さなぎのつづき4真島にかけられた香水は、時間が経つと、女物の化粧品のような香りになった。呼吸を奪うようなそれ。息をしていても、まとわりつく香りが、正常な判断を失わせた。このまま事務所には帰れない。止まっていたタクシーに乗り込み、一度自宅に戻った。
スーツもシャツも脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。肌に直接かかった部分を重点的に洗う。特に首筋を念入りにボディーソープで擦った。
「……っ。」
ようやっと香りがなくなった、と脱衣所に出た途端、洗面台に置いたシャツからまたその香りがした。それは夜の女の匂い。先日、ゴロ美だなんだと真島がふざけて女装していた時の香りな気がした。
(なんだ…どうしてこんな…。)
シャツには香水が吹きつけられたところに点々とゴールドのシミがついてる。確かめるために顔を近づける。ふわっと花の香り、次いで何か甘い匂いが強烈に残る。香水はあいにく詳しくないが、男性がつけるムスクなどの香りではない気がする。百貨店の一階の化粧品売り場の匂い、女がつける香水な気がした。
(どうして、よりによってこんなもの…。)
また鼻が、その香りに捕らわれた。そのままクリーニングに出すこともできず、とりあえず洗濯機に放り込んだが、部屋に戻っても真島の気配がするようで落ち着かない。新しいシャツに着替えたが、ふと袖をふるごとに香りがついてくるような感じがする。そこにはもう成分はないはずなのに。まるで、忘れないで、とすがられているようだ。もしくは、思い出して、と。
(誰のことを…? まさかな…。)
髪の長い青年、こちらの手をすり抜けていった蝶を思い出して身体がゾワりと熱をもった。彼はもうあの日の彼ではないのだ。何かの思い付き、近頃の欝憤を晴らす戯れに違いない、と鼻についた香りを消すように、濡れ髪のまま、普段あまり飲まないキツめのアメリカ産バーボンを煽った。
「…………。」
ただただ不味い、焼けつくようなアルコールの熱さだけが喉を通り過ぎていく。貰い物で、高価なものだが口に合わず、水割りにするととてもじゃないが飲めたものではない、と戸棚の肥やしになっていたそれを、ここぞとばかりに飲み干した。接着剤のような匂いのする酒。生のままでいったものだから、唇がひりついた。それでもまだ、鼻のどこかには、あの香水の甘い匂いが残っている。
女装の髭面を思い出して、ちっと舌打ちする。あんな女装をするということは、真島はいまだに、どこかで男を漁っているのだろうか。そういえば、真島が方々に女を囲っているという噂もきかなかったし、かといって、男とどうなっているという噂も聞かなかった。自分が耳に蓋をしていただけかもしれない、と思うが、確証はなかった。今更、ひどく気になる。姿を変えても、そうそう性癖までは変えられないだろう。長い髪のあの青年は、男娼として過ごしてきた日々を誇りとまではいかないが、さして悪いことのように言っていなかった。
(まだ、誰かとどこかでひそやかに関係があるということもあるのか…?)
