さなぎのつづき7翌日、目覚めはすこぶる良かった。ホテルの一室、広いベッドで、伸びをする。ここに柏木がいないことは少し寂しかったが、
『俺の女だ。』
咄嗟の嘘だったとしても、その言葉がとても嬉しかった。柏木が、あの夜のことを覚えてくれていたことが嬉しい。自らの手で葬った青年は、柏木の中で生きていた。一人静かに、あの人の心の中であの日の姿で守られていたのかもしれない。
(ほんまもんは、もう…。)
朝のぱっとしない老いた姿が映るたび、鏡をぶち割りたくなる。でも、今朝は今までの死にたくなるような憂鬱はなかったかのように、身体も軽い。この不穏な街の気配にすら、ウキウキしている自分がいる。現金なものだ。
この事件が無事終わったら引っ越ししようかな、とふと思い立った。身軽でいたいが、日常の澱のようにどうしても色々と生活品がたまってしまうのだ。あの部屋も憂鬱な原因だったのかもしれない、と思い、ホテルを数日連泊するよう手続きした。
昼頃、事務所に出向いた。子分に買ってこさせた朝刊と朝昼兼用の飯を口に運びながらテレビをつける。ニュースでは、昨夜も神室町で発砲事件、死者が二人、今度は一般人にも犠牲者が、と左右にテロップがでていた。レポーターがスターダスト前でマイクを持ってしゃべっている。死亡したのは、錦山組幹部・田中シンジ氏、暴力団同士の抗争と思われます、と今の街の様子を背景に中継されていた。左下に映し出された写真の顔には見覚えがあった。
(あれ、桐生チャンとよう一緒に居てた奴やないか…。)
今錦山組にいたのか、と思うと同時に、柏木が昨日ホテルにこられなかった理由が分かった気がした。警察に事情聴取されていたらしき時に電話してしまったが、あの後、無事に家に帰れたのだろうか、と思う。
(妙な容疑かかってへんとええんやが…。)
ニュースでは、堂島組、風間組、という名前もでていた。もし錦山組とバチバチやりあっているのが風間組だとすれば、下手をすれば、使用者責任などで柏木が拘束される可能性もある。
「…………。」
途端に味のしなくなってきた弁当を置いて、タバコをつける。
(相手を殺すとか殺さん、とかいう前に、他の奴に横やりいれられる可能性もあるんやな…。)
それは、警察組織であったり錦山組であったり、嶋野組傘下の他の組であったりする。今この街で起こっている事件の対抗図を一つづつ考えていくと、ひどく冷静になってくる。
(親父は、最後は風間組と全面対決するつもりみたいな口ぶりやったが…いや、次の戦、俺が風間組とやりあっとるうちに、親父は錦山潰すんか? その可能性も大いにあるっちゃあるな。)
錦山組がどんなに跳ねようと、風間はあまり本腰いれて返しなどをした形跡もなかった。桐生ではなく錦山が風間を撃っただろう、と嶋野組の中では噂されていたが、今回の事件も、もしかしたら錦山を煽動しているのは風間なのかもしれない。
(風間の叔父貴は、撃たれたふりして、どっかで手薬煉引いとるんとちゃうか。)
嶋野はその居所がわからず、やきもきしているのかもしれない。一昨日のあの顔は、もしかしたら虚勢だった可能性もあるのか。
(あの人らの駆け引きは、ほんまにわっからへんなぁ!)
