さなぎのつづき8(終)ずっと見るだけになっていた。この街に沿うように姿を変えていったあの人を。
昔から、あの人を知っている、誰も知らないだろうあの人を知っている、その優越感だけで見るだけになっていた。
人も物も世界も変わっていってしまうけれど、彼の匂い。男っぽいヤニの混じった香り。それを纏うあの人の中身は、何も変わっていなかった。
ずっと昔に自分に情けをかけてくれた、その男らしさのまま自分を探していてくれた。その優しさにもう一度触れることができた。その記憶があるうちは、死んでも幸せな気がする。
事務所に戻ってきた。子分たちが固唾を飲んでこちらの動きを見ている。
組長室で着替えた。経口の痛み止めが効いていない。引き出しから注射器を取り出す。とっておきのモルヒネを打った。
「…………。」
はっ、と息をつく。これで腹部の痛みも和らぎ、少しはシャキッとするだろう。顔を張って、組長室を出る。
普段ヘラヘラとしている子分も、スーツに着替え、皆引き締まった顔をしている。真島組は少ない所帯だ、下部組織の若衆かき集めても二十名足らずだ。西田が、準備はできています、と中腰で頭を下げた。
「嶋野組の組員たちも周辺に待機しているようです。」
「号令は?」
「親父の突入が合図だと。」
そうか、とニヤリと笑う。
「いっちょ、派手にいったろうやないか!」
ピンクのデコトラに乗り込む。驚くほど、体が軽い。効いてきたようだ、と思う。目指すは桃源郷だ。
(最終決戦の地は、桃源郷、か。)
世俗を離れた実際には存在しない場所。この世の憂さを晴らす場所としては気の利いた名前だ。
(おあつらえ向きの場所やないか。)
身体は相変わらず熱い。敵地には風間がいる。もしかしたら、桐生や、そして柏木もいるかもしれない。
(ごめんな、柏木さん。)
結局、どんなに大事なことに気づいても、巻き戻せる時間もなく、愚かな自分は進むことしかできないのだ。極道らしく華々しく、戦の真っただ中で、自分の死にざまをみせつけてやろうと思う。柏木もきっとそのつもりなんだろう。潔い男なんだろう、と思う。戦いで果てるならば、文句は言わないだろう。それが分かっただけでもいい。
(どっちが勝っても負けても…恨みっこなしやで。)
死力を尽くしたその先にあるのは、きっと互いの親父の天下、なのだろう。自分たちは所詮は駒だ。始めからその為に作られ、その為に生かされていた、と思うと気が楽になる。自分が主体的に生きて報われようと頑張るから、しんどいのだ。
(自分は人生の主人公ではない、何も成し遂げなくていい。)
何一つ、名を残さずとも良いと、逆にそう考えると気が楽になった。ギアをいれる。アクセルを踏む。神室町の街が見えてきた。
「イイ音、聞かせろや…!!」
祝福もされずに生まれてきた人生。物語に登場させられた端役の役目をまっとうするのだ。
***
ずっと見るだけになっていた。この街のシンボルのように姿を変えてきたあいつを。
昔から、あいつを知っている、誰も知らないだろうあいつを知っている、その優越感だけで見るだけになっていた。
人も物も世界も変わっていってしまうが、あいつの中の芯の部分は変わりはしなかった。自分が心底惚れたその部分は変わってはいなかった。
あいつの叫び声に似た、香水の香り。花のようなそれ。手帳に刻まれた、この香りが消えないうちに、今度こそ迎えにいこう、と決意する。
待機中のトラックのなかで、注射器を取り出した。局所麻酔のノヴァカインを胸元に打つ。
「カシラ、そんなきつい薬を…。」
「風間の親父の呼び出しだ、しかたねぇだろう。」
「しかし…。」
「ここで気合いれねぇでいついれるんだ。」
ドアの外に立っていた子分が、はっ、と頭を下げる。針をビニルで覆うようにして屑籠にいれる。
「相手は嶋野組の奴らと聞いているが、敵はそれだけじゃないかもしれない。」
右肩を回す。胸部の骨折の圧迫感が、肘辺りまで痛みとして伝わっていたが、即効性の痛み止めのおかげか、動きもスムーズだ。こちらの殺気が伝わったのか、助手席の子分が心配そうにこちらを見た。