世にいう、パートナーのような人間がいるのかもしれない。相手の人間が口の堅い人間であれば、真島のそういった噂がたたないのかもしれなかった。
「…………。」
そこまで考え、訳のわからぬ苛立ちに苛まれながら二杯目を注ごうとした時、ピピピピ、と携帯電話が鳴った。携帯は脱ぎ捨てたジャケットの中だ。洗面に戻る。またあの強烈な香りがただよっている。クリーニング屋が洗濯物を取りにくるまでまだ日にちはある。溜息をつき、未だ濡れた頭を抱えながら、着信に出た。
「柏木だ。」
「カシラ、本部から連絡がありました。美月って女を探す件の追加の話です。由美って女も共犯だということで、そいつも探せということです。」
「ゆみ?」
「はい。なんでも、美月って女の姉にあたる人物らしく…。」
子分の説明では、なんでも今回のことで東都銀行が被害届を出し、警察の捜査上にのぼった人物にその名があるということだった。
「名義人以外の被害届か…サツも噛んでるとなると面倒くせぇな。しかし、その女の名前は本名なのか、源氏名か? どちらも名前だけで、名字がねぇが…。」
「わかりません。写真などもなく、それしか新しい情報が出てきていません。」
「漢字は?」
「自由の由に、美しい、で、由美です。」
由美。桐生や錦山と一緒にいた少女の名が、たしかそのような名ではなかったか。制服を着て歩く三人、という遠い記憶が思い出された。だが、彼らといたあの由美という女性は、あの痛ましい事件の後、失踪し死亡したと聞いた。
「わかった。どこにでもある由美って名前だけから追うのは、あまりに難しすぎる。とにかく美月って女のほうがまだ手がかりがある。そちらのほうを引き続き調べろ。ほかに変わったことねぇか。」
「今のところは。親父からの連絡もありません。」
「そうか。今夜は家にいるが、何かあれば、すぐ出られるようにしておく。」
「へい。どうぞ、カシラも大事になさってください。」
ああ、と言って電話を切った。はっ、と息を吐いた。気を張っていたが、確かにまだ身体中痣だらけである。痛み止めがジャケットのポケットにあったな、と思い出し、再び洗面台に戻る。待ち構えていたように、あの化粧臭い香りが体を包んだ。鼻をつまみながら、手帳と万年筆、財布と痛み止めを取り出し、今度こそそのジャケットをランドリーバッグに突っ込んだ。
十二月も一週間を終えた、翌朝は冬らしい寒空の日だった。風間を移送する、といったあと、シンジからの連絡はない。心配だが、こちらから連絡はできない。何せシンジは錦山組に潜入している。前線の兵士みたいなものだ。周りが敵だらけのなか、こちらからの着信をほかの人間に見られるわけにはいかなかった。
事務所にいても、時間だけがジリジリと経つ。テレビでは、東城会の内紛、と繰り返し、世良が殺害されてからの流れと、その昔起こった堂島や幹部の殺害事件をフリップでまとめられたものが放送されていた。訳知り顔の元刑事のコメンテーターが、どこどこの組のどういった不満をもった分子の遣り口だ、と自信ありげに語っている。もちろんその中に、風間組の名前もでていた。使えるVTRがないのだろう、神室町の現在の様子と、葬儀で桐生が暴れる望遠でとられた映像が、テロップを変え、何度も流されていた。天下一通りを見ても、いつもよりヤクザ風の男が多い。報道のヘリの音がしないだけマシだが、それでも、いつもより街全体が騒めいている。
夜になっても、事態はかわらないまま、行きつけの焼肉店から出前でとった冷麺をすすっていると、事務所に一本の電話があった。疲れた顔の子分がとったが、受話器に耳をつけた途端、顔色が変わった。こちらも顔をあげる。子機に転送したものを、子分がうやうやしく持ってきた。
「柏木のカシラ、大層なことになってるな。」
「花屋か。」
ようやっと待っていた知らせだと、箸を置き、姿勢を正す。
「桐生は…。」
「そのことだ。バタバタしちまって連絡が遅れたが、今、やつはバッティングセンターにいる。真島組に子供を攫われてな、取り返すために乗り込んでいった。」