ああ、腹立つ、とタバコを灰皿に押し付ける。冷めた弁当を温めなおさせる気力もなく、朝刊を開く。一面は神室町の発砲事件、二面は東城会の組織図と、現在空席になっている会長の座に近い組織等が図で解説されていた。
暫くテレビのニュースを聞きながら事務所で暇をつぶしていると、電話が鳴った。電話番が、子機を持ってこちらに慌てたように近づいてきた。それを取り、耳に当てる。
「なんや。」
『親父、桐生の叔父貴が、妙なヤツらにつけられています。』
「桐生チャンが? 妙なやつて、近江かなんかか?」
『いえ、恐らくですが、東城会の…風間組のやつらかもしれません。』
「風間組? なんでや。」
『いや、風間というか、昔、堂島組で見た顔のやつらがいたもので…。』
真島組に長くいる男が言うのだ。信憑性はあるのだろう。
『相手はチャカも携帯していたようで、どうも何人か本気で桐生の叔父貴のタマ狙ってるヤツがいるんじゃないかと。』
そう言われ、はっと気づく。小牧の言葉を思い出した。サングラスの男たち。
(十年ごしの返しか…。)
堂島組長の直属の子分、というやつかもしれない。受話器の先に、そいつらよう見張っとけ!と指示をだし、電話を切る。
「おい、西田、お前メール…! いや、ええわ、自分で打つ。」
こちらの色めきだちかたに、西田が慌ててやってくる。それに、西公園に車まわせ、桐生チャンと俺のと二台や、と伝えると、へいっ、と頷いて出ていった。
こちらがメールを打ち終わると、組員がおずおずと聞いた。
「親父、桐生の叔父貴を助けるんで? そんなこともし嶋野の親父にみつかったら…。」
「なに、アホなこと言うとんねん!」
ばちん、とその頭をはたいてやる。
「桐生一馬は俺の獲物じゃ! 親父がなんと言おうが、この喧嘩に横槍いれさせへんぞ!」
はっ、そうですね、と頭を下げた。勢いつけて立ち上がる。
「どこの馬の骨かわからんやつに、桐生ちゃんのタマとられてたまるかい! ぶちくさいうなら、お前らはここで待っとけ!!」
そんな、いきますよぅ!と坂井が一番に立ち上がった。その顔で声がかん高いから面白い。日頃相方のように行動している金野も不安そうに立ち上がった。金ちゃんはまってていいから!と坂井が言うのに、
「お前が決めることちゃうやんか。」
というと、はっ、とまた坂井が頭をさげた。皆が笑うが、金野だけは、よくわからない顔をしている。本当に、こいつは笑いのツボがあわんな、と思って妙に力が抜けた。
桐生をともなった埠頭。堂島組の残党を蹴散らしたところで、銃声が響いた。
「…!」
咄嗟に桐生をかばうように体が動いた。気づけば海水のなかにいた。黒い海に沈んでゆく。さすが真冬だ、冷たいな、と思った。
「…っ……。」
一瞬意識が遠のく。ここで思考を手放してしまったら死ぬ、と本能的に危険を察知した。藻掻くようにして海面に顔をだした。腹が焼け付くような痛さだ。患部を押さえ、人の気配が去るのを待ってから、埠頭のコンクリート階段をなんとかよじのぼった。倒れて伸びた人間がいる。血を流す男もいる。桐生はそのまま立ち去ったようだ。
「ぐ…っ。」
寒風が身をきるように吹き付ける中、蹲った。こうまでしても、誰も何も自分にかける言葉もないのか。腹に手をあてる。血がドクドクと流れでている。痛い。心も体も、何もかも、痛い。
(こら、あかんかもしれんな…。)
ずぶ濡れの身体に海風が吹き付け、体温を奪う。黒の革手袋が、みるみる赤に染まっていっている。
(寒い。痛い。)
心がどうのと弱気なのは、きっと血が失われているからだ、と。こんな時にまで強がっている自分を嘲笑いながら、膝から崩れ落ちるようにコンクリートの上に倒れ伏した。
病院で目覚めたのは、けたたましく鳴る携帯電話の呼び出し音に起こされたからだった。
(なんや…音切ってへんのか。)
ここに運び込んだのは誰なのかはわからない。天井の色が違うので、前に腹をナイフで刺されて入院した病院ではなさそうだった。身体がだるい。点滴が入れられているが、中身が何かはわからなった。たくさんの管に繋がれて、口の中も熱く、自分の身が何かと戦うように高い熱がでているのがわかった。電話はまだ鳴り続けている。海に落ちて水没故障でもすればよかったのに。そう思いながら、カーテンを開け、横にかけ置いてあったジャケットから携帯電話を探り出す。
「…チッ。」
と大きく舌打ちし、それを手に取る。見たところ、かなりの医療機器がしつらえてある個室だった。自分の容体が悪い、というのがそんなところからも客観的に把握できた。携帯を開き、着信にでようとしたところ、呼び出しは切れる。ディスプレイには、親父、とあった。
(嶋野の親父、か。)
