さなぎのつづき5.5西公園が燃えて、花屋と連絡がつかなくなった。緊急車両のサイレンが落ち着いたと見た頃、様子を見に、事務所を出た。
(これは、本降りかな…。)
宵の口にぽつぽつときていた雨脚が強くなっている、傘をさし西公園へむかう。
西公園の中には、久しぶりに入る。この周辺は嶋野組の取り分のシマも多いため、極力近づかないようにしていた。真島組の事務所があるのも、このあたりであった。相変わらず、日本のものとも思えぬ悪臭が鼻をついた。それに混じり、プラスチックの燃えた化学薬品のような臭いがした。ブルーシートで作られた家も、損傷が見えた。だいぶと酷くやられたようだ。ここいらにいるのは、ただのホームレスではない。元極道や犯罪者、戸籍を持たぬものなど、あの神室町にすら居場所がない人間がここにはいる。普通の極道すら近づかない、といわれているが、地下のシステム含め、ここは日侠連のシマであった。ここに逃げて来る人間をスカウトし、世良はヒットマンに仕立てていた。下手をうち、殺されても誰も文句の言われない人間を見つけるには、うってつけの穴場だった。
ここは成立こそ違うものの、長らく日侠連の持ち場であったため、警察も介入できず、ギャングやチーマーもそうそう悪さはできなかったのだが。世良が死んだことで、ここにも穴が出来たのだと思わされた。
こちらの姿が見えたのが部下から連絡がいったのか、花屋がブルーシートに囲まれたテントの中より出てきた。
「柏木の旦那。」
「花屋、無事だったか。」
一緒に賽の河原におりる。地下の通路を、二人で設備を見渡しながら歩いた。
「これまた、ひどくやられたな…。」
遊郭風に作られた地下の廊下、そこの派手な照明も落ちていた。非常電源だけは生き残っていたのか、誘導灯はついている。空調も効いていないのか、空気が淀んでいた。排水も生きていないのかもしれない。女の姦しい声もしない。すべてがシンと静まり返っている。ところどころ緑の非常灯がともっている。花屋は、珍しく意気消沈したように、はぁっとため息をついた。
「派手にやられた。システムが落ちちまって、協力できねぇ。」
「死人は?」
「それはないがな、電気系統の設備を焼かれっちまってな…。」
ギャングども、こちらの弱点をわかってやりやがった、と花屋は託つ。
「そうか。だが、人が無事なら、なんとかなるだろう。復旧は?」
「まだどれくらいの被害かもわかっていないんだが、暫くかかりそうだ。」
「そうか…。」
「風間は?」
「………。」
「そうか。」
花屋は元警官で、街の情報屋をやっていたが、その手腕を買い、風間がスカウトした。その道で有名な男であったので、顔は知っていたし、情報を買うこともあった。そんな裏で有名な男が一年ほど姿を消した。そして次に会ったのが、この賽の河原だった。地下で初めて会った時に、彼は言ったのだ。
『見事な栄転だって思ったろう? 実際は、ここに閉じ込められた虜囚だよ。』
と。あの男を見て、俺は心底極道ってのが嫌いになった、とも。あの男とは、風間のことか、世良のことだろう。柏木の旦那に言うこっちゃないかもしれないがな、と苦笑していたが、愚痴の一つも溢したくなったのかもしれない。どんな手をつかって、彼をここの管理人に迎えたのかはしらない。妻子を人質にとったのかもしれない。日侠連ならお手のものだろう。世良には、かなりの協力を惜しまず今までこさされたのかもしれないと思う。
(風間の親父がいなくなれば…彼も自由になれる人間なのかもしれない。)
そう思いながら、奥の花屋の仕事場に入る。薄暗い部屋。巨大な水槽のなかで、何かがうごめいているのを横目に、さらに地下に降りた。ディスプレイがすべて真っ黒で、非常用電灯だけがオレンジ色の光をはなっている。
「桐生と連絡は?」
「俺は直接話しはしていないが、足取りは分かっている。大丈夫だ。」
「そうか。今、ほしい情報は?」
「いや、あんたらが無事か確認しに来ただけだ。」
は?と花屋が目を点にしている。それが面白く、唇を片方あげてから、
「スターダストで発砲事件があった件だ。」
と言い直してみせた。こちらのらしくない軽口に、花屋は一瞬、何があった、というような顔をしてみたものの、椅子に腰かけなおし、ああ、あれか…と机の上のノートパソコンを操作した。
