酔いどれメール(仮)六日目夜から最後まで六日目の夜
柏木は日が落ちると見るや、そそくさと事務所から帰ってきた。こちらのいつにない陽気に、カシラどうしました、と言いたげな目をしていた子分もいたが、明日は時間通りに来る、と言って足早に退散してきた。
日曜日の神室町は、スーツ姿の男は少なく、若い子たちが多かった。百貨店で開催されているバレンタインフェアに行ってきたところなのか、色とりどりの紙袋を手にして楽しそうに歩いている女子も多く見かけた。例年、そんな季節か、と思うだけだが、今年はいやに肯定的にその光景を見た。
家に帰りつき、黄緑色の箱をテーブルにのせる。花とレースとクローバーの意匠がほどこされた丸い小箱だ。
水商売の女からは貰いそうにない値段帯のもの。それこそ女子高生が友達同士に送りあう時に買いそうな、本当に可愛らしいものだ。
開ける前に改めて写メを撮った。持ち上げると、儚いほど軽いその箱。金の文字でFORYOUと印字されたセロファンのシールをはがす。中には、ピンク色のウサギと緑のクローバーのチョコレート、そして他に四粒ほど小さな茶色のチョコレートが並んでいた。
「ふっ…。」
思わず笑顔になる。誰かから貰った物を寄こされた、そんなこともあるのかもしれない。
(でも、それでもいいじゃないか。)
真島が、わざわざ届けてくれたという事実が嬉しかった。遊びの延長だとしても、自分に対して時間を割いてくれている。何の気もなしに暇つぶしの相手ならば、そこまではしない。好意は見てとれるのに、遠慮がちなその態度が好ましい。あんな形で外を歩いていても、心は少女のようだと思う。
チョコレートを一粒手に取った。口に運ぼうとした瞬間、もう一人の自分が待ったをかける。
(毒入りなんじゃないか。)
そんな馬鹿な、と思うけれども、あの真島がわざわざこれを寄越す意味を冷静に考えろ、と警戒心を通り越して猜疑心の塊である男が言うのだ。
(なら…どうだっていうんだ。真島の手柄になるならいいじゃないか。)
この俺のでいいなら、指でも首でも持っていけ、と思った。そこまで考え、たったチョコレート一つで何をそこまで真剣になる必要があるのか、と可笑しくなった。
(どちらにしろ、自分の中では答えはでてるんだろ。)
組のことや仕事のことを天秤にかけるまでもなく、真島を信じているのだ。それは長年自分のなかにあるかどうか確信のなかった”相手を好きになる”とかいう感情を超えた、相手を愛おしく思う感情だった。
(お前に盛られた毒で死ねるなら本望だ。)
らしくない独白に、くくっと笑い、チョコレートを口に入れた。
「………。」
甘い。口のなかで溶けるそれは、あまい普通のミルクチョコレートだった。
「ふっ…くっくくく…あはははは!」
笑ってしまう。何もかも、呪縛が解けたみたいだ。人生を、世の中を、複雑に考えすぎていたのかもしれない。
これをポストに入れていった意味、恥ずかしがって姿を見せない意味。
(簡単じゃないか。)
真島はこちらのことが好きなのだ。酔いに紛れてメールを送ってきたのも、あんな際どい内容のメールを送ってくるのも、その感情で見れば、何のことはない。相手が男だとか、酷く年下だとか、そういったことを考えるまでもなかった。本当に恋する乙女のような態度が可愛くて仕方ない。
(自分がそう思いたいだけかもしれねぇがな…。)
一気に視界が開けたと思ったが、はやりまだ四十年一緒にいた、疑念という名の男が心の中で腕組みして難しい顔をしている。この魔法の薬のような甘いお菓子が、それを退治してくれればいんだが、と思う。残りは後で酒とともに頂こう、とジャケットをハンガーにかけて風呂に入った。
七日目。
真島は、メールの着信音で顔をあげた。夜、一時過ぎ。いつもの時間に、柏木から、
『チョコレート、有り難う。美味しかったよ。』
と写メつきのメールが来た。写真には、ブランデーの瓶と渡したチョコレートが並べられてある。捨てずに食べてくれたのだ、と分かる。
(嬉しい。)
本当に好きになってしまった。
(突っ込んでいって、大火傷や。)
柏木のことを考えると、ぐっと心臓が掴まれるような気がする。好きという感情の周りにある複雑なそれは、本当に火傷のようにじくじくヒリヒリ痛むのだ。久しく感じていなかった心理状態だった。
「なんやもう…あぁっ。」