「真島組…!?」
ハッとする。嶋野がついに真島をつかって動き出したのだ。
「子供ってのは?」
「聞いてないか? 美月という女の子供だ。百億のホシだと言われている。」
「そうか…。」
真島が言っていた、女の子、とはそういうことだったのか、と合点した。
「嶋野組のやつに、こちらの人間も撃たれた。今回、やっこさん、本気だな。」
「撃たれた? 本当か、大丈夫なのか。」
「ああ。腕だ。子供を奪われるときにな。幸い命に別状はねぇ。」
街で起こっていること、各組の動き、桐生と百億の少女が一緒にいること、世良の事件を担当する四課の伊達という男が桐生に協力していることを知らされた。
「…わかった、桐生にも気をつけろ、と言っておいてくれ。こちらは今は…動けねぇ。」
「わかってるさ。あんたが動けば、嶋野と風間のガチンコの抗争になる。それこそ何人人死にが出るかわからねぇ。ヤクザのいざこざに巻き込まれるのは御免だが、俺だってこの街の人間だ。この町への義理ってもんに免じて、今回はタダ働きさせてもらうさ。」
頼んだぞ、と言って電話を切った。子分が再び恭しい態度で受話器をこちらから受け取って席に戻っていった。
桐生のことは心配だが、それで風間組の組員を動かすわけにはいかなかった。世間的には、まだ桐生は親を殺し破門された身である。風間組が面とむかって手助けするわけにはいかない。
(真島を信じるほかはない…か。)
敵を信じるというのはおかしな話だが、桐生と親交があった彼のことだ。殺してまで、今回のことを進める気は真島にはなさそうだと思えた。それが嶋野の命令だったとしても、だ。
(昨日一昨日と、会えてよかったのかもしれない。)
会うというより、一方的に癇癪をぶつけられた、といったほうが正しかったが。それでも、真島が今回の百億の件が乗り気ではないことと、嶋野から少し距離を置きたいような雰囲気だけは見てとれた。
(それに、シンジが連絡とっているという話だったな…。)
シンジが桐生と頻繁に連絡をとっているということは、桐生に関しての大まかな指示は、以前から風間からシンジにむけて出されていると思って間違いないのだろう。こちらは心配だが、まずはお前は組のことをやれ、と言われているように思えた。
(ここは静観すべき時だ。)
我慢も勝負だ、と己に言い聞かせ、ソファに背を預け、腕を組む。
(東城会が探している美月という女、嶋野組が極道ではない者を銃撃してまで奪った子供…。)
道筋を考えるにも、情報が足りなかった。近江の人間までが、その百億を探している。実際、百億、とはそこまで血眼になって争う額ではない。数年あれば、こちらの金融資産でも賄える額である。
(きっと、その出どころや、無くなりかたが、おかしいのだろう。)
曰くつきの金を雇われのバーの女が持って逃げている、と情報が出るのも早かった。東都銀行が、東城会関連の金を預かっている、と警察に漏らすのも早すぎるように思えた。
(いや、果たして、東城会の組織のなかの金…なのか?)
どこか別の組織からの預かり金、という可能性もある。口座ではなく、貸金庫に現ナマをいれていた、というのもひっかかった。
(誰かが、一連のことをサツにリークしている気配がするな…。)
むしろ大事にすることによって、その情報に踊る人間が敵味方を見極めようとしている。そんな気がした。
(きっと発端が嶋野組ではないのだろう。だからこそ、嶋野は焦り、あれほどまでに激怒した。)
風間は今回どこまでわかっているのか、と思う。桐生の出所日にあわせて、彼らは会う算段をしていた。東城会を破門になっている者と、その若頭が会っていると話が出まわれば、事によってはまた問題がおこる。特に、世間的には堂島が死んで一番の利を得たのは風間組だといわれているのだ。アクシデントだと分かっているのはこちらだけで、まだ極道たちの間では、風間が桐生をつかって堂島を始末したのではないか、と疑っている人間もいるだろう。だからこそ、風間組は桐生を助けることは出来ない。極道には筋が重要なのだ。それが偏に信頼として返ってくるのだから。
