天使の梯子 薄曇りの中に漂う、とりとめのない存在。
本来の姿に、戻ったはずなのに。その実体を一番自分が、掴めていない。
「志保くん」
慣れ親しんだあったかい声が。自分の本名なのに親しんでない名を、呼んでくれる。
ぼんやりと。志保は声がした方を見た。
「起きてきて大丈夫なのかの? ホットミルクでも淹れようかのお」
「…ありがとう、博士。私が淹れるわ。ミルクティーにする」
笑顔を見せて、言うと。困ったように、でも安心したように、大切な家族でいてくれる人は、笑ってくれた。
元の姿に戻ったら。罪を償うつもりだったし、犯罪者にふさわしい、孤独の罰を受けるつもりだった。
なのに志保の体は。それを受けられるまでの状態にならなかった。常に微熱を帯び。倦怠感と悪寒を伴っている。
検査をしても。数値として特に結果には現れなかった。解毒剤の副作用。それが一番に考えられたが、好運にも同じように元に戻った、新一にはそのような症状は一切現れなかった。もちろん個人差もあるが。志保は自分で分かっていた。
これはきっと。体が恐れているのだ。
元に戻ることに。あの頃の自分に、戻ることに。
「……え」
告げられた言葉に、志保は絶句する。
博士は眉を下げながら、続けた。
「ワシもまだ早いと、思ったんじゃけどのお。向こうも忙しい人じゃから。それに」
「……立場的に、断ることもできないしね」
志保の言葉に、博士は今度は眉を寄せた。
「無茶で無遠慮なことはしない人だと、思とるぞ。だから」
「……うん、分かってる」
分かってるのは、その人についてではない。博士が、自分を思ってくれていること。
頷く志保に、博士はやっぱり困ったように、でも優しく目尻を下げた。
その人が来た時、変わらず志保は微熱を纏っていて。気圧の低い空気の薄い場所にいるかのように、呼吸も浅かった。
「……無理させて、申し訳ありません」
…とても、その人は丁寧だった。
スーツを着て、本来のあるべき姿の警察官である彼と。ゆっくり向き合うのは初めてだったが、思っていた威圧感や臆する雰囲気を感じることはなく。志保は戸惑っていた。
「え…と、降谷さん?」
聞いた本名を思い返しながら口にすると。
はい、と頷く彼がはにかむように笑ったので。志保はさらに惑いながら、どうにか続けた。
「その…、本当ならもっと、事情聴取なども受けなくてはならないのに。こんな具合で、本当に申し訳ないと思って、ます」
何故か少しカタコトとした口調で喋ってしまった。するとそれに、彼は目を丸くして、きょとんとした様子で答えた。
「え? そんなこと気にすることではないよ。今日は僕が、ただ君に会いたくて、来たんだ」
柔らかい口調で語られたそれに。今度は志保の方が驚いてしまう。
降谷は少し慌てたような様子を見せていたが、居住まいを落ち着かせると、優しく、聞いてきた。
「体を休めて大切にするのが、まず大事なことなのに。そんなこと、考えていたんだ」
言われていることが信じられなくて。胸を押さえ、半ばパニックになりながら、志保は答える。
「…っ、だって。こんな体調が整わないのも。私の、内面のせいよ。わ、私がすべて起こしてきたことなのに。こんな形で逃げるなんて、情けなくて」
「逃げてるんじゃない。体が悲鳴を上げているのは、今休息が必要だからだ。自分で自分を労らなくてどうする。しっかり休ませて、あげないと」
優しく、でも力強く言われた言葉に、志保は目を見開く。
息苦しい。曇り空の中。でも、急に呼吸が少し楽になった、気がした。
「……怖いの」
言葉が、零れ落ちる。
「……私は。今までの、私は。周りが見えてなくて自分がやってることも、分かってなかったり、したの」
「…君は子どもの頃からあの組織に囚われていた。当然だ」
「ずっと、最優先はどうやったら危機を回避するかだったの。その為には選択を間違えることも、分かっていても不正な方に進んだりもしていた。それは、組織がある限りずっとそうだった。でも、きっと、私は、これからも…!」
「そんなことない!」
一気に吐き出すように口にし、胸元で震えていた志保の手を、あったかく力強い手が包みこんだ。
「君のその気持ちは。いつも周りの者を思えばこそ、だった。間違っても。そこに必ず優しさと深い思いやりがあった。あんな場所で育ったのに。君が持ち得て、大切に持ち続けたものだ」
……何が、分かるのよ、と思ったが。彼の言葉は直に強く志保の心に響いた。そうさせる、何かがあった。
心の奥から。温もりが溢れてくる。
「…抱え込むな。そんな、体を苛むほどに。君は背負い込みすぎていた。まずはゆっくり、休もう。そうしたら、これからも見えてくる」
切々と心に染み渡るような、声。霞がかっていたような志保の頭も。少しずつ晴れ渡っていく。
どうして私はこの人にこんな思いをぶつけてしまったのだろう。温かく包まれる手のひらを見つめていると、目の前のその人は急に我に返ったように、バッ、とその手を離した。
「あ、す、すみません…!」
急にまた敬語。あたふたとしている彼を見つめながら、志保は口を開いた。
「光が…差してきた……」
「…え?」
「…曇り空の隙間から、光が注ぐような……薄明光線?」
「ああ…天使の梯子?」
真っすぐ自分を見つめている志保に。降谷は柔らかく、微笑んだ。
「……君の方こそ、僕の天使だよ」
悩み惑い苦しみながらも。澄んだ、慈愛を忘れなかった瞳が見開かれるのを見つめながら。
この子を守るのは今度こそ、僕でありたいと。降谷は心の底から、祈った。