やりきれない気持ちで床に転がっていたクッションを蹴った。ぼん、とそれはクローゼットにあたり、ぽてんと床に転がる。
「…………。」
はぁ、と溜息をついて、八つ当たりでひしゃげたそいつを回収して形を整えてから、その上に腹ばいになった。メールを見返す。柏木はこちらの醜い感情に気づいていない。やり場のない想いが物凄く辛かった。こうしてメールが返ってくるのは嬉しいけれど、その先がないことを思うと本当につらいのだ。
(ほんま、どうしよ…可笑しいほど好きや。)
こんな感情を向けられても柏木が困るだけだ。女ならともかくも、こちらは列記とした男で、何より仕事上ライバル関係にもある極道者なのだ。どこをどうとっても、相手に迷惑がかかる。
「…………。」
メールを打つ。あんたのこと好きだ、とか、実はそのチョコレート気づいたら買ってしまっていて…などと、たくさん沢山いろいろ打ったけれど、全て宛先を消してから途中保存した。
『よかったわ。おやすみ。』
そう送った。ちょうどあの日から一週間、楽しかったな、と携帯電話を握りしめて涙がでるのをこらえた。
柏木は、今日はしっかり話そうと酒も用意して準備万端で返信を待っていたので、肩透かしをくらってしまった。
(おやすみ、か。真島も忙しいだろう。)
明日からまた新しい一週間が始まる。互いに働き盛りで、あの街が自分たちを待っている。
『おやすみ。また明日な。』
チョコレートと飲むように用意したブランデーが、今夜はひどく味気なく感じた。
明日、その文字が苦しかった。真島は、携帯電話のディスプレイを睨みつけながら、うっかり返信しそうになる自分の指を戒めた。魔法はもう解けてしまったのだ。チョコレートを届けたことで、この電波の先にいるのが自分だとはっきり相手に分からせてしまった。今までは、顔が見えないことが前提の遊びだった。相手がこの可笑しなごっこ遊びに付き合ってくれたのも、きっとその言葉が持つイメージの効果からだと思う。
(明日なんて…ないわ。アホ。)
毒づきながら、酒を煽った。柏木とお揃いと思って買った酒、美味かったそれが今はとても辛く感じた。
***
柏木は鳴らない携帯電話を何度もチェックしては溜息をついた。二日ほど、真島からメールがなかった。真夜中にも朝になっても、メールが入ってこない。その事実が酷く心を揺さぶる。何かの切っ掛けで送られてこないか、と昼間もメールをチェックするようになってしまった。風間からも、どうした?と聞かれ、いえ、と首を振った。
(あいつのことばかり考えている…。)
ネオン光る街を探した。すれ違う背の高い男の顔を逐一見る。事務所周辺や彼のいそうな場所を訪ねても、それらしき姿はなかった。何か、危ない仕事でもしているんじゃないだろうか、そう不安が募った。
『件名:どうしてる?
本文:忙しいのか?』
夜中にそう送ってみる。また、あの絵文字がたくさん入ったメールが返ってこないか。
「…………。」
一時間経っても二時間経っても、携帯はうんとすんともいわない。酒ばかりが深くなっていく。
(飽きられた…というより、何か良くない予感がするな。)
この一週間で、だいぶと彼の人となりがわかってきたつもりだった。喧嘩を求めて街を彷徨うのも、威嚇するようなあの姿も、きっと真島なりのカモフラージュなのだろう。ハッタリ、と言えば聞こえは悪いが、彼の撒き餌なのだとしたら、賢いなと思う。極道は看板を掲げ体面を張るのが本来の仕事だ。真島のあの姿は、その印象付け。ネオンの中をバッドを持ってうろつくのも、狂犬のイメージを強烈に鮮烈に皆の目に焼き付けるパレードなのだ。
(極道は、恐れられれば勝ちだ。)
だが、そのハッタリが効かない相手だとしたら。真島とて生身の人間である。
(こちらに言えない仕事…親の言いつけでどこかへ出向いている、とかか…。)
それは、極道者として光栄なことととれるかもしれないが、やはり心配だった。しくじればその身に痛手を負うのは勿論のこと、獄に繋がれ、この街を去ることになる可能性だって大いにあるのだから。
翌日、街で見かけた嶋野組の男にそれとなく真島組の動向を聞いた。最近そちらの若頭は大人しいようだが、と少し挑発するように言葉をかけてみたが、男も今気づいたように、そうですねぇと首をかしげた。
「神室町にいねぇのか?」
「いや、知りません。事務所には? あ、御用ならもうかけられましたよね、すんません。お力になれなくて。」