「情報料は今日のところはツケといてくれ。」
「ふっ、さっきの心意気に免じて、タダで教えてやるよ。」
肩をすくめて笑われた。花屋が画面に、一つの代紋のような画像を呼び出す。
「まだ確証はとれちゃいねぇが、これがスターダストに落ちていた。発砲したのは政府の地下組織のやつらだろう。」
「政府? サツや公安ではなく?」
「ああ。この代紋のような、議員バッジみたいなものを、あの場からこちらに刑事の男が持ってきた。そんなやつらが何故、遥を狙うのか、と。」
「はるか?」
「ああ、桐生と一緒にいた少女の名前だ。真島組がさらった。どうも嶋野組や錦山組も、遥がもっているペンダントがほしいようだ。」
「ペンダント?」
「ああ。ペンダント、といっても、なんだ、ネックレス状になっているだけで、その先についてるロケットの部分というのか、それがコンパクト、手鏡のサイズくらいある。」
「コンパクト、ってあれか、化粧品の?」
「ああ、ファンデーション塗りなおすやつだ、あれくらいのサイズだった。」
実際に見せてもらったわけじゃなく、映像だけだが、大人の手のひらサイズのものだった、という。
「鍵がついていて、なかに何か入ってるようだった。」
「中身はなんだ?」
「見えてねぇもんまで推測できるほど、さすがのこの花屋としても…ってところだな。しかし、それをどうもその政府組織の連中ってやつまでが狙っているってのが厄介だ。」
「桐生も、それを知っているのか?」
「そりゃあもう。桐生が殴りたおして、追い払ったんだからな。」
「はぁ…あいつはまた…無茶してるな…。」
そうだな、と花屋は笑う。
「じゃあ、そのペンダントの中に入っている情報が、政府の機密情報に関係あるかもしれないのか。」
「それを調べている途中でまぁ、こうなっちまったわけでな。」
電源の落ちた黒い画面を花屋がいまいましそうに見つめる。
「刑事、って桐生と一緒に行動してるというやつか?」
「ああ。俺の昔の知り合いでもあった、伊達ってやつだ。」
因果なもんだぜ、というのに、そうか、と頷く。奇しくも、皆の様々な過去が絡んでいる事件となっている様相だ。
「だいたいのことは分かった。また、何かあれば聞きに来る。」
「おう。」
「桐生のこと、宜しく頼む。」
花屋は、いわれなくとも、と唇をあげてみせた。あいかわらず桐生には甘い、と思われたのかもしれない。
「こっちも全力で復旧にかかる。何かわかれば連絡する。」
「ああ。」
花屋をモニタルームに残し、上にあがった。照明に照らされていない作り物の桜の花は、いつもより安物に見える。照明が落ちてしまった地下街は、この花街全体が幻想から解けたように、モルタル作りの安っぽい造りに見えた。
(花屋が、風間は、と聞いたということは、ここの情報網にもひっかかっていない、ということだ。おそらくシンジもまだ神室町に帰ってきていない。)
風間は神室町以外のところにいて、下手をすれば、容態が悪く、まだ横浜かどこかの病院に入院中なのかもしれない。
(まるで、17年前のあの日のようだ。)
自分は、ただただ指示を待つのみ。カラの一坪の事件、それも、結局は自分の預かり知らないところで、事件の本流は動いてた。あの時は自分がまだ若かったから、若頭について間もない頃だったから、そういった扱いをとられたのかもしれない、と諦めていた。正直言うと腕っぷしには自信があった、まだ二十代の暴れたい盛りだったし、それをぐっと圧して若頭という中間管理職をやっていたのだ。だが、今はどうか。風間組の金代紋、それを守って幾余年。ただの駒ではなく、戦局を見渡せるところに居てもいいのではないか、と思うのだが、今回も事件は自分の預かりしらないところで動いている。
(いつまでたっても、役者じゃねぇ、って言われてる気分だ。)
風間からは裏にかまけず、表の仕事を精一杯やれ、と言われている気がした。ここまで街がごったがえしている時に、自分に声がかからない。良いようにとれば、皆が倒れてしまったときに、お前だけは生き残れ、と言われているような気もした。風間は将来、表の看板を自分に継がせるつもりなんだろう、という気はしている。
(だが、今回も全てがうまく運んでしまえば?)