(親父は、桐生を極道に戻そうとしないつもりだったんじゃないか…。)
錦山がああなってしまった今、この街から離れ堅気として生きていけ、と諭すつもりだったのではないかと思う。だからこそ、こちらの接見を控えろと厳しく言いつけたのだろうと思う。
(さすがに百億を桐生のための組立ち上げだなんだに使うってことはないだろうが…もしも桐生にやる、と言って、はいありがとうございますと素直に聞く奴じゃねぇからこそ、こうなってるのかもしれないがな。)
葬儀会場で、風間と桐生がどんな言葉を交わしたのはか分からない。自分ではなく、シンジを介在者として使用していることからして、風間の思惑は何かあるのだろうし、こちらが何かを言うべきではないとは思う。
(ただ、親父がああなってしまった今、桐生の行く先も不透明だ。)
そして何故か、渦中の少女と桐生が一緒にいる。風間が店を持たせてやった女、その女が奪った百億、殺された世良、残された子供。それを無茶な手段でさらった嶋野組。
(案外、世良の子供だったりしてな…。)
そこにあるのは、三代目のスキャンダルなのかもしれなかった。百億も、貸金庫から奪われたといわれているが、その契約名義人までは知らされていない。実際は、東城会のプール金ではなく、世良個人が作り上げた、なにか事件がらみの金、その相続の問題だったりするのかもしれなかった。
(ただ、どれだけあいつに女がいようと子供がいようと、女の子では嗣子にはなりえない。そして、政治利用するにも、あまりに小さすぎる。)
少女はまだ小学生らしい。組の名籍を継ぐために組長の娘と結婚、というのは世間にはある。だが東城会会長の座は昔から世襲のものではない。なのに、その子供をめぐって組同士が角をつきあわせる、というのは、やはり次期会長の座に関わる事柄がまだある、ということだ。
(やはりこの事件の真相ってのは、百億の奥に隠された、何か、なんだろう。)
すべてが繋がっているようで、まだその糸の先が見えない。ただどちらにしろ、東城会の会長の椅子争いと無縁の自分は、この事件でも端役なのだ。そう思うと、どれだけ痛みを押し殺して動こうとも、ヘマをして格が下げられることはあれども、これ以上地位が上がることはない現実が目の前に立ちはだかる。
風間組は温室育ち、と揶揄されたことがあった。誰に言われたのか忘れたが、その時、たしかに言いえて妙だ、とふと得心したのだ。相手はヤクザらしい振る舞いをしない、生っちょろい、という意味でおいて言った言葉なのかもしれなかったが、自分を取り巻く環境を見れば、そうだと妙に納得してしまった。神室町という金の砂塵舞う街の一角で、風間が作った温室なのかもしれない。ガラス天井に仕切られたなかで、皆日々をこなしている。一見風通しのよいように見えて、そこは風間の意にかなうものしか生きていない環境なのだ。特に芽をだし茎をのばし、上を見られる者にとってはつらいだろう。どれだけ頑張っても、それ以上は伸びられない。空は見えるが、頭打ちである。目に見えない天井が、そこにあるのだから。
(錦山も、それで出て行った。)
組を与えてやった錦山は、無事芽をだしすくすくと伸びていった。だが、ある程度までいって窮屈に思えたのだろう。そして、風間をという分厚いガラスの天井があることを知るのだ。ここから出なければ、本当の自分の自由はない。己の意思で生きてゆく本物の極道になれないと思ったのかもしれない。彼は今、育った温室を飛び出し、寒風に身を切っている。
こちらも、時々それを思うことはある。だがある歳までがむしゃらにその中で頑張った結果、巨木になりすぎ、根を張りすぎて、今更どこにも動けやしない。もはやこの温室の管理人のような姿にまでなっている始末だ。