さすがに自分がこんな状態になって、心配してかけてきたのか、と一瞬思った。が、即座に、違う、と頭を振って否定する。敵である桐生をかばって銃撃されたと知れば、嶋野は怒り心頭なはずだ。再び、携帯は鳴り出す。耳に無理やりにでも入ってくるけたたましい音は、嶋野のよく通る声にも劣らない響きだと思った。通話ボタンを押し、耳に押し当てる。一つひとつの動作が重かった。
「…へぃ。」
痛む腹をかばって声をだす。てっきり、桐生をかばうように怪我をしたことを何やら言われるのだと心していたのに、開口一番は、
「貧すりゃ鈍するのぅ。」
だった。こちらの行動を歯牙にもかけないその口調に腹がたったが、いやに明るい声だったので、ここ数日、計画がうまくいっているのだろうということは伺い知れた。
「桃源郷、いうソープしっとるか、真島?」
嶋野はそう前置きもなく言った。
「…ええ。泰平通りの。」
「そこやそこ。その桃源郷っちゅうソープに風間はおるらしい。」
「…!」
こちらが息を飲むのに、嶋野が笑んだるのが受話器越しにもわかる。
「相手は瀕死や、さしたる抵抗せんやろ。連れてこい。」
「もし、抵抗されたら、殺してええですか。」
「………。」
今度は嶋野が一瞬口を噤んだ。受話器のむこうで、気配が揺れる。
「どうなんです? 死体でええなら、すぐにでも行ってきます。」
「………。」
「なんや聞き出したいことがあるんですね。」
嶋野は答えなかった。沈黙が答えだ。
「生きて捕らえるのが条件なら、それはちょっと準備がいりますわ。相手はあの風間新太郎、瀕死やいうて、なにが飛び出してくるやわかりませんから。」
「そうやな。」
「ほかの邪魔がはいるやもしれませんし。」
風間の横に控える柏木の佇まいを思い出し、そう言う。
「他は殺してええ。死体の処理はこっちでしたる。」
「さようですか。ほな、ちょっと準備して、今夜にでもいってきますわ。」
「ああ。」
そこで、ぶつっ、と電話は切れた。気張れよ、だとか、気ぃつけよ、と一言でも言ってくれれば、きっとこの戦いが最後の死に場所とでも思えたかもしれないのに。
「…………。」
携帯電話を畳んで、それを両手で持った。しん…と静まり返った病室。自分をとりまく、その機器だけが微かに音を立てている。
(戦争の大将首…打破できなかった状況が動いた、か。)
嶋野はこの戦いで死ね、と言っている。そんな気がした。マコトを連れてこい、と言われたあの夜のようだ。極道は家族だ親子だといって盃を交わしてみても、結局は使うものと使われる者、それだけの関係しかない。温かみがない。酷く覚めている。
(あほくさ。)
命をかけて、親の命令に従って、人を殺めて、今さら何になるのか。昔ならば、この重要な局面で用いられることに、武者震いすらしたかもしれない。そんな純朴な時代も確実にあった。だが、今はただただ面倒くさい。
(それに…。)
もし、その場に柏木がいたら、今度こそ殺し合いをしなくてはいけない。今朝の浮かれていた気持ちなど、十日以上前のことのように思う。
(桃源郷…か。)
自分が風間に手をかけるときには、恐らく柏木は本気で向かってくる。今のあの人の本気を知らない。けれども、勝てる気はする。ステゴロの喧嘩であれば、だ。ただ拳銃をもちだされれば、どうか。確実に、殺意をもって当たられたら、こちらだってひとたまりもないのだ。
(俺が死ぬのはええが、あの人を人殺しにしたくない。)
何度も繰り返し、思ったことだ。この事件が始まって、様々なことをひっくるめていろいろ考えても、最後には、そこに行き着く。自分の死に際の体液などで、柏木の手を汚したくはない、と。
「…………。」
暫くぼうっと考えに耽っていると、手の中の携帯がまたけたたましく音をたてた。その音量に、ビクッとらしくなく肩を震わせ、それを見る。また嶋野か、なにか追加の要件か、と気乗りしないで着信ボタンを押す。
『真島、真島か? 今、話せるか?』
ディスプレイを見ずに、通話を押した。その声に、驚く。
「あっ…今…。」
『今、たてこんでるか。なら、後にする。』
柏木の声。切られそうになるのに、
「待って!」
と叫ぶ。このタイミングで、この状況で、きっと、これが最後の蜘蛛の糸なのだ。掴まなくては、もう一生地獄の底をはうことになる。祈るような気持ちで声をだした。
「待って。そのまま…切らんとってくれ。」
『おう。』
「お願い、きいてくれへんか。時間がないねん。」
腹に力が入らず、声がでなかった。柏木がそれに気づいたように、こちらを伺った。
『真島…お前…。』
「あのホテルで、今度こそ、待ってるから。」
時間も指定せず、それだけ言って、電話を切った。期限は今夜、出撃するまでの時間。腕から点滴の針を抜いた。エラー音が鳴っている。看護婦が気付いて駆けつけてくる前に、病室を抜け出す。