風間が八十になって、自分は六十をすぎて、それでも自分はいつまでも、二番手だ。
(錦山が四十を手前にして、動き出した気持ちがわかる。)
運命を変えるに、もうこれが最後の分岐点、という歳がある。四十は不惑だ。それは惑わない、というのではなく、もう自分に残されたルートは今歩んできた道しか残されていない、という惑えない、という状態なのだ。敵を褒めるつもりはないが、いつまでも、誰かが自分に何かをもたらしてくれると期待していたような、少し甘いところのあった錦山が、よくここまで自立し、自らの褌で勝負をとりにいったものだ、と思った。
(やはり、ネックは桐生なんだろう。)
錦山のかわりに桐生が出頭したらしい、ということは、事件後だいぶと経ってから風間から聞かされた。だが、それは誰にも言ってはいけないことであったから、知る者は極々少ない。極道は人を殺せてなんぼ、のところがある。桐生は、それを自らの手を汚さずにその評価を得てしまったのだ。それがたとえ親殺し、という汚名だったとしても、箔があるなし、でいえば、錦山より桐生のほうが断然箔がついていた。
比べられるものがあるのは幸せなことだろう。一人で、何もないところをひたすら遠い目標にむかって走ってきた自分だから、そう思えてしまう。比べられて育てられるほうは、酷くしんどい話、なのかもしれないが。
(きっとこのヤマは、錦山の描いた図だ。)
そのなかに、焦った嶋野と、そして漁夫の利を得ようとする近江が絡んでいる。錦山とて、東城会すべての人間を敵にまわして、次の跡目になったとしても、そんな焼野原から組織を再建するのは難しいくらいはわかっているだろう。だから、相手からすれば敵は世良と風間なのだった。チェスでいう、キングとクイーンをとれば勝ち、という戦を仕掛けられている。錦山からすれば、そのなかの敵将ですら自分はないのだ。侮られているな、とも思う。自分はつくづく保険のようなものなんだろう、と。
(ポーンは、まだ“成れる”。自分には、その可能性すら残されていない。)
そんなやるせない気分で、電気のついていない地下道をぬけ、階段をあがる。雨がやんでいた。月がでている。辺りには、まだ焦げ臭い匂いが漂っていた。ホームレスが後片付けをしている。止まった噴水の水面に、街灯の光が反射している。木々の影で、全体的に青く見えた。そんな青い地面に、独り立つ人物がいた。黒い服を着た背の高い男。雲がはれ、月の光が差し込んだ。
「……?」
青い影に沈んでいた男の姿が見えた。タキシードの男だ。手に、能面を持っている。目を凝らす。般若らしきその顔。振り返る、その眼帯。幽鬼の類かとおもった。青白い面長の顔、伏目がちなその瞳。
(真島…。)
しかもそれは、記憶の中の、彼に近かった。思わず後ろを振り返った。先ほどまで自分がいたのは、賽の河原。薄暗い地下道から抜けた、ここは、その先なのか。眼前の水たまりは、三途の川の水なのかもしれない。
(まさか…本当にいなくなった男に会える、だなんてな。)
思わず歩き出していた。おとぎ話も怪談も、三途の川も、その先の地獄があるとも信じていない。死ねば人は骨になるだけだ。魂も生まれ変わりもなにもない。肉体は滅びれば、それまでだ。
(けれど、あいつは…。)
一旦死ぬのだ、と言っていた。けれど、もしかしたら、と思い、目の前の水たまりを渡った。真島がこちらに気づく。こちらを視界におさめ、驚いたような顔をしてから、目を細めた。噴水の横。1メートルほど離れたところで、真島と向かい合う。
「未練があって、化けてでてきてしもうた。」
くすっと笑う。髪の毛は短い、いつもの彼だ。だが、とてもその雰囲気が儚げだった。
「覚えとる?」
ジャケットの襟をはらう。光沢のある黒。月の光に照らされて、青白く光っている。くらくらする。あの日の朝、別れてしまった彼が、いる。
「てっきり…成仏したのかと思ったがな。」
乾いた口をなんとか動かして、そう言った。真島は、ハッとしたように、目を見開いた。
「ほんまに、覚えてるんか…!」
「…ああ、俺の前からいなくなった男だ。」
真島は、表情を変えた。一瞬のうちに、様々な表情がその顔に上り、消えた。その瞳が揺らいだ気さえした。唇を開き、声をだしかけて、首を振った。
「また、今度…。ちゃんと落ち着いたら、話聞いてや。」
真島はそう言って、ふっと微笑んだ。今ではだめか、と言いかけたその時、
「じゃあな!」
そう言って、真島は足早にその場を立ち去った。
「…………。」
追いかけることはできなかった。まるで月の光に影を縫い留められたように、その場から動けなかった。
(真島…ッ!)