今回のことも、親父の思惑通り、上手くやることが条件で、そこに与えられる評価は一緒だ。そう思うと、やるせない思いに、はぁ、と溜息がでる。だが、極道が親についてゆく、ということはそういうことだし、そこは考えても仕方ない、と思考を中断し、残りの冷麺をすするのだった。
* * *
バッティングセンター前、
『狂犬に首輪ついてちゃサマにならんやろ? せやからいい機会やし、アンタから卒業しようかとおもってな。』
電話でそう嶋野に啖呵をきった。これで以前の自分には戻れない。20年前のこと忘れたんか、と言われたが、忘れるわけがない。むしろ忘れたのは自分じゃないのか、と言いたかった。風間にだしぬかれ、近江との関係悪化の一端を担った。その地位を守れたのは、世良が見逃してくれたからではないのか。
携帯電話を切ってジャケットしまう。西田が横で蒼白な顔をしている。めちゃくちゃヤバいことになってませんか、というのに、
「ただの親子喧嘩や。」
と笑ってみせた。西田はほかの子分より、こちらの気分などはわかるほうだが、それでもこの鬱屈はわかりはしないだろう。ガキは用が済んだら解放や、家がどっか知らんから調べておけ、と命ずると、本当にいいんですかと西田がまだ慌てていたが、十年ぶりに娑婆にでてきた桐生とやりあえるなら百億のことなどどっちでもいい、と言うと、無理やり納得していた。
(桐生チャンと喧嘩する、まぁそれもあるけどな。)
それが分かりやすい理由だろう。誰にもこの気持ちなどわからない。説明などするつもりもない。
四十になって、いやでも身体のキレは落ちてくる。求めるべき動きも、超えるべき喧嘩の相手もいない。地位があがっていくにつれて、考えなければならないことも多くなる。しがらみが、人の思いが、滓のようにたまっていく。何もかも放り出して、誰も自分の知らないところに行きたくなる。しかし、それは自分の人生の選択肢にはあってはならないことだ。どれだけつまらなくても、この街にいなければならない。それがあの日の贖罪なのだから。
義兄弟が小さな塀のなかで囚われているのに比べれば、自分の境遇などなんてことはない。自分はこの街という大枠に自らを閉じ込めているだけで、日常に不自由があるわけではないのだ。親友にあれだけの仕打ちをしておいて、なお自らの人生における自由など考えるのは、あまりに恥知らずな行いだ。
しかし、頭でわかっていても、心が拒否しているのがよくわかっていた。あの日から、二十余年。徐々に彩度が減っていく街で、興味のあるものも尽きてくる。日々のぬぐえない苛立ちの原因が、そこにある気がする。最近、いやにこの街に飽きている。
(いや、生きることに飽きているというべきか。)
明日何をしよう、と思うのがもう嫌だった。これからまだ続くであろう長い余生、そこで成すべきことを考えるのが億劫だった。この憂鬱が死ぬまで続くのかと思っていた矢先、思いだしたのだ。喧嘩と同じくらい、いや、もっと凄い熱量の興奮があったことに。
柏木に香水をかけた、あの日。苦し気に息を吸う、その吐息にあの夜のことをまざまざと思い出した。手をだしてはいけないと思っていた。意識してはいけないと思っていた。思い出が美しいままなのは、こちらがその想いをあの時点で時を止めていたから。実際には止まっていなかった。この心も留まってはいなかった。彼は生きていて、手の届くところにいる。
(久しぶりに、本当に欲しいものを見つけた。)
ゴロ美の姿で出会ったあの時に、頭が動き出した気がした。放棄していた、考える、という行為にスイッチが入った感覚があった。
(どうせ思い通りにはならん人生や。ヘマして死ぬくらいやったら、最後は思い通りにやってやる。)
嶋野はこの事件で、自分というカードを切る。そして、今、それでも躊躇しているらしい嶋野に今が自分の使い時だと告げたのだ。
人間、生きている期限が限られると思うと、自棄気味な勇気が沸くものだ。そして、何が一番、己の希望していることか分かる、というのも皮肉なものだ。