水にさらされ冷たいジャケットを羽織り、病室を出る。ドアを開けたところで、壁側に一列に並んで待機していた子分がびっくりした目でこちらを見た。その前で子分を静かに叱責している西田がいた。両方の顔を見くらべて、首をかしげる。
「お前ら、なにしとんねん。」
「お、おやじ!」
「おぅ。」
「応援呼んで埠頭にかけつけたら、もう喧嘩終わってるし、親父は倒れてるし…って、大怪我してるじゃないですか! 病室抜け出さないでくださいよ!」
そう心配そうに言われ、少しくすぐったくなる。それに明るい調子で答える。
「おい、西田、退院の準備や!」
「えっ、もういいんですか?!」
「もういいもクソもあらへん、仕事や仕事。」
電話あったんや、と言うと、西田の顔が分かりやすく曇った。窓を見る、今は夕方。外の状況を西田は知っているのだろう。嶋野のあの声とは裏腹に、嶋野組が後手後手にまわっていることも。
「事務所に、夜までに組員全員集めろや、派手なケンカになるで。」
低いドスの効いた声に、へいっ、と子分たちは引き締まった顔をして頷いた。
***
昨夜のごたごたを片付け、朝方自宅に戻ってきた。夕方、目を覚ます。携帯に連絡がないことを確認して、風呂に入る。下着にシャツだけを羽織り、コーヒーを淹れようと湯を沸かしていると、自宅の電話が鳴り響いた。ナンバーディスプレイには見たことのない数字の羅列。090から始まっているが、登録のないそれだった。
「…はい。」
『柏木、俺だ。風間だ。』
警戒をにじませて取った受話器からは、久方ぶりに聞く親父の声。
「ご無事で。」
『ああ。今、芝浦にいる。近江の寺田と一緒に行動している。船の上だ。』
「近江?」
これは船舶番号ということか。海上ですか、というと、風間が頷いた気配がした。
『夜、組員のせて、埠頭へ来い。』
「敵は。」
『こちらの持つ物に気づいた全員だ。』
意味ありげな言い方に、無意識に受話器をきつく握る。
「獲物も、準備しますか。」
『ああ。組員のぶんも倉庫にあるだろう。』
「ええ。時間は。」
『相手が気付くのは時間の問題だろう。待機しておけ、また連絡する。』
そこで通話は切られた。ディスプレイを見る。090302、船上からかけられている番号だ。
(近江…寺田、といっていたか。)
ミレニアムタワーに近江の代紋をかざして入っていった輩がいた、というのは、もしかしたらその団体かもしれない。
(風間の親父の持つもの…。)
それを奪いに来る奴らとの全面戦争のために、拳銃も武器弾薬も積んで来い、ということか。
(敵は錦山も、嶋野も…か。)
武力を行使するのは最後の手段だ。風間がこうも進退窮まるとは、と思ったが、その実そうではないのかもしれない。
(ずっとこの機を待っていたのかもしれないな。)
今回の件で、風間の思い描く東城会にいらない分子を一掃するつもりだ。
(世良の次に、親父が担ぎたいやつがいるってことだ。)
東城会の未来を左右する問題なんだろう。そこには、嶋野組も錦山組も、それに組する者も全員、不要だ、ということだ。
(今更、鬼になれというのか。)
今まで力を抑えてきたのに。武器弾薬を子分に使用させれば、使用者責任で五年はくらう。現在、風間組を仕切っているのは自分だ。自分が武器所持で殴りこみに行った、となれば、銃刀法違反もくらい、最長八年だ。誰にその間、組を任せるのか。
「…桐生、か。」
恐らくそういうことだ。はっ、と笑う。
(そうか、自分は最後の最後までとっておかれた捨て牌だったというわけだ。)
桐生には風間がどこにいるか、連絡がついているのだろう。シンジが殺されたのも、桐生に連絡をつけようとしたのを錦山が嗅ぎ取ったからかもしれない。
(錦山はきっと、最後の最後まで風間の親父の愛情を試していたのかもしれないな。)
桐生ではなく、錦山に何かしらのアクションをおこしてやっていたら、シンジも殺されなかったかもしれない。それも、すべて憶測の域をでないが。
(考えても答えは得られない。昔から、そうだ。)
所詮は駒。親子といったところで、利害関係しかそこにはないのだ。なにもかも空しくなる。だが心の整理はつかずとも、体は勝手に動く。スラックスを履き、ネクタイを締める。普段の姿になり、事務所に電話をかける。
「…おう、柏木だ。親父から連絡があった。そちらは…。」
子分に指示をだした。心持ちはどうあれ、頭が次を計算して勝手に動いている。すべきことを、すべき時にできるように、教育された結果だった。
各所に指示を出し終え、沸かした湯をとり、インスタントコーヒーをいれた。チープだが、この香りが好きだった。苦みの深いそれを飲んで一息つく。空きっ腹にどうしようかと思ったが、念のため痛み止めも飲んだ。折れたあばらの痛みは、いまだ続いている。