「親父だって、それはきっと考えているはずだ。若いのを犠牲にしてまで生き残るべき歳じぇねえってな。」
声が聞こえたらしい子分が、こちらを振り返った。
「そうだろう。あの人だって、六十だ。」
動揺があったが、そうかもしれない、という顔が組員にやどる。きっと風間は、己の信念に殉じろと命ずると思う。けれども、分かったうえで、自分はこう言うのだ。
「もし、危なくなったら退けよ。お前たち、生きてこその物種だ。」
へいっ、と声を大にして組員は頷いた。
(これで子分たちは、積極的に打っては出ない。)
この詭弁を信じてくれるだろう、と思った。今まで真面目に生きてきた、そのポイントの使い時だろうから。言葉を重ねる。
「一を助ける為に二の犠牲は払うな、命に重さなんざ比べようがねぇ。いいな。」
へい、と子分は頷く。さぁ行こう、と気合を入れる。後ろに乗り込む子分たちを見終えてから、こちらも満身創痍で、トラックに乗り込む。目指すは芝浦だ。
(風間がいて、嶋野がいて、錦山がいて、近江もいて…真島もそこにいれば、自分はとるべき行動はわかっている。)
ジャケットの内ポケット、腰にも拳銃。弾は二ダースの予備もある。防弾チョッキも着込んだ。海に面した埠頭、コンテナの積まれた背後に気をつければ、ほかに高い建物はない。狙撃の可能性も少ないだろう。最後まで生き残ったものが勝ちというのなら。
(潔く死んでなどやるものか。)
風間が持つ物が何であれ、それをこちらが得られれば、この戦、勝ちなのだろう。ならば、それを先に手にするまでだ。まず嶋野に会えればいいな、と思う。そこに風間もいれば、なおさら都合が良い。その戦場に真島がくるのなら、目の前で、親二人を殺すこともやぶさかではないな、と思う。その先はきっとどうにでもなるだろう。抗争の末の、と偽証させることもできる。
(自分にはその手を打てる、自信はある。)
それが今までこの街で真面目に生きてきた、信頼というものだから。
「いくぞ、お前ら!」
鍵をまわし、イグニッションを点火する。アクセルを踏む。すべて終わらせた時、その屍を超えてでも、自分は生き残るのだ。
(待ってろよ、真島。)
お前が膝をつく前にこの事件を終わらせる。たとえ、この物語の端役であっても、親たちが脳内で描く絵図の取るに足りない駒であったとしても。
(この人生は、自分が主人公。)
そういう感覚をこの時初めて感じたのだった。
芝浦埠頭。風間組と嶋野組が入り乱れて殴り合いをするなか、風間を守るようにして戦っていた。風間はぬかりない男だった。寺田やそのとりまきは、風間と遥という少女を守るようにして立っている。
(何者かわからないが、余程大事な子らしいな…。)
近江の寺田、という人間が、静かな殺気をにじませながら風間の横に侍っている。おそらくはヒットマン家業の人間だ。嶋野は桐生に気をとられているようだった。それを横目で見ながら、殴りかかってきた男の腕を掴み投げとばす。真島が応援にくるか、と思ったが来なかった。ここに来る途中で、トレーラーがビルに突入し、神室町で爆発騒ぎが起こっている、と報道されていた。真島の戦場はそちらなのかもしれない。
(ここは早く切り上げるべきだな…。)
気がそれたところを、鉄パイプで殴りかかられる。咄嗟にそれを腕でガードした。
「…っ!」
めきり、と嫌な音が鳴った。骨をいかれたかもしれない。切っ先が顔を掠めた。血が飛んだ。相手の顔を殴り飛ばす。ついでに横にいたやつの腹を蹴とばした。
「…チッ。」
舌打ちし、額横の傷を撫でた。切れた箇所から流血している。それを拭って、地に伏した男に歩み寄る。鉄パイプの男が起き上がってくる。その肩を掴み立たせた。その胸倉を掴み、思いっきり米神を殴り飛ばした。ぐっ、という呻きが聞こえた。パイプがコンクリートを転がり、カラカラと大きな音を立てた。その音に気付いたように、嶋野組の奴らがこちらに殺気をむけた。ふつふつと昔の血が騒ぐ。気絶した男を地べたに放り投げ、先ほど放り投げた男のほうに近づいた。両手を地面につく、その男の目に恐怖がある。
