記憶(仮タイトル) ふと足を止めた。
私は何をしていたのだったか。
違和感を覚えた途端に、背筋から恐ろしい不安が這い上がってくる。そこここにいる人の波はそれなりにいるが、私はその中の誰をも知らない。そして。
『私』は誰だ? ここは何処だ?
私は立ち止まり、吹き出る汗を拭こうとして腕が顔につけたなにかに阻まれたのを感じた。腕を強く振り上げたせいで、額部分の接触している部分を打ってひどく痛んで涙が滲む。
瞬きをして前を見れば、突然止まって腕を顔に打ち付けた変な奴のことをちらりちらりとこちらを見ながら通り過ぎていく人の群れと一方的に目があった。
一方的だと感じたのは、おそらく相手はこちらの視線に気づかないのだろう。目があいながらそらさずに横目で見ていくのをみて、『私』にはひどい違和感と感じられたのだ。
左右をふり仰ぎ、路地を見つけて人の群れをかき分けてそちらへと進む。迷惑そうな目はつぶって見ないふりをする。
人の目から逃げたと言ってもいいだろう。人の目が怖くて、私はハッハッと息を吐いてとにかく人がいない方へと足をすすめた。
それからどれくらい歩いただろうか。
私は体力がないのか、一歩も歩けなくなって途中の木箱に腰をかけた。この顔にはめられたシールドを取りたかったが、それすらも取り方がわからない。通りすがりに見たどこかの民家の窓からも、自分の顔はわからなかった。
怖い。どうしてこんなことになってしまったのか。
誰か助けて、そう言いたかったが私は一体誰に助けを求めたらいいのか。文字通り外れない頭、もといシールドを抱え込んでため息をつく。
「なんだ、お前新顔か?」
声をかけられて振り向くと、お世辞にもまっとうそうには───少なくとも自分の中で信用してはいけないと警鐘を鳴らす───男二人がガムを噛みながらこちらに近寄ってきていた。
人気がいない方へと逃げてきたので、犯罪多発地区に迷い込んでしまったのだろうか。私は震える足で木箱から降りると背を向けて逃げ出した。だがしかし、体力のない自分はあっさりと追いかけられて壁際に追い詰められた。
「逃げんなよ。お前、そんな見た目じゃなんか後ろ暗いことあるんだろ」
もう一人が無遠慮に私の体に触れて上着のポケットから小銭やペン、時計を奪っていく。その時、なぜか私は安堵していた。たぶん、私が忘れてしまった私は大事なものを持っていなかったのだろう。二人はあらかたの身体検査は済んだのか、無遠慮に胸の部分をわしづかんできた。指が食い込み、肋骨に触れて思わず呻き声が出る。
「なんだこいつ、やけに細いな。女か?」
「コートはいいやつだし、身なりもわかんねえから剥ぎ取って確かめてみるか」
ぐいと服ごと引き寄せられてたたらを踏む。叫びを上げようとした声は形にならず、代わりに男二人がこの世のものとは思えない音を立てて弾き飛ばされた。私は男たちが急に飛んでいったので、そのまま床に体が投げ出された。
「大丈夫ですか!?」
息を切らした影が私の上に落ちて、私はやっとあらんかぎりの悲鳴を上げた。手探りで後ろに下がり壁に背中が当たる。
「ちょっ、あの、どうしました」
逆光になっていて顔がよくわからないが、困惑した風の男の声がした。足が一歩踏み出され、じゃりっと砂を噛む音をさせる。
「誰? 来ないで」
命乞いと思われてもいい。近づくのを拒否する懇願の声に、相手の足が焦ったように下がる。
「どうしたんですか。おれですよ。ドクター」
ドクター。その言葉に私の中で何かが少し動いたような。しかし、それを拒絶してくる蓋のようなものが覆いかぶさるようなイメージを受けた。
私は左右に首を振る。
「私は、ドクターなんて名前じゃ、ない。私は───」
皮肉にも『私』はその時名前を思い出した。
◆◇◆
「───ド……えーと、嬢ちゃん。落ち着きました?」
唯一思い出せた名前を叫び、ぽつんとフェイスシールドの奥で涙をこぼす私を、目の前の男は帽子をとって、距離をとってぽりぽりと頭を掻いた。
「うん……えと、はい。……すまない、助けてくれたのに」
私はちらりと先程男たちが逃げていった方を見た。名前を叫んだ後のこのやりとりの途中目が覚めた二人は、助けてくれた男のひと睨みと尾のひと打ちで逃げていった。盗られたものも、助けてくれた彼が全部取り返してくれた。今は彼の手の中にある。
「いえね、それはいいんです。無事でよかった」
そう答えてくれる彼の顔は優しい顔で、私は心から安堵する。
「お礼になるかはわからないけれど、さっき男たちが盗っていったものは君にあげるよ」