(若い頃は、娑婆が今日までになると、何をしようかよく考えていたものだがな…。)
今、その危機に直面すると、財産の避難だとか株をいくらほど利確しようだとか、そんなつまらないことしか思いつかなかった。
(捨て牌、か。)
きっと、最後まで取っておかれた、その重さは自分にはあるのだろう。風間の持つものが百億と関わることなのか、どうなのか、様々な後のことを考えて事件を俯瞰で見るということも、自分がその世界にいないとなると、今は馬鹿らしくなる。だが、風間に逆らってまで次にすることも咄嗟には思いつかなかった。
(今夜、自分は戦場に放り出される。)
夜のうちに収監されるかもしれない。こんな仕事だ、様々なことは想定していままで来たが、いざその時を迎えると覚悟が揺らぐ。部屋の片づけをしようか、風呂にだしっぱなしのバスマットとバスタオルは洗っておこう、だなんて些細なことに思い至って苦笑する。洗面に入った。ふっと香る花の匂い。あの日の香水の香り。
(なにか…思い残したこと、それはこれだな。)
部屋に引き返し、携帯電話を手に取った。真島にお別れを言わないといけない。相手はそんなことは望んでいないかもしれないけれど、この間の約束をすっぽかしたことだけは、ちゃんと謝らなければならない、と思った。
「…………。」
数度のコール、電波は繋がった。
「真島、真島か? 今、話せるか?」
『あっ…今…。』
「今、たてこんでるか。なら、後にする。」
電話にでた真島の声は常日頃のそれとは違った。
『待って!』
真島の叫び声が聞こえ、受話器に耳をつけた。周りは静かだ。どういう状況なのか、息を殺して推し量る。
『待って。そのまま…切らんとってくれ。』
「おう。」
『お願い、きいてくれへんか。時間がないねん。』
真島の声は弱弱しかった。息があがっているような、まるで大怪我でもしているかのような、芯がない声。
「真島…お前…。」
『あのホテルで、今度こそ、待ってるから。』
そこで、ぷつっと通話は切られた。切羽詰まっている、ということがわかる声だ。携帯電話をたたむと、その勢いでジャケットを羽織り、部屋を飛び出した。
***
埠頭近くの病院に搬送されていたらしい。神室町のホテルに戻った時には、もう夜の帳が落ちてきていた。部屋を延長にしておいてよかった。海水に浸かってしまった服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。処置された横っ腹の傷だけでなく、背中からも、血が漏れている。薬莢が貫通したのだろう。
(通りでしんどいはずや。)
高熱があるのだろう、どれだけ湯を浴びても寒かった。シャワーを切り上げ、バスタオルで体を拭く。白いそれに、赤い血が散っている。点滴は、化膿止めや止血の為のものだったのかもしれない。
「無様やな…。」
いつもの狂犬のシンボルマークといっていいジャケットと革のパンツを、海水を絞るようにして風呂場に干した。不可抗力、と思うことにした。真島吾朗の姿は、こういった理由でお休みである。
(なに着よか。)
本人は死にかけているのに、と思わず笑みがもれる。本当に別の誰かになれればいいのに、そう思いながらクローゼットに吊るしてあった服を見る。あの日のように、タキシードを着ようか。でも、それは少しやりすぎな気がして恥ずかしかった。
(あの日より、ずっと追い詰められとるな…。)
命のゲージがあるとしたら、今は随分とすり減っている気がする。きっと自分の人生の終わりは突然くると思っていた。けれども、瞳を失った時も穴倉でも、どれだけ嬲られ血を流しても、人は簡単には失神できないのだな、思い知ったのだ。身体の強さが裏目にでているな、と。命など即座になくなれば、明日を恐れることもなくていいのに、と思ってから数年。今は、それが徐々に失われていくのを感じられる。
(ほんまに、あかん時はわかるもんやな…。)
そして、その場に瀕すれば、人間誰しも生きながらえることを願うようだ、とも。
(でもええんや。最後にあの人に会えるなら。)
柏木が来てくれるか、来てくれないかはわからない。でも、死ににいく前の、この僅かな時間を、自分の気持ちに向き合うことができて幸せな気がした。荷物を片付けながら、自分の気持ちも整理してゆく。
(もし柏木がこの場に現れて、その時…振られるなら、女のほうがええな。)
真島で振られると立ち直れそうになかったから、ゴロ美の衣装に着替えた。気を張って何とか立っていられるが、さすがに銃創があると腹が痛いな、と苦笑する。痛み止めを飲み、メイクする。酷い顔色を隠すように、念入りにファンデーションを塗った。