「いや、いいんだ。」
こちらが同等の若頭だと分を弁えているらしい男は、そう言って頭を下げた。そう素直に答えられてしまったからには、それ以上は聞けなかった。真島の事務所に行く用事もない。雑踏の中、苛立ちを堪えながら煙草を吹かせる。この街は、こんなに色褪せていたか。
***
嶋野組から払い下げられた仕事で、真島は二日ほど鳥羽に行っていた。ピンクな建物が立ち並ぶ温泉街は団体慰安旅行全盛期を思えば、さびれて落ち着いた雰囲気になっていた。前に組員ときてゲラゲラ笑っていた秘宝館もそろそろ閉鎖が噂されているようだった。塗装がはげ落ちてそのままの外観は、バブル当時の日本の残骸のようで寂しい限りだ。国際サミットの誘致などで色々なものが変わろうとしている、最近は東京のやつらがよう来とるよ、と地元の住民から聞かされて、ドキッとした。自分もその利権絡みの仕事をしようとしている。
今後の仕事場になりそうな土地を遠くから下見し、その日は用意された旅館に泊まった。二間もある良い設えの部屋だった。久しぶりに女をあてがわれたが、嫌悪感がかって帰ってもらった。すぐに、なにか粗相をしましたか、と営業がすっとんてきた。取引先の男が、すみません田舎の娘はお気に召しませんで、と頭をさげてくるのがもっと嫌だった。
「そういう気分ちゃうねん。」
と追い返す。横に正座させられ頭を下げる姉ちゃんに、すまんな、と愛想してやって部屋の扉を閉じた。女はかの有名な人魚島の出身だという。
視察には組員もつれてきているが、こちらのテンションが普段と違うのをさぐるような眼で見ていた。西田だけは、時々こちらが異様に気分が下がっている時期があると分かっているようだった。現場の説明を聞くときも、刺激しないようにとひどく配慮しているな、という姿が見てとれた。
翌日の移動の合間あいまにもずっと携帯電話を見ていた。どうしてる、と昨日の夜、メールがあった。返信はしていない。仕事中や、と返すわけにもいかないし、どこどこに来ている、などと言うわけにもいかなかった。そこは、相手が風間組の若頭、というのが頭に少しひっかかったのもある。
(親父も機嫌悪かったからのぅ。)
出発前に、電話がかかってきた。どうも、この関連の案件を風間組と取り合っていたようで、それを相手に先越されたとお冠のようだった。上手うやれよ、と言われるのに、へい、と返事して東京を発った。
「…………。」
柏木に会いたかった。何も気兼ねなく、あの人と喋ったりしたかった。
一通りの話し合いが終わって旅館に帰ってきてからも、ずっと過去のメールを見返しては、あの時もっとこう返したほうが良かったか、と考えていた。窓際に置かれた籐の椅子に腰かける。障子を開ければ、神室町と違って暗い空に星が輝いていた。街の明かりも遠く、ぽつぽつとしかライトがない。町はサミット誘致の開発推進派と、昔ながらの町を守りたい反対派と意見が二分しているようだ。ふと、夜の宴会で酌をしてくれた昔ながらのピンクコンパニオンの女が言った言葉を思いだす。そこここ綺麗になって、全部が綺麗な水になってしもたら、泥の中で育った人間はどこで生きたらええんやろと思うね、と。寂しそうに笑った女は、今夜は誰かの組員の腹の下だろう。
ハイライトに火をつける。すっと軽く吸って煙を吐き出す。
「はぁ…。」
確かに、こんな澄んだ空気のなか、一人寝の夜は寂しい。
(けれども…違うねん。)
柏木に会いたい。仕事をしているうちは気が紛れているが、一人になると、なんとも言えない気持ちに苛まれしんどくなる。せめて夢にでてきてほしい、と女々しいことすら思う。その夜は、携帯が電池切れでバイブレーションが震えるまで、ずっと柏木からのメールを読み返していた。
***
翌日、週の中日だったが柏木は休みをとった。最近は珍しく風間が主導で組が動いているので、自分が張り切って切り盛りする仕事も少なかった。さして差し迫る案件もないオフの日は、一人家に居ることが多い。長い独り寡の暮らしだ、ひととおりの家事はこなせる。掃除もしたが、ずっと携帯電話をズボンのポケットに入れていた。チルドタイプのラーメンを作って食べた。こんなに味気ないものだったか、と思って、夜は着替えて外に食べに出たが、それでもどの料理も少しも美味いと思わなかった。
「…………。」
少し飲んでからの帰り道。真島からのメールがきていないか、と携帯電話を見る。何の着信もなかった。