グスっと鼻を啜り上げ、拭けないシールド越しにまた腕をぶつけて痛みに顔を顰めながら壁を頼りに立ち上がった。土埃をぽんぽんと払う。
「本当にありがとう。じゃ」
来た道をとりあえず戻ろうと振り返ると、彼が慌てて視界に入るように立ちふさがった。
「待ってください。一人でどこに行こうって言うんです?」
「わからないけど、ここに居たらまた襲われるかもしれないし」
キョロキョロと辺りを見回した。よくはわからないが何か見られているような気がして、怖かった。
「おれと一緒なら大丈夫ですよ。おれはこう見えても顔が利くんで」
「でも」
私は汚れてくすんでしまったシールドごしに彼を見た。
彼は慌てたようにポケットから何かカードを取り出す。
「えーと、そうだ。これをあなたに差し上げますよ。これ、何かわかります?」
長身に見合わぬおずおずとした仕草で差し出されたものを受け取り、目の前にかざす。それは炎国───またひとつ思い出せた───の言葉で書かれた一枚の名刺だった。
「リー、たんていじむしょ。……探偵さん?」
「はい。所長やってます。リーっていいます」
リーはなぜか安心したようにニッコリと笑みを浮かべた。
◆◇◆
「リー、さん」
私の声に、リーはきゅっと頬を噛む仕草をした。
「どうか、気安くリーと呼んでください。聞けば嬢ちゃんは何か失くしたようですし、ここで知り合ったのも何かの縁ってことで。ひとつおれに解決させちゃくれませんかね? あ、お代はね、全部思い出すなり落ち着いてからでいいですから」
「でも……」
言い淀む私に、彼は返事をさせまいとするかのようにさっき男たちから回収したものを取り出す。
「それと、これもお返ししますよ。あなたとあなたの身元を繋ぐかもしれない大事なものだ。そんなに易々と知らない男に預けちゃいけません」
小銭、ペン、時計を含めた貴金属、次々と手渡されて取りこぼしそうになったところで、彼の手によってテキパキと仕舞われてしまった。まるで最初からしまう場所を知っているかのように。
仕上げにと手を取って腕時計までつけてくれた。
「───ありがとう」
「いいえ」
その手を引かれて木箱の上に座らされ、目線を合わせるように彼がかがみ込んだ。
「とりあえず落ち着けるようにまずはそのフェイスシールドが外せるようにしましょうか」
「外し方、わかるの?」
「ええ。知り合いがそういうのつけてるんで。ああ、でもたぶん嬢ちゃんが色々忘れちまう前につけたんでしょう? だったら人目につかないところの方がいい。でも顔を拭くぐらいはしたいでしょう。おれの馴染みで食い物の店やってるとこがあります。今時分なら客がいると思いますけど個室があって、店のやつも口が硬いんで。ひとまずはそこに行きませんか」
ね? と首を傾げながら差し出された手を、私はじっと見て、そしてそっとそれに手を重ねた。
◆◇◆
引かれるがままに連れてこられたのは私が立ち尽くした大通りから二つばかりそれた店で、落ち着いた音楽と、うるさくない程度に先客がいた。なるほど、全く人気のないところでは却って二人きりを気にするかもしれないという配慮だろう。私はリーの親切に感謝する。
「よぉ、二人だけど、個室空いてるか? できれば窓がないやつだとなおいい」
「ありゃ、リー先生じゃないか。いま一つ空けてくるからちっと待ってな」
「すまんな」
あれはペッローという種族だと私の知識がまた一つ判明する。いかつい顔の店員が尻尾を振って『この時間帯は別の席をご利用ください』と書かれた立て看板をどかすと奥に入っていった。
しばらくして戻ってくると手招きした。リーがそっと私の背を押して奥へと進むと人が二人くらいは通れそうな通路に、大きなサイズの窓がいくつもあいている。
いや、入り口だ。長身のリーはペッローの店員が指した入口から軽く屈めるようにして先に進み、立ち止まっていた私へと手を伸ばす。中は六人は座れそうな机と長椅子が向かいで二つ置いてあって、椅子には柔らかそうな背もたれとたくさんのクッションがついていた。
「へい、どうぞ」
店のサービスらしいお茶と湯気が立っている、おそらくは濡れタオルを蒸したものを持った店員が現れ、茶とタオルを机に置いた。
「謝謝。あとすまんがこれもう二つ三つ借りていいか」
タオルを指して言いながら、リーはチップらしい小銭を店員に握らせている。
「はいよ。ちょっと待ってな」
奥に引っ込んですぐに戻って目当てのものを置くと、ごゆっくりと扉がわりらしいカーテンを引き下ろして去っていく。なるほど窓に見えたのは、房がついたカーテンの留め具を知らないうちに目にしていたからかもしれない。
