いけないこと 高専を離れ、この呪術界からも離れていた男が帰ってきた。本人自らの連絡を受けたとき思うことはいくつもあったが、姿を見れば心の底から単純に嬉しかった。
数段に逞しくなった身体。背も伸びたようだが自分を追い越すことはなかったようだ。頬がこけているのは大人になってそういう輪郭になったということか。さらさらと繊細に流れていた髪は襟足は短く刈られ、サラリーマンだった名残か七三に分けられている。髪質は変わったのだろうか。
「老けたね」と言えば、「開口一番がそれですか」と、深く吐いたため息と、真っ直ぐに見返してきた妙な形のサングラスの奥の目だけは、翠緑に、あの頃と変わらなかった。
七海の姿を目で追っていることに気付いた。可愛い後輩が帰ってきたのだからと自分に言い訳をしていられたのも最初のうち。程なくして、いや、これは…と、自分の心を御せなくなっていた。
つい先日、復帰の為の訓練を終え任務をこなすようになった七海が負傷した。家入の治療を受ける前の姿を目にしたとき、一瞬、鈍い痛みに五条は押し潰されそうになった。
それは本当に一瞬で、すぐに出血に比せず傷はそう深くないとわかったし、こんなことはそう、日常茶飯事ではないか。何か苦言を呈してやろうか、それともその青い顔色を揶揄ってやろうか、そう思って「お前」と口を開いた自分の声があまりにも低くてそのことに動揺した。結局何も言わず、その場を離れた。
誰かを強く思うことはよくない。それによって自分の行動が変わってしまうとは思わないけど。何があっても自分は自分で居続けるのだけど。
唯一無二と思っていた親友がいなくなってしまったときも、憎からず思っていた後輩が静かに去っていったときも、五条悟である自分は変わらなかった。それでも何かが自分の心の奥を引っ掻いていて、それは長引いていると知ったのは随分後になってからだ。
桜の花を五条は見ていた。後ろからゆっくりと知る呪力が近づいてくる。
「無限を解いているんですか」
七海は言った。
「髪に花びらがついてます」
「桜にくらい僕に触れさせてやろうかと思って」
七海が戻ってきてから、五条はずっと七海に絡みついていた。後ろから近づき「な〜なみ♡」髪をグシャグシャとやったときは死ぬほど怒られた。相変わらず下ネタが嫌いとわかって、わざと際どい話をしたり下品なことを言ったりして、ため息を吐かれたり額に青筋を立てられたりするのがとても楽しかった。
それでも五条は高専の外で七海と会おうとはしなかった。大人になった七海が五条のふざけた猥談に顔色も変えずに切り返したり、驚いて顔に血を昇らせる五条を楽しげに見たり、その後ふいに真顔になってじっと見つめてくるときなどは、早々に目を逸らしたし退散した。
七海は五条の正面に回るとゆっくりと手を伸ばした。無限に阻まれず顔に巻かれた包帯を静かに解いていく。
「…眩しいよ」
桜の下の碧い目の、白い肌と白い髪、桜よりも濃い艶やかな唇を七海はしばらく見ていた。
「五条さん」
そろそろ話をしませんか、七海は言った。話って何を、と五条は言わなかった。わかっている。
「ごはんも食べに行きましょう」
「私、車を持っていますよ。ドライブにも行きましょう」
「でもそれは…」
「よくないことなんて一つもないですよ」
桜の花びらが降ってくる。
もういいのかもしれないと五条は思った。もう、いいのかもしれない。
まずはこの金髪の、翠の瞳の後輩と座って話をしよう。いつも固めてあるコイツの髪が、素のときどんななのか、髪質は変わったのかさらさらのままなのか、そんなことが知りたい。
「甘いものも食べに行こうよ」
「一人じゃ入りづらい店があるんだ」
それは…七海は逡巡した。
「私が一緒だと余計入りづらくなりませんか」
大丈夫、五条は言った。
いろんなところへ行っていろんなことをしよう。出来る限りに。
誰かを強く思う気持ちはもうここに既にある。わかっていたんだ、そうしちゃいけないなんて、
「七海」
五条は言った。
「桜が綺麗だね」
ふんわりと笑った。
七海はほんの少し目を見開いて五条の顔を見ていた。
「ええ、あなたと一緒に見れて良かったです」