(こんな寒空の下、どこにいんだろうな…。)
雪が降りそうな曇天。手がかじかむ、足早に家を目指した。
自宅に戻ってからも、酒をちびりちびりとやりながら、携帯電話をいじっていた。このメールにはこう返してやったほうが良かったか、もう少し小洒落た言いようの返信できたのではないか、そんなことばかり思う。
真島は今、どうしているだろうな、と思った。特に嶋野組内真島組といえば、武闘派で名を轟かせている組である。メールではこんな可愛い姿を見せているが、普段は子分たちの前、精一杯体面はっているのだろう。あのネオンの中で尖った姿を見せ続けているのも真島だ。そして、この甘えたメールを送ってきているのも同じ真島なのだ。どちらも、彼の内包した性格なのだ。どちらが欠けても彼にはならない。
(無事でいてくれよ。)
とにかく、何事もなくまたメールが返ってきますように。いや、メールなどどちらでもいい。あの街で、また彼の元気な姿を見られますように。そう願った。
***
真島は、午後五時頃鳥羽を出た。東京までかれこれ四時間かかった。移動だけでもかなり疲れる旅程だった。
帰りは東京駅から地下鉄で、神室東の改札口におりたった。携帯電話の画像、柏木が寄越してくれた酒屋をリーフレットの画像を頼りに探す。
地図に示された四つ角に差し掛かったのは、夜十時過ぎ。店舗は見つけられたものの、時間が遅かったのか、もう閉まっていた。店内は暗いが、確かにガラス戸からは沢山の瓶が並んでいるのが見えた。
はーっとため息を吐く。息が白い。街路樹に、白と青のイルミネーションが絡んでいる。柏木はここいらに住んでいるんだろうか。再び携帯を見る。
『今日は寒い。』
そう打った。返信しづらいものをあえて送った。歩き出す。ポケットのなかの携帯電話が震えた。メールの着信だった。
『差出人:柏木さん
日時:2003/02/12 22:17
件名:RE:
本文:今、外か?』
「えっ…。」
柏木からのメールである。はぁ…っと、困ったように息を吐いた。
(嬉しい。)
叫びたいくらいだが、一方で息苦しくもなった。
柏木は、テレビさえ消した静かな部屋で、一人酒を飲んでいた。リンっ、と鈴の音が鳴る。ハッとして携帯を見る。青い着信ランプが光っている。真島からメールがきた。慌てて返信をした。
『そうやねん。』
とだけ、すぐに返事がくる。今、真島はこれを見られる状態にあるのだ。
『どこにいるんだ?』
現場だったりするのだろうか、だったら答えられないだろうな、と思う。だが、真島が無事であることが確認できたらそれでよかった。
「…………。」
暫くメールを待つ。夜勤のシノギかもしれない。この時間から、どこかへ行く、その移動中などかもしれない。リンっ、とまた鈴の音が鳴った。
『さぁ、どこでしょう?』
写メが添付されていた。見たことあるところだ。イルミネーションの街路樹、角の雑貨屋の緑色の看板、左手にファミリーレストランのオレンジの看板。
「嘘だろ…!」
マンションの近くの交差点だ。思わず立ち上がる。
『お前、いまそこにいるのか?』
メールを打つ。体は動き出していた。
『ストーカーやな。苦笑』
そう送られてくる。真島が、何故?と思う余裕もなかった。慌てて着替えの服を引っ張り出す。その間も携帯は握ったまま。返信はどうしようかと文面を考えていると、
『帰るわ、気色悪いことしてすまんな。』
そう追加でメールが入ってきた。文字をうつのすらもどかしい。誤字脱字ばかりだ、早くしないと真島がいなくなる、その焦り。
「もう…!」
意を決して、電話帳を呼び出すボタンを押した。
真島はメールを打ちつつも、しばらくその周辺を歩いてみた。
(ここがあの人の、住む街なんか。)
神室町の中心街から少し離れただけのところだったが、割と閑静な住宅街だった。公園の近く、綺麗な新築のマンションが立ち並んでいる。ここだろうか、こっちだろうか、と妄想を馳せながら、通りを歩いた。家を特定できたらあげてやる、と言われたが、さすがの自分もそこまての超能力はもちあわせていない。あの人の住む所までは特定できるわけがない。
「…おっ…。」
風が冷たいな、と思っていたら、ぱらぱらと雨が降り出した。
(いや、みぞれ、か。)
雨と雪が混じったものが降ってくる。道が濡れ、アスファルトの匂いが鼻孔をつく。