「………。」
躊躇することなく、その顔を思いっきり膝で蹴り上げた。ぐしゃり、と血が飛ぶ。呻きもあげなかった男を放り捨て、乱闘の中に一歩進み出る。チラリ、と一瞬、桐生がこちらを見た。それにつられて嶋野もこちらを見た。桐生を囲んでいた嶋野組の組員の視線がこちらに集中する。
「死にてぇやつだけ…かかってこい。」
そう吐き捨てるように言って、一歩進む。じりっと後退する嶋野組の組員。退くな!と言う怒声に、一斉に殴りかかってくる。手前にきた奴の腕を掴み、顔面に一撃を入れる。振り返りざま、横から殴りかかってきた奴の腹に突きを入れる。もんどりうって倒れた、その利き手の甲に踵を落とした。
自棄八気味に殴り掛かってくる男の腹に拳を突き入れ、車に激突した頭に追い打ちをかける。一人では不味いと思った嶋野組の組員たちが桐生のほうからこちらに標的を変える。子分たちも応戦する。乱闘のなか、
「風間の…鬼柏。」
と呻き声の中に、懐かしい呼び名を聞いた。
風間組、嶋野組の起きている人間も少なくなった頃。風間を近江の寺田に任せ、後は桐生と話をつけるだろう、と撤収を開始した。血のついた手で、髪の毛をかきあげた。半分ほどオールバックのようになったそれに、風間が笑う。腕が折れている気がする。それをかばうようにして、
「サツが来る前に撤収させます。」
と言うと、風間が、唇を片方あげながら、ああ、と頷いた。伸びている子分をトラックの荷台に運び込む。桐生はまだ嶋野やその取り巻きとやりあっているようだったが、嶋野が膝をつく機会が増えていた。
(頃合いだろう。)
真島がいない戦場に用はない。子分に撤収の号令をかける。子分が、いいんですか?と聞く。
「親父は、寺田さんや近江のやつらに守られている。大丈夫だ。」
そう言い切った。俺の役目はこれで終わり、というように、子分を集めトラックの用意をする。薬莢を拾ってからと指示を出そうとしたが、幸い拳銃が使用された形跡はなかった。他に指紋つきの獲物が残っていないか、など周りを見渡す余裕もあった。いやに冷静だった。怪我をかばいつつも、トラックに乗り込むのを躊躇する若いのを急かす。
「ほら、急げ。」
でも、と言い募る若衆に、
「ぐずぐずしていて捕まりたいのか?」
と聞く。いいえ、と首を振るのに、まぁそんなもんだろう、と笑う。
「命あっての物種…だが、若いうちは娑婆の自由がなけりゃな。」
普段風間のボディガードをしていた子分たちだけを残し、寺田たち近江の人間に頭を下げた。それに、寺田も、後は任せろとばかりに頷く。風間は、こちらを見送るかとおもいきや、視線もくれず、あいつは強いな、と桐生の戦いぶりを見て笑っていた。
「……。」
それに目礼して車に乗り込む。皆乗ったか、と助手席の男に確認をとり、発車させる。埠頭が遠ざかる。少しして爆音が響いた気がしたが、自分には関係ない、とそちらは振り返らなかった。
子分を解散させた後、トラックを目立たぬところに隠し、事務所に帰ってきた。その夜。未明に、風間新太郎が病院にて死亡が確認されたと連絡があった。そうか、と言って携帯をきる。街はけたたましいサイレンの音が響いている。爆音のようなヘリの音。早朝のニュースだが、神室町の現場中継が流れていた。ミレニアムタワーから煙があがっていた。
「…………。」
詰めていた子分たちも眠る、薄暗い事務所。音を消したテレビ画面の残像だけがチラチラと光る。煙草をつける。窓から青い光が差し込んでいる。もう夜明けだ。
「ふっ…。」
笑みともつかぬ溜息を吐く。今日も騒がしくなるだろう。少し眠らねぇと、頭の半分ではそう思っているが、半分は妙な浮遊感に苛まれていた。このまま、走り出したい。この気持ちの赴くまま、この寒空の下を駆けたかった。
(思い出した。)
温室育ち、とこちらを揶揄したのは世良だった。ちょうど会長になる前の世良に、桐生もお前も温室育ちだな、と笑われたことがある。皮肉にしても意味がとれず、曖昧に聞き流していたが、そういうことだったのだ。
