リップスティック ただいま、といいかけてやめた。中には誰もいないから。
鍵を開けて部屋に入った伊代は、スーパーの買い物袋をテーブルに置き、鋏で郵便物を丁寧に開封しはじめた。
宗次がこの部屋からいなくなって、そう月日は経っていない。追い出したのか、出て行かれたのか。自分でもよくわからなかった。宗次にかけていた手間と金が宙に浮いたので、その金でコスメを買い、感想をSNSに上げ続けていたら、フォロワーがつき、企業案件の話も来るようになった。がんばった分だけ、手応えがある。そのことが嬉しかった。
封筒の中身は、企業からのPR依頼の手紙と、リップスティックだった。子供っぽくない図案化された青い薔薇が描かれたパッケージを眺め、伊代はSNSにアップするための文面を考える。
丁寧に紙箱を開け、リップの中身を確認する。伊代の背筋が凍る。
青いリップなんて、いまどき珍しくもない。でも心のどこかに引っかかっている。自分の心の醜さを見て、決意するように引き締まった青い唇を。
自分をないがしろにした奴をあざ笑って、何かいけないの。どうして私を助けるって言っておいて罰したの。理不尽な怒りが沸き起こってくる。PR案件の惹句を考えるのは明日にしたほうがいいかもしれない。思い出さないようにしていた昔のことは、今日はもう考えたくない。