「…………。」
30分後、悲壮な顔をした女が、鏡の前で笑っていた。
***
西新宿のホテル。久しぶりに、ここに来た。真島のメモを見て、番号の部屋を探す。
(ここか…。)
インターホンを押す手を止める。廊下は静まり返っている。誰かにつけられている気配もない。一度、探るようにドアノブに手をあてた。カチリ、と音がする。鍵が開けられたような音だ。一歩、ドアより下がった。ゆっくりドアが開く。
「いらっしゃい。」
と顔を覗かしたのは、ゴロ美だとか言っていた女装姿の真島だった。眉をよせる。絶対なにがなんでも真島吾朗の姿で会わないつもりなのか、とふいに苛立った。
「同伴頼んだ覚えはないんだがな。」
こちらのセリフに、真島はにこっと笑った。我が意をいたり、なのか。
「とにかく、入って。な?」
と丁寧につけ爪までした大きな手が手招く。誘われるまま、部屋に入った。部屋はあの時と同じ、デラックスツインルーム。ソファに服がかけてあったのを、ゴロ美は、いややわぁ、と言いながらクローゼットに仕舞った。
「あ、そうや。クリーニング代、かえそか? 香水、ぶっかけてしもた、ってゴロちゃんから聞いてん。」
そう軽く言う。あくまで、真島ではない人間だというように、ゴロ美は振る舞う。
「いいよ、そんなもの。」
「新品のほうがええ?」
「なんでも金の話ではぐらかすんじゃねぇ。」
こちらの少しきつい口調に、ゴロ美は黙った。
「………。」
少し顔を傾けるゴロ美、金髪のニセモノのような髪の毛が揺れる。アイライナーがひかれた目は普段より大きく見える。組員の気配もない。ここには真島一人しかいないはずなのに、その真島の気配もなく、妙な心持ちになる。
「な、とにかく座らへん?」
座って、とゴロ美がソファへ誘導した。入口の廊下の半ばで足を止め、ゴロ美に向き合う。
「お嬢さん、真島って男の代理か?」
ゴロ美は、笑顔を消し、困ったようにこちらに向き直った。
「まぁ、そんなものや。吾朗ちゃんは、ちょっと最近いろいろあってな…。」
目をふせる。瞬くたびに、ばさり、と音がなりそうな付け睫毛だ。
「無事なのか?」
「無事…?」
ゴロ美の顔に動揺がでる。電話の向こうの真島は、せいいっぱい、というような声だった。
「大丈夫なのか、って聞いてる。あいつも、そして…お前も。」
ここで17年前に消えた青年も。すべてが真島だ。
「………。」
相手の目を見る。ゴロ美の中途半端に開いた唇がかすかに震えた。
「大丈夫…や、ない…。」
絞りだされた声が、静かな部屋に響いた。
***
「大丈夫か。」
こちらの姿に、柏木はそう改めて聞き返した。
(ずっとずっと…あの日から、聞きたかった言葉だ。)
大丈夫、と。笑顔を見せようと唇をあげようとする。けれど、
「……っ…。」
唇が震える。指先が震える。この震えが真実なんだろう。
「大丈夫や…ない…。」
そう唇が言っていた。柏木は、そうだろうな、と頷いた。
「どうしたらいい。」
「どうにもできん。」
首を振る。声を出しているのは、ゴロ美でもなんでもない、ただの、真島吾朗だ。
「死ね、いわれとるから死なんとあかんねや。」
親がここまで対立してしまったら、自分たちに残された道は限られてくる。
「………。」
難しい顔で柏木は頷く。
「こんなこと、あんたに言うても…。」
「それは、真島吾朗の話だろう。」
はは、と笑い飛ばそうとした、それを柏木は強い声で遮る。
「せやな。」
「お前は違う。」
「なん…。」
柏木が、こちらの腕をとった。ひかれるままに、その胸におさまる。回される腕、その温かさに息を飲んだ。
「かつてこうやって、消えちまった人間を知ってる。」
「………。」
「ずっと探していたけれど、見つからなかった。」
「…っ!」
それは、あの日の自分なんだろうか。ゆっくり、腕を離される。すこしばかり離れた体の距離、柏木がこちらの目を見て言う。
「お嬢さん、生き延びな。真島吾朗を殺してでも、生きてくれ。」
「柏木さ…ん…っ。」
ばらばらと涙がこぼれる。この街に真島吾朗は縛られていなければいけないと思っていた。親友に意地を通すため、そうしなければなないのだ、と。そのためには、親の命令を聞くしかないのだ、と。
『なにもかも、こうしなけりゃならねぇって、なってるときは、視野がせばまってる証拠だ。』
かつてそう柏木は言っていた。そうなのかもしれない。どれだけ自由気ままを唱っていても、自分の何かに囚われていたのかもしれない。もう一度、柏木の肩に顔を預けた。柏木はこちらの頭をゆっくり撫でてくれながら、言った。
「こないだは、すまなかったな。来れなくて。」
「ええんや…。」
ぐすぐすとでる涙で柏木のスーツを汚さない様に、目元をぬぐって顔をあげた。