(あの日に、似てるな。)
柏木に助けてもらったあの日も、先が見えない事件の真っただ中だった。街中がざわめいていて、様々な思惑の上で人々が踊っていた。
(果たして蜘蛛の糸は降りてくるか。)
柏木ともう一度ガチンコに対決することになるかもしれない。それまでに、一度でいいから、会いたかった。今度こそ、会えたら、伝える言葉を用意してある。下手をうって、柏木に蔑みの目で見られるかもしれない。だが、それでもいい気がする。ついにそこまで狂ったか、といわれるなら、それも本望だ。
(老いてどうにもならん姿になるくらいなら、今が死に時なんかもしれん。)
そう考えると、ふと楽しくなって、あがる頬を撫でた。その時。
「親父、中の人払いが済みました。」
無人のバッティングセンター、舞台は整った。
目覚めたての視界に見えたのは、凹凸のある灰色の天井。窓から差し込む光。鳥の声が聞こえる。起きようとして、走った痛みに腹を押さえた。ガーゼが幾重にも重ねて患部に貼られてある。
(そうか、坂井に刺されたんやったか。)
桐生とやりあってのされたあと、ナイフを取り出した子分から桐生をかばった。救急車で運ばれる間も、意識はあった。スキンヘッドにした子分が、小さな目を何度もしばたかせて、親父すんません親父大丈夫ですかとずっと泣きそうな声で言っていたのを覚えている。
(まぁちょっと油断したっちゅうことかのぅ。)
バッティングセンターに乗り込んできた桐生は、子供の名前を叫んでいた。少女は桐生の縁者か、大事な子なのだろう。桐生の体から見たことのないような殺気がでていた。道端で会った桐生はやはり本気ではなかったということだ。少し嬉しくなった。
(あのあと、どうなったんやろか。)
子供は無事に桐生に引き取られたのだろうか。風間組の養護施設の出の子供だと聞かされていた。はたして、あの少女は、誰か帰ってくることを待ってくれる者がいる子供なんだろうか、とふと思った。
「親父…親父っ、あっ、目覚められましたか?!」
水を替えに行っていたらしい西田が、引き戸からそそくさと病室に入ってきた。ここのところ、いつも焦ったような顔をしているから面白い。心配そうな西田が、こちらが麻酔で眠っている間、嶋野から電話があったと伝えた。
「親父が刺されたことは言うてあります、そうか、と嶋野の親父は言ってましたが…。」
嶋野組全組員に、再び少女を捕まえろ、と命令がくだったようだ。桐生の死体つきなら、なおよし、とのこと、と西田が言いにくそうに事伝えた。
(桐生相手に使えるコマは限られとる、ということか。)
他の組が失敗したのだろう。昨日あれだけ反抗したというのに、まだこちらを頼るということは、嶋野組にそれだけ人材がいないということだ。トップダウンの弊害か、後進の人材が育っていない。嶋野もそれがわかっているから、自分を好きにさせていたのかもしれない。
自分は、もしかしたら嶋野にも、一目置かれる存在だったのか?と自問する。
(親父にとって、なんや価値のある人間やった…のかもしれんな。)
今頃、それをわかってもな、と思う。
「…ほんま、つまらんのぅ。」
ついそう零していた。腹の傷を撫でる。うまく縫い合わされているようで、ガーゼのはられたそこには、もう血がでていなかった。わりと、ぐっさりとナイフが刺さった感覚はあったのだが。自分の生来の身体の強さが、良くも悪くも働いているな、と苦笑する。何時だと思い、時計を見る。まだ朝の十時前。
(こんな時間に起きたの何年ぶりやろか。)
そう思いつつ、清潔なシーツにくるまる。西田が、何か食べ物買ってきましょうか、というのに、あんぱん、と言って目をつぶる。へぃ、と言って出てゆく足音を聞いて、目をあけると、テーブルには抗生物質と痛み止めが処方されていた。内臓は傷つかなかったのかもしれない。不幸中の幸いか。医師の回診が終われば、わりと早くに退院できるかな、と思いながら、手招くような眠気に瞼を閉じた。
つづく