胸のなかでだけ、力の限り叫んだ。実際は、開いた唇に、冷たい息を飲み込んで、咳き込みそうになっただけだ。胸が痛む。物理的な痛みなのか、それとも別のものなのか、もうわからなかった。目頭が熱い。
(あいつだ…ずっと探していた、なんて…今頃気づいても、遅いな…。)
あの日から、今日まで幾日あったというのだ。手を伸ばせば、手が届くところに、いたのかもしれない。それをしなかった、その後悔。十余年、逃げ続けてきた想いに、胸が押しつぶされそうだった。
***
義兄弟を一人で行かせてしまった日、目を潰された倉庫の暗さ、穴倉でのこと、その後の事件、盲目の少女の悲鳴、自分をかばうように銃撃された人間が目の前で倒れる…堰切って洪水のように蘇る記憶。
「…っ……。」
ただひたすら、過去のフラッシュバックする映像に耐えた。時々、こうなる。一旦この状態になれば、目を閉じ嵐が行き過ぎるのを待つしかないのだ。
(最近は…なくなってたんやけどな。)
暫くして、視界にようやっと現実の世界が見えた。雨はやんでいる。神室町の高層ビルがシルエットのようにそびえ立っている。木々が風に揺れ、時折、ざっと雨粒が落ちる音がする。
「………。」
あまり吸ってもいなかったタバコをそこに落とし、足で踏み消した。ズボンが湿気て尻まで冷たかった。般若の仮面をとり、立ち上がる。目を伏せ首を振った。立ち眩みなどはないことを確認して、目を開ける。木々のざわめきに、ふと振り返る。そこに居た人物を観とめて、目を見開いた。
「………。」
見間違いかと、目を凝らした。柏木修が、アスファルトに鈍く光る水たまりを渡って、こちらに一歩近づいてくる。スローモーションのように、その光景を見ていた。青い視界のなか、訝し気、といっていい微妙な表情をしている柏木に向き直る。
「未練があって、化けてでてきてしもうた。」
何故お前が、といった表情を見てクスリと笑う。奇しくも、こちらの格好はあの日のそれに近い。
「覚えとる?」
ジャケットの襟をはらってみせる。柏木の視線がこちらを上から下まで不躾に見つめた。その視線が心地よい。月の光に照らされて、青白く見える柏木の白目。虹彩の狭い鋭い目。あの日の朝、別れてしまった彼が、いる。
「てっきり…成仏したのかと思ったがな。」
聞こえた言葉に、ハッとした。聞き間違えじゃないのか、と聞き返す。
「ほんまに、覚えてるんか…!」
「…ああ、俺の前からいなくなった男だ。」
その言葉は、ずっと夢見て待っていた言葉。あの日と今日が、一瞬のうちに、一本の道で結ばれた。
(探してた…!)