「あんたも、色々忙しいの知っとるからな。」
そう言って、なんとか笑顔を作ってみせる。柏木は、こちらを見て、口を開き、何か言いかけようとして、閉じた。
「ん?」
その表情が気になって、顔を見ようとすると、それを拒否されるような形で、もう一度抱きしめられた。
「…っ。」
耳元で柏木が、息を飲むような仕草をした。様子がおかしい、と思う。
「柏木さん…?」
「少し、時間をくれないか。」
「時間?」
こくり、と頷かれる。常日頃にない、その気配が揺らいでいる。
「ベッドに行こう。」
あの日のように、と言われているようで、くっと息を飲んだ。柏木がジャケットを脱ぎ、ソファにそれを掛け置いた。肩を抱かれ、奥に移動する。二人して靴を脱いでベッドへあがる。こちらが、柏木の首に腕をまわそうとすると、いいや、と首を振られた。
「こんなええ部屋で大きいベッドがあるのに、せんなんて、もったいないやろ。」
「なにいってんだ、ベッドは眠るもんだろ。」
きれいにベッドメイクされた上から布団とシーツを取りながら、さも当然というように言われた。
「せやけれども…。」
言いつのろうとするこちらの腕を、ほら、ととられ、柏木に抱きすくめられた。そのまま、横になる。
「…っ。」
そうだ、思い出した、初めもこうされたのだ。
(そこで落ちたんだ。)
物心ついたときに父親はいなく、母親は忙しかった。抱きしめて、頭を撫でてほしい、などとは言えなかった。なにより、それを望むことが贅沢だとおもっていたから。
「………。」
柏木の呼吸が首筋にかかる。回される腕は暖かい。男に抱かれるのは自虐なのだと思っていた。金をもらって抱かれることで、誰からももらったことのない愛情を、仮初にでも満たしていたのかもしれない。だから、その価値がこの身体になくなることが嫌だった。どれだけ強くなっても、どれだけ金を持ち権力をもちこの街で影響力をもとうとも、そんなことどうだってよかった。
喧嘩もそうだ、自分だけを見る目がほしかった。その視線がほしかった。その瞬間だけは相手の脳裏に自分だけがいる、その錯覚が好きだった。
(ただただ、誰かの一番になりたかっただけかもしれない。)
義兄弟と契りあった男も親をとり、結婚相手も夢をとり、ライバルだと思っていた男も自分以外との友情をとった。そんなことは不可能だとわかっていた、自分は誰のものでもなく、誰からも優先してもらえる立場ではない。せめて嶋野に一番だと言われたらよかった。錯覚だとしても、それで気持ちは済んだろう。けれども、言葉はくれなかった。結局はいいように使われている駒の一つなのだと、知るだけだった。
なんて価値のない人生なんだろう、そう痛感したあの日の思いがよみがえる。この胸のどこかに、まだあの不安定な青年は確実にいる。胸が締め付けられて、すっと息を吸う。
「どうした、大丈夫か。」
寒いか?と言われるのに、首をふる。身体の痛みも心の痛みも、すっと消えていくみたいだ。思わず口角があがる。
(不思議やな、この人の一番でもなんでもないはずやのに。)
その一言の配慮の言葉で、自分が大切な人間ではないかと錯覚できるのだ。顔をあげ体勢を変えて、相手の襟のあたりに鼻をおしつける。柏木が身じろぐ。タバコの匂いがする。香水など今まで一度もつけることを考えたことのない、というような男っぽいヤニの香り。その頓着なさにゾクッとする。顔をあげ、その鼻先を見上げて言う。
「ほんまにやらんの?」
柏木がこちらをむいた。腕の力を少しゆるめ、
「やらねぇ。傷、開いちまう。今日はおとなしくしておけ。」
「傷…。」
「熱、あんだろ。」
そう言って、労わるように腹に手をあてられた。無意識にかばっていたそこを見抜かれていた。
「あぁ…そうやな。」
柏木は誰にでもしていることなのかもしれない。けれども、その配慮が心地いい。今この瞬間、自分にむけられる視線。つぶさに注意深くこちらの一挙手一投足を見てくれている。甘えるように、柏木の腕のなかで、力をぬいた。柏木が身じろいで、こちらの身を抱きなおした。目をつぶる。布越しに感じる人の肌の熱は、温かいな、と思った。
***
真島を腕に抱く。何も言えなかった。今更こちらの気持ちを告白して、そして自分がこの街を去ってしまえば、真島はまた一人になる。最後まで格好をつけて、何も知られないようにするしかない。
「…………。」
離れ難い思いで、その腕に力を籠める。時がゆっくりと流れる、その静かな空間を破ったのは、高い電子音だった。ピピピピ、とけたたたましく携帯が鳴る。どちらのだ、と真島とともに顔をあげ辺りを見回す。次の瞬間、違う携帯が同じ呼び鈴の音を鳴らした。
「………。」
「………。」