(確かに、温室だったんだろう。風間新太郎の庭のなかに、自分たちはずっと居たのだから。)
高い空、そこには強固なガラス天井があった。その中で生きることに不自由を感じていなかったが、いつしかもう、この天井の上に昇る術はないのだ、と諦めていた。今、そのガラス天井が割れたのだ。自分たちを囲っていた温室はなくなったのだ。自分は、上を目指せる。自由に、見上げたところまで。たとえそこに、凍えるような空があったとしても。
「………。」
ひんやりと冷気が感じられる、その窓の横にもたれる。少し窓を開けた。ふっと吐いた息とともに青い煙が、窓の外に、一本の糸のように流れ出ていった。
(蜘蛛の糸…。)
思い出したように携帯電話を取り出した。何度もひとつの番号にコールする。繰り返しくりかえし、狂ったようにその番号にかけ続けた。
ミレニアムタワーから金が降り注いだ日。自分は、割れたガラス片がキラキラと降り注いでいる空間にいる幻想を見た。ガラス片の散るそのなかで、ただ一人の名前を叫ぶように呼んでいた。
***
生ぬるい水滴に打たれていた。ボイラーの熱、湿気で口の周りが汗ばむ。ぬめるのは汗か水か、それとも、己の血だろうか。
「…………。」
息ができない。ひっと喉が鳴る。背を向けた桐生が瓦礫を登っていく。
(これでええ…。)
湯気のむこうにある出口の光に人影が吸い込まれていく様子を見て、そう呟いた。ぴちゃぴちゃと生ぬるい湯が上からふってくる。いつしか、体が冷えていく。手も動かせない。ボイラー室。妙なところで死ぬもんや、と思った。
桐生は強かった、やはり堂島の龍だった。龍は神様の一種で、普段はずっと眠っていて、目覚めるべきときにしか目覚めないのだ、とどこかで聞いたことがある。本当に、その背中に背負うものの通りで笑ってしまう。自分の背のそれは、怒り苦しむ女だ。彫り物をする時に、そう聞いたから背中に入れた。自分のなかの、どうにも女々しい部分を昇華し鬼にならなければならない。極道になると決めた時に、そう決意したのだ。
(そうなれたやろうか…これで、男らしく死ねるんやろうか。)
蒸気の漏れる音がする。身体半分が生ぬるい水に浸かっている。
「…っ…。」
湿気の高い空気をうまく吸えず咳き込む、その反動でげほっと血を吐いた。
(これはあかんかもしれん…。)
もう、手も腕も動かせない。生ぬるい水が体温を奪っていく。タバコを吸いたいな、と思った。瞬きをする。水蒸気が睫毛につき、目が痛かった。なんとか顔を動かした。すっと視界に、小さな黒点が入ってくる。
「…?」
糸は見えないが、それは壊れた天井から降りてきた小さな家蜘蛛だった。
(お前ん家、壊してもうたわ。)
ふふっと笑う。これじゃ感謝されるどころか、文句を言われるようだ。
(蜘蛛の糸、欲深すぎて千切れてしもたな…。)
瞬きする。その黒点をよく見ようと目をこらしたが、気づくとそこに蜘蛛はいなかった。ひしゃげた配管から霧のように水がしたたっている。生ぬるいような冷たいような水が、降り注ぐ。身体が芯から冷えてきているのがわかる。
(最期に…あんたに、会いたかった。)
サイレンの音がする。報道のヘリだろうか、壁を揺るがすような爆音が響いている。眩暈のような浮遊感。魂が体から出るときはこういう感覚だろうか、と思いながら、目をつぶった。
蝶になっていた。アゲハ蝶のように、大きな羽に綺麗な模様のある蝶だ。
ずっとあこがれていた美しい花園。頑丈にできていて入れなかった、その温室のガラス戸が割れていた。
真ん中に立つ大きな蜜柑の木、そこに降り立つ。いい香りがする。
ここに住んでいいか、と聞いたら、いいよ、と言われた。ようやく、自分の羽の休ませられる棲み処を見つけた気がした。
人の気配がする、と目をあけると、そこは病室だった。窓の外が明るい。昼間なのかどうだろうか、と時計を見ようとしたが身体が思うように動かず起き上がれない。腕にはいろいろな管がついているが、なんとか指を動かすことはできた。時計を指さそうと手を動かすと、隣で、ああっ、と叫び声が聞こえた。