唇を開き、声をだしかけて、いけない、と首を振った。今はきっと、柏木の取り巻く状況がそれを許さない。
「また、今度…。ちゃんと落ち着いたら、話聞いてや。」
自然に口角があがっていた。柏木が何かを聞きたそうに口を開いた。
(今、事件のことなど聞きたくない。)
ごめんな、と思いながらも、
「じゃあな!」
そう言って、勢いよく踵を返した。舞い上がりそうな鼓動、そのテンションで駆け出した。
薄暗い公園を駆けながらも、思考はとどまることを知らなかった。ぐしゃぐしゃなまとまらない事柄が、一つになっていく感覚。一つの道が見え始める感覚。これだ、と思った。
(やっぱり、何をどう考えても、あの人が大事や。)
いろいろ天秤にかけることはある。けれども、あの人の顔を見ると、すべてがどうでもよくなってしまう。
(この街で起こっていること、全部投げ出して、あの人とどこかへ行けたら…。)
情けをかけてもらったあの夜。自分が真島吾朗じゃなければ、あの人と、あの先、どうにかなっていたかもしれない、と繰り返し思った。
(きっとあの人は、自分が真島吾朗でなくとも、助けていただろうから。)
自分の名に付きまとう、良いことも悪いことも、利用出来る出来ない、なにも関係なく、柏木なら、自分に手を伸ばしていただろう。そう思うのは、贔屓目すぎるだろうか。
西公園を出た。神室町の雑踏のなかに戻ると、先ほどの一瞬は、幻ではないか?と妙なことを思うに至った。人の騒めきが一気に近くなる。四つ角にパトカーの赤色灯が光る。極道者が、辻に立ち、ホームレスを掴まえては情報収集をしていた。
その喧騒に、まとまりかけていた思考が一気にまたバラバラになってしまった。日常が迫りくる。考える余裕もない。チッと舌打ちし、事務所に戻ろうとすると、ビルの前に西田が立っていた。こちらを見つけるなり、オヤジ!と悲鳴のような声をあげた。
「なんや、その顔…。」
「嶋野の親父がいらしてます…!」
なんやて、と言う声にもならなかった。
(今、どうして…いや、今だからなのか…。)
事務所におられます、と言われ、急いで階段を上がる。西田が先行し、事務所の扉を開いた。組長室ではなく、応接セットのある黒色のソファに、嶋野は腰かけていた。
「親父…。」
「おう、そないな恰好で何してんねん。」
頭を下げると、振り返った嶋野のご機嫌な声が聞こえた。子分が息をひそめ、壁の端に整列している。
「お待たせしとります。いつ、おいでに?」
ソファの前で中腰に屈むと、そんなことはええんや、と手にした扇子をぱちり、と鳴らし嶋野は立ち上がった。
「真島ぁ、今回の戦、お前が大将首やで。」
ざわっと事務所のなかの気配が揺らいだ。誰も声は発していないが、動揺が広がったのがわかる。疑問や不満、様々なそれを顔にはださず、聞く。
「俺ですか。敵は?」
「わかっとるやろ。」
「桐生…ですか?」
「ちゃうわ、アホぅ。風間組や。」
飛んでくるかと思った拳は飛んでこず、ご機嫌な大音声が事務所に響きわたった。風間組、という言葉に、ぴくり、と頬がひきつる。それを目ざとく見とめたように、嶋野はゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「欲しいもんは手に入った。準備は、整った、っちゅうわけや。」
「さようですか。出陣は、いつで?」
「今日明日にも連絡がくる。桐生にちょっかいかけとらんで、ここにおっとけ。」
「へぃ。」
素直に頭を下げた自分を見た嶋野は、よしよし、というように、こちらの肩を叩いてから出口へと向かった。子分が慌てて、ドアを開ける。巨体がゆっくりと去ってゆく、その悠然とした姿を、頭を下げて見送った。
「そや、真島ぁ。」
嶋野が出口で振り返った。その少し下がった声に、ぴくり、と肩が震えた。
「お前ぇ、若頭やる気ぃあるか。」
「…はい。」
「そうか。」
そうか、そうか、と嶋野は上機嫌で、事務所を出ていった。まだ事務所の空気が揺れている気がする。子分たちも、何も言えず、動きもできず、閉じられたドアを見つめている。