二人で目を見合わす。呼び出されているのだ、現実から。この幻想の空間から出てこい、と互いの親が呼んでいる。
「っ…。」
どちらも息を殺し、その呼び鈴が鳴りやむのを待つ。ひとつ、鳴りやんだ。少しして、もう一つ、鳴りやんだ。
「………。」
一瞬の静寂。互いの目を見て、ふっと皮肉に笑う。
「ああ、なんであんたは、風間組の柏木修なんやろうな。」
いつかどこかで聞いた有名なセリフ。それを聞いて、なんでなんだろうな、と苦笑した。真島はこの続きを知っているのだろうか。劇中のように、その名を捨てて、とは言えなかった。ゆっくりと、真島が身体を起こした。
「きっと、最後やで。せぇへんの。」
「ああ。」
こちらも身を起こす。女の格好の真島、だがその表情は、あの街にいる男のそれ。今、責任をもって子分を引き連れる、その男の顔だ。
「俺を、覚えていてくれないか。」
「あんたを?」
静かに首を縦に振る。今の真島になら、これだけで伝わるだろう。
「えっ、柏木さん、どっかいってまうんか?! 嫌やで、そんなん!」
腕をつかまれ詰め寄られ、驚く。まさかこのように直情な感情がかえってくると思わなかったから、続ける言葉がない。
「嫌、か…。」
「いやや…嫌やって。」
絶対に、嫌や、と真島は首を振る。
「そうか。」
「そうや。」
「でも、お前だって、いってしまうんだろう?」
ハッとしたように、真島は口をつぐんだ。どうなんだ、とその目に聞いてやる。
「俺か…。」
「そうだ。」
こちらの腕を掴んだ、その手を握る。熱があるのがわかる。
(真島は本当に、死んでしまうのかもしれない。)
こちらに、今日の姿を残して。互いの心に、今日の姿を残して。
「…………。」
手を取り合って、互いの目を見つめあう。
「帰ってきたら、指名してや。待ってる。あたし、ずっと、まってるから。」
そう女言葉で言った。
「ああ、期待していろ。シャンパン入れてやるから。」
二人して、嘘をつくのだ。互いの唇が、互いを慮って、できないことを言っているのだ。ここでこのまま死ねたらな、と思った。
***
柏木は再びこちらを抱きしめた。暫く互いの息遣いを聞く。身じろぎする、胸をつける。相手の鼓動が聞こえる。
「…………。」
ただ抱きしめられるというのは、一番の贅沢に思う。この時間が、静かに流れる空気が、伝えるものがある。
(自分にも…この人にも、時間はないんや…。)
きっと、死にに行け、と言われているのは自分だけではない、というのが分かってしまった。
(そんなことって、ないやろ…。)
柏木はかつての自分を大事に守って、そして今も探しにきてくれた。自分は何を返せるのか。追い詰められたこの人に、何をしてやれるのか。
「…っ。」
身じろぐと、柏木が、ぐっと腕に力を込めた。あまりに切なくて、泣きたくなる。涙がにじむのを知られたくなくて、軽口を言う。
「一番高いシャンパン、入れてくれる?」
「ああ。いくらでも。」
声が震えている。どれだけ何かを偽っても、その肌の震えだけは真実だ、と誰かが言っていた。
「なぁ、もし…もし、生きてたら…。」
「ん?」
「いや…。」
「なんだ、言ってみろよ。」
顔をあげ、優しく促される。この声が好きだ、どうも甘やかされている気がするのだ。
「いや、余計なこと言うたら、あんたに迷惑かけてまうわ。」
「お前は優しい女だな。いや、女じゃねぇのか…ん?」
「ええねん、どっちでも。」
そういって柏木の腕を軽くつつく。互いに困り顔で笑う。こんな拙いギミックにのってくれるのも嬉しかった。
二人で、次に会った時のことを話した。もっと早くに、この腕のなかに飛び込めばよかった、と泣いた。
***
『待ってる、ずっと待っとるから。』
事務所に戻ると、風間から指示があった通り、段取りは整っていた。
「遅くなったな。」
着信は事務所からだったようだった。こちらの顔を見た子分は、よかった、という顔をする。
「カシラ。いつでもいけます。」
「人数は。」
「トラック二台、前衛十人、後衛十三人。計二十三名。」
装備もしっかりしています、精鋭ばかりです、と言われるのに、ああ、と頷く。
「事務所に五人は待機していろ。こっちが狙われる可能性もある。」
「へい。」
配置を指図し、机に置かれていた拳銃を装備する。その銃口の向かう先を想像し、苦痛に胸を抑える。痛み止めを飲んでもやはり、痛くて、いたくてたまらなかった。
***
『シャインで待ってろ、その時は指名してやるから。』
生きて帰れはしない、と思う。真島の姿に着替えて、鏡の前で狂犬の顔を作る。狂気を、この日にむけて作ってきたその姿を演じ切らねばならない。
(目指すは、桃源郷。)
様々な思いをその部屋に残して、ドアを開け、一歩、踏み出した。
つづく