分のいつも履いている靴にあわせたようなデザインだ。石突きの部分も長く、先端はよく磨かれ輝いていた。小間に張られた黒の布も、そこいらの生地の色合いとは違って深い黒色だった。巻いた状態も細くスタイリッシュで、一目で良いブランドのもの、とわかった。
「俺のあれなんか、一本三千円のどこにでも売っとる紳士傘やぞ。」
これおそらく十倍するんちゃうんか、と。手の中で回し見ながら言うと、
「気に入らねぇか。」
と柏木は少し残念そうな声で言った。即座に、ちゃうけど、と否定する。
「あまりにええもんすぎるわ。俺、すぐ壊してしまいそうやし、あんた使いや。」
とこちらが言うのに、柏木は、無理だ、と断った。
「なんで。」
柏木がむっつりと、傘の柄の下、玉止めの部分を指でしめしてみせた。そこには、デザインチックな文字で何か書かれている。目をこらす。
「ジー・エム?」
そういったブランドのやつなんだろうか、と首をかしげるこちらに、柏木は、恥ずかしそうにしながら、
「お前ぇの名前だろ。」
と言ってみせた。G.M。ゴロー・マジマ。
「はっ…?!」
意味が分かった瞬間、顔が真っ赤になる。ピカピカに輝いた指輪のような部分。そこに、まさか自分のイニシャルが彫られているとは。これは柏木からの贈り物なんだ、ということを衝撃とともに、そこにある意味を悟った。
「ほんまか、そ、それは俺が使わないかんな…!」
「そうだろ…!」
「せや、せやな!!」
互いに照れまくる。視線が泳ぐ。時々こうなるのだ。なんなんだろう。同業者プラスα、メール友達、のようなものなのに。
(あぁ、ほんまあかん、惚れてしまうやろ。)
あれから何も決定的な言葉は言ってはいないし、向こうから何かを言われた覚えもない。夜中にきわどいメールを交わす仲、くらいなのに。
(確実に、なんか、ある…。)
横をむきつつも、こちらの気配をうかがっている柏木を見て、照れて仕方なかった。“なんか”の部分は互いに意識しないようにしているのかもしれない。結構必死に。わりとその部分は全力で見ないふりをしていた。
「ほ、ほなな! 今日もごっそさん!」
貰った傘を握る手にぎゅっと力を込めて踵を返す。玄関まで送ってくれた柏木が、
「ああ、いや…気をつけて帰れよ。」
と手を伸ばしてドアの鍵を開けてくれた。ふっと近くなった距離にまたドキっとする。酒のせい、アルコールのせい、と二度ほど唱えて、息を吸い、
「ああ! また。」
と元気よく言って、柏木の家を出た。柏木が少し玄関から身を乗り出すようにして顔をだした。廊下を二三歩行ったところで、振り返って、小さく手を振る。柏木が、ふっと笑って頷いた。それを見てから、一気に駆けてエレベーターホールまできた。下へ、のボタンを押す。
「…………。」
エレベーターを待つ間も、まだドキドキしている。傘を握りしめる。柏木が追いかけてこないかな、と気配を探る。泊まっていかないか、と言ってくれないか、と。
ポーン、と軽い音がして、エレベーターが来る。ドアが開いたところで、振り返ってみたけれど、曲がり廊下の角からあの人が現れる気配はない。
(また今夜もお預け、か。)
苦笑と共にそう独り言ちて、エレベーターに乗り込んだ。ビニルの包みをやぶって、傘をとりだす。ネームの部分についたボタンも美しい模様が入っていた。露先を纏める為のリングのようについた玉止め。そこに入った自分の、崩し字のようなイニシャルを見る。
(こういうこと、する人なんやなぁ。)
きっと自分のことを考えて、用意してくれてたのだろうな、と思うとたまらなかった。
「ふふん…♪」
エレベーターが一階につく。鼻歌とともに、外に出て、ぱんっと傘を開いた。今宵は晴れて星がでているけれど。
「♪Singing in the rain~、ちゅうやつやな。」
星空の下、シルバーに光る取っ手をくるくると回しながら帰った。今夜のメールはどうやってうとうかな、とニヤニヤが止まらなかった。
おわり