(仕掛けた策の算段が整ったっちゅうわけか…。)
こちらも眇めでもって、その扉を見た。その表情に気づいた西田が、お、オヤジ…とおずおずと声をかけてきた。
「まぁ…近々はじまる戦争の準備、しとけっちゅうことやな。」
何人ぐらい、集められる?と西田に聞くと、調べます、と電話帳を見に行った。他の子分たちにも、倉庫から武器弾丸の類を運ばせるよう指示をだした。いつでも動けるようにしとけよ、と言い残し、組長室に入る。
電気もつけず、暗いままのそこ。窓から入る街の光を頼りに、椅子に腰かけ、はぁっと息を吐く。
(大将首…か。おのれは何やっとんねん、と。)
嶋野はその場に行かないつもりなのだろうか。彼の頭には、いくつもの戦場があり、いくつもの駒がそこに配置されているのだろう。今回違う場所で同時におこる戦もあるのかもしれない。自分はそちらに行く、ということなのかもしれない。
(結局、俺はなにもわからん駒か。)
戦の褒美は、東城会若頭の座なのだろう。
「そんなもん、欲しないわ。」
口に出して言った。がらんとした部屋に、誰にも受け取って貰えなかった声が消える。背もたれに深くもたれて、腕を組んだ。
「………。」
先ほど無理やり脳内に再生された映像の一つに、奇妙なものがある。それは、瞳を失った日のこと。あの倉庫のような場所で監禁されていた時のことだった。
あの日、倉庫の柱に縛りつけられた自分は、痛みと疲労に朦朧としていた。気を失えればよかったのだが、身体が強いことが災いしたのか、精神が昂っていたからか、ずっと義兄弟の名前を呻きながら居た。数時間なのか、数分経ったあとなのかわからない。雨の音が聞こえる、と思った時、目の前の鉄の扉が開いて、うっすらと夕暮れの光が見えた。嶋野の叔父貴、と自分を監視していた柴田組の男が言った。次に聞こえたのは銃声。こちらの左目にナイフを刺したやつが、足元に倒れ伏していた。だるくて頭をあげられなかった。おう、と嶋野らしき声が聞こえて、数人の男たちに鎖をはずされた。地面に墜落する、と思った、その瞬間に、太い腕が自分を抱き留めた。
(そっから気づいたら穴倉や。)
現実かどうかはわからなかった。映像はいやに鮮やかにフラッシュバックするけれども、自分がそう思いたいから見た夢なのかもしれない、とも思う。だが、親に反発心が芽生えると決まって、それが脳裏によぎる。この首輪をちぎって、自由に…と思うたびに、あの大きな体躯が自分を抱きとめる。思いとどまれ、と自分に言い聞かせるように、その思い出は甦るのだ。
『可愛い子には旅をさせよ、や。』
何度もなんども、その言葉の真意を探ろうとして、思考が行き止まり、疲れて止めるのだった。
(親父、俺は何なんですか。)
本当に、可愛い子分なのか、ただの使える駒なのか、いざという時の捨て牌なのか、それ以外のなにかなのか。
昔から、どれだけ反抗しようと、実際に嶋野の目の前に向かい合うと、背筋が伸びた。あの黒い眼で見つめられると、全ての思考が読み取られる気がした。こちらの色々をすべてわかったうえで、好きにさせている、そんな気もした。
「考えても、わからん…よなぁ。」
ぽつり、と零した呟きが窓から入る、夜の雑音に消えていく。せっかく柏木と会って、テンションがあがっていたのに。蜘蛛の糸は切れていないと、それを掴んで空にも上る気持ちだったのに。自分の片足には、強固な鎖がついていることを思い出したようだった。はぁぁ、と深くため息をつく。
(ほんまに、あんたと殺し合いするんか…?)
この事件が始まって以来、何度も頭をかすめては、見ないようにしていた可能性。いざとなれば柏木は、風間を守り、こちらに銃口を突き付ける。なにがあっても、柏木は風間から離反しないだろう。その銃口をこちらにむけられた時、自分は、どうするのか。
(親父に逆らえるのか? 逆らったとしても、その先は?)
親を裏切ってまで自分が王様になりたい気持ちなど、まったくない。
「どうしたらええ…柏木さん?」
誰も答えてくれない、その言葉が、師走の冷えた空気に響いて、消えた。
つづく