(この火照った頭、冷やしてくれや…。)
ちょうどいい、と冷たいそれのなかを歩き出す。帰る、と言ったのだから、帰らないといけない。そして、後で素面じゃなかった、すまん、と送ろう。何もなかったかのように、また夜のメールだけの関係に戻るのだ。
何はなくともいい、細く長くつながっている関係、というのも良いではないか、と思う。一か月前までは、自分があの街で、柏木の姿を見るだけでふと嬉しくなっていた、ぐらいの感情だったのだから。そこまで戻るだけだ。ここまできて何もなくなるより、ずっとずっとマシだった。
「…………。」
もう一度振り返り、そのマンション群を携帯の写メにおさめた。湿気でレンズが曇ったのか、ハレーションをおこしたような幻想的な街並みの写真になった。
(魔法は、この携帯の中だけや。)
ふっと笑い、携帯電話をポケットにしまって歩き出した。
地下鉄の入り口が見える。階段を降りようとしたところ、ジャケットのなかの携帯電話が震えた。
「え…?」
バイブレーションが長く震える、電話の着信だった。柏木さん、とディスプレイにはある。わっ、と声を出しそうになる。さすがに叱られるかもしれない、と思った。相手とは同格だが、それでもこの道の先輩に対し、えらく失礼なことをしてきた気がする。
携帯はまだ震え続けている。これをとって怒鳴られでもしたら、と考えると、いつになく怖い。夢からさめてしまう。恐ろしい。
(でも…声が聞きたい。)
意を決して通話ボタンを押す。
『おい…っ、お前、近くにいるのか?』
第一声は、とても焦ったものだった。
「っ…。」
『下にいるのか? いつから? いや…。』
「………。」
これはいけない、と終話を押そうと受話器から耳を話すと、待て!と大声が聞こえた。
『切るな、わかってるから…!』
(わかってる、なにをや。)
と思うが、声にならない。なにか受話器のむこうで、ガチャンとドアの鳴る音が聞こえる。
「…っ!」
思わず振り返った。背後には、マンション群、高いのも低いのも、両端にも奥にも、立ち並んでいる。どこのどの扉が開いたか、なんてわからなかった。受話器に耳をあてる。エレベーターの音がする。
『待ってな、ほんとうに…!』
焦る声が聞こえる。立ち去らなければ。どんな顔して会えばいい? 二週間恋人ごっこのような遣り取りをしていた奴が、こんな眼帯のおっさんだったなんて。現実を見せる訳にはいかない。
(会えるわけがない。)
よりによって相手は柏木修。風間組の若頭である。自分の身分との間に、あまにりも深い溝がある。
柏木は、急いで着替えて部屋を出た。エレベーターを呼ぶ。携帯は通話のままだが、相手は喋らない。
「…!」
こんな時、高層階というのはいけない。無駄だと思いつつも、何度も下へのボタンを押した。
(笑われてもいい。違うならちがうでいい。俺に会いに来た、というのでないのなら。)
真島の受話器からは、外の音が聞こえる。車の音、きっとまだ大通りのほうにいるはずだ。
「待ってな、ほんとうに…!」
ようやっときたエレベーターに乗り込む。一階ボタンと閉まるボタンを押す。扉が閉まると、ぷつん、と電波が途切れてしまった。
(しまった…!)
かけなおそうにも電波が立っていないない。焦りながらも、下に着く、開くボタンを叩きつけるようにして押した。扉が開く。携帯を握りしめ、エレベーターホールから外に飛び出した。前の大通りには人影はなかった。
「くそ…っ!」
もう一度、電話をかけなおす。
真島は、なんとか、またなと返事をしようと声を出しかけた時、ぷつん、と電話が途切れてしまった。
「あっ…。」
ツーツーツーと無機質な音がスピーカーから鳴っている。
(きっと、それが運命。)
神様が、もうここまでだと言っているんだ、と思った。終話を押して踵を返す。電話中、先ほど写メをとった四つ角ま戻ってきていたが、再び地下鉄の入り口まで行こうと一歩踏み出す。ネオンの街路樹がにじむ。
(好きでした。)
そう心のなかに呟いて歩きだろうとしたとき、また着信があった。立ち止まり、ディスプレイを確認する。その名前見て、泣きそうになる。
「…っ。」
通話を押す。耳に携帯電話を当てる。
『真島!』
「真島!」
受話器と、そして、現実の世界から、聞きたくてたまらない声が聞こえた。
『柏木さん…。』
「柏木さん…。」
振り返る。視線が合う。二人の手が触れ合った。
END