「あ、あの」
対面で座った私がさっきのやりとりで遠目に見えただいたいの小銭をポケットから差し出すと、彼はそっとその手を押し戻した。
「いいですから。───そっちに行っていいですか?」
私が頷くと彼は席を立って私の隣に座った。そして、失礼と言いながら私の首元にそっと触れる。
「確かここにね、留め具がついてて……ああ、あった。確か、こうして、こーやると外れるって……こうかな? あれ、こうかな? よーしよし、いけそうだ」
パシュッという音と共に、しっかりと閉じられていた首元が緩くなる。私がゆっくりと手をかけて外すと、首筋を私のものらしい髪が触れて流れていくのを感じた。
「嬢ちゃんは顔を拭くといいですよ。こっちはおれが」
タオルを手渡され、リーはさっさと向かい側に戻ると顔を背けてシールドの内側を軽く拭っていく。私はタオルを広げて、顔にそっとあてた。温もりがこわばった顔をほぐしていくようだった。
「……これからどうしたらいいんだろう」
私はほろりほろりと募っていくいく心細さを落とすように、ぽつりと呟いた。
「さて。おれも記憶喪失って人にはこれまで何人か会いましたが……思い出せる人もいれば、残念ながら……って人もいたんで責任のないことは言えませんけど」
でも、と彼はシールドを見下ろしてきれいにぬぐいながら言葉を続けた。
「あなたに関してはおれが最後までちゃんと面倒見ますよ。だから安心してください」
優しく諭すような声音に、私はタオルの隙間から彼を見た。
「……どうして?」
「ん?」
「どうして私に優しくしてくれる?」
疑問のままに問えば、そこでリーはやっとこちらを見た。じっとこちらを金の目が見つめていて。すっと手を伸ばしてきたので、私はびくりと体を震わせた。彼の手は私の頬に張り付いた髪を梳いて離れていった。
「理由なんてね、ないですよ」
リーは私の態度がおかしかったのか、うっすらと笑っていた。
「あなたみたいな年頃の嬢ちゃんが寄る方も行く宛もなくて困ってる。それだけで理由なんて要りませんや」
その言葉と視線に、なぜか私の頬は赤く染まった。嬉しいのか、悲しいのか、怖いのかがわからない。どれであってもそれを知られたくなくてタオルで顔を覆った。
けらけらと笑う声がして、彼はからかっているのだとわかったが、それでも私は顔を押さえて下を向いた。
◆◇◆
「よーし、あらかた綺麗になった。何か食べましょう。嬢ちゃんは何がお好みですかね」
はぐらかされたと思っていいだろう。私が顔を伏せている間に彼は一仕事終えていて、タオルを雑に丸めて脇に寄せると立てかけられたメニューリストを出して私の前に広げてきた。
「あの……」
「ん?」
「さっきから気になってたんだが、嬢ちゃんはやめてくれないかな。いい加減君も気づいてるでしょ?」
私の言葉に彼は首を傾げた。
「あなたが男性だろうが女性だろうが些細な問題と見ましたが」
「それでも嬢ちゃんはよして欲しいかな。私には───という名前が……」
私が名前を口にすると、なぜか彼は聞いてはいけないものを見聞きしたような渋い顔になって、私はその顔を見て口を閉ざした。そして彼はそのことに気付いたらしくてすっとメニューに目を下ろした。
「すいません、なんてーかね、その名前が嫌なわけじゃないんですよ。───。いい名前ですね。それをね、おれが気安く口にするのは憚られるというか……。まあ、あなたには関係のないおれの問題です。気に障ったんだったらすみません」
言いながら彼は、「これなんてどうですか」と小籠包という文字を指した。この炎国語は知っているというと、彼は嬉しそうに頷いた。
「もちもちした皮に肉あんとあっつい汁が入ってて美味いですよ。食べ方を教えてあげますから、試してみるといい。気をつけてないとあなたは───。あなたは、どうにもそそっかしそうだから」
最後をおどけたように言う彼に私は呆れる。
「私は自分の歳がよくはわからないけど、少なくとも子どもじゃない。熱い食べ物の冷まし方くらい知ってる。『羹に懲りて膾を吹く』がごとくに気をつければいい話だ」
「おや、調子が出てきたようだ。いいですねえ。小籠包だけじゃ物足りないでしょうから、ちょっとずつ色々頼みましょうか。ここはおれのツケが効きますから、出会ったお祝いでご馳走様しますよ」
リーはなぜか私の言葉に嬉しそうに頷くと、注文の前にときれいになったフェイスシールドを私につけ方を教えながら、口元の開き方までを教えてくれた。
そして私たちは彼の頼んだ小菜を目の前にして、彼の予想どおりに小籠包で舌に軽い火傷をした。