カブトムシを獲りに「友達とカブトムシ獲りに行く約束をしてて」
市河の言葉に貞宗は目を見開いて驚いた。市河は微かに罪悪感を覚えながら椅子から立ち上がる。雨はさらに強くなって二人を濡らした。
「だから、帰っていいですか?」
市河は顔に垂れた雫を拭う。貞宗の顔をまともに見れなかった。それでも貞宗が狼狽えているのがわかる。
「な、何を言っておるのだ市河殿!今は戦の最中ぞ!」
「でも友達との約束も大事じゃないですか?明後日の早朝にって約束なんですよ」
市河は視線を足元のぬかるみに落とす。こんな具合では坂を駆け上って攻撃なんて出来るはずがない。兵たちも二月に及ぶ戦で疲れが見え始めていた。このまま攻め続けて勝てるとは思えなかった。
すると貞宗が市河の腕を掴んだ。貞宗と目が合ってしまい、市河は唇を噛み締める。
「市河殿行くな……行かないでくれ!」
雨の中で貞宗の声が響いた。市河は居た堪れなくなって顔を歪める。掴まれた手を引き剥がそうとするが、貞宗の力は強かった。
「やめてください貞宗殿、俺はなんと言われようとも行きますから」
周りからの視線を感じて市河は背筋が寒くなる。赤沢兄弟をはじめとした小笠原郎党の視線が全て市河に集中し、そのひとつひとつが矢のように鋭く向けられていた。
市河はその視線に耐えながら耳を澄ませる。子ウサギのような小さな足音が駆けていくのが聞こえた。貞宗の目玉がその音がした方向を一瞬だけ見て、また哀れっぽく市河を見る。
「市河殿……いや、助房。そちがおらぬと儂は夜も眠れぬ!」
さらに熱がこもった声になる貞宗に、やり過ぎだと市河は苦い顔になる。敵側の密偵は去ったのだから、演技はもう終わっても良いだろうに。
市河と貞宗には秘密の取り決めがあった。もし苦戦に陥って打開策が他に無い場合、市河が戦線を離れたと見せかけて、敵を不意打ちするというものだ。さらにその情報を敵の密偵に持ち帰らせて相手を油断させる。無中生有の計である。そしてその策の符牒こそが「カブトムシを獲りに行く」であった。
「行かないでくれ助房ぁ!!」
貞宗の熱演に市河は頬の内側を噛んで耐えた。なぜか貞宗はこの演技を面白がっているらしい。しかしここで市河が耐えかねて笑えば台無しである。さらにこの作戦はまだ郎党達には知らされていない。どこに密偵が潜んでいるかわからなかったからだ。だから郎党達は本当に市河が貞宗を見捨てて去ろうとしていると思っている。そのため郎党達の視線が本当に刺さりそうなほど痛い。
市河は貞宗をなんとか引き剥がそうとするが、貞宗は本気を出しているのか手が離れなかった。
「ちょ、ちょっと貞宗殿、いい加減に」
市河は周りに聞こえないように小声で言うと、貞宗はようやく市河から手を離した。市河がホッとしていると、今度は貞宗がその大きな目からポロポロと涙をこぼした。嘘泣きだとわかっていても市河は慌ててしまう。
「達者でな……市河殿」
寂しそうに微笑む貞宗に、なんでそんなに熱演するんだと問いただしたくなる。こんなの行きたくても行けないじゃないですか。今すぐ抱きしめて撫で撫でしたい!
するとどこからか小石が飛んできた。見れば赤沢弟が貰い泣きしながらこちらに向かって石を投げている。危ないから止めろ。そうだ赤沢兄、お前が止めろ。待て待て、なんだその弓は。俺を狙っているのか。待て待て待て止めろ!
市河は命の危機を感じて走って逃げた。後日、無事に奇襲は成功したが、市河の小笠原郎党からの信頼は著しく低下していた。