(なんや、うるさいな。)
そちらの方向を向くと、西田が、目をあけた、親父ぃあぁぁよかったぁぁあと泣いている。親父!おやじ目ざめたんで?親父?!と外でも、数人の声がした。また、よかったあ-ーーっと西田の声が鼓膜に響いた。
「なんや、みんなおるんか…?」
「いますっ、いますよぉ…っ!」
「うるさい、言うてこい…。」
西田が、はっ、と頷き、我先に病室に入ろうとする子分をその腕で止めた。こらっうるさいぞ!と泣き声のまま怒鳴る、その声がまた頭にびーんと響いた。
(そっか…生きとる、か…。)
西田の兄貴だけずるいっ!おやじ!俺です!うるさい!だまれ!と戸口で髭面とスキンヘッドがわちゃわちゃとしている。それを横目で見て、ふっと笑った。
(案外、愛されとるな。)
無償の愛は、もしかしたら、こういうものかもしれない。親から与えて貰えるものだと思っていたけれど、もしかしたら、本当の無償の愛は、子が親を見つめる視線の中にあるのかもしれない。
「親父、生きてるんですか?!」
「西田の兄貴!どうなんすか!!?」
「だからうるさいって…っ、親父がいってるだろっ!」
親父が?!言ってる?!ああ生きてるーーっ!!と怒号のような泣き声が部屋の外から聞こえた。くっ、と笑う。
「…ふっ。」
誰の一番じゃなくてもいいかもしれない、と思う。こうやって、少しづつでも思ってくれる人間がいるのなら、もう少しこの街で生きてみようか、と思えてくる。不器用な子分たちが可愛く思えて、何か声をかけてやろうかと思ったが、こほっ、と咳込んでしまい、あまりの痛みに腹を抑えた。
「…ぅッ!」
思わず呻いてしまうのに、あぁっ親父っ、と一喜一憂する子分たち。情けない姿を見せたにも関わらず、子分たちは、生きてる!いきてる!と大喜びし、親父はまだ病み上がりなんだ!退け!お前たち事務所に帰れ!!と西田がそれを叱咤する。
「親父、医者の先生よんできます!」
西田が、騒ぐ子分たちを部屋から追い出して、そう言った。何かあれば、そこのナースコールを!と言い残し、扉を閉め、部屋を出てゆく。部屋は静まったが、まだ外には屈強な男たちの気配がある気がした。
(ほんま、アホなやっちゃのぅ。)
人のことを言える身分ではないが。そう思いながら、なんとか寝返りをうつ。身体はひたすら重い。気を抜けば瞼が落ちてきそうだ。だが、どうにも憑き物が落ちたように、心が軽かった。横のテーブルに乗った携帯電話の着信ランプが光っているのが見えて、それに手を伸ばした。充電されていたそれをなんとか手に取り、開く。画面の日付を見て、驚いた。
(丸二日も寝とったんか。)
電話もメールもたくさんきているかと思いきや、入っていたのは、西田からのメールと、嶋野組事務所からの着信。そして、その間に何度も繰り返し着信があったのは、ひとつの携帯電話の番号だった。
【木】
と登録していたそれ。事件の最中で、相手が誰かわからないよう、自分でそう登録したのに、木、という文字が着信履歴を一画面埋めていて、思わず笑ってしまった。
(蜘蛛の糸。)
一時間ほど前にも入っていた着信。笑うたびにズキズキと痛む腹を抑えてリダイヤルを押す。確信があった。2コールもしないうちに相手に繋がり、ニヤっと笑った。
「あ…もしもし、柏木さん? あたし、ゴロ美!」
お店、いつきてくれる?と聞いたら、受話器越しに、お前なぁっ!と叱られた。続けて本気の説教が飛んでくる、その勢いに笑ったら、腹の傷だけでなく全身がとても痛かった。涙が滲む。
「いやぁ、ほんま…痛みさえ幸せやわぁ。」
その言葉に、ふざけたこと言ってんじゃねぇ!と返ってきた。それに自然と口角があがる。
「でも、生きとる、やろ?」
『ああ、なんとかな。』
その声が同じように震えていて、今すぐ飛んでいって抱きしめたいほどに、愛おしく思った。
+ + +
シャインで、いつもの衣装に着替えた。あの人が、なんだその口紅…と嫌がる顔をしたから、真っ赤なそれはお気に召さないのかと、今日は少し薄めのルージュに色を変えてみた。紫のラメが入ったアイシャドウを片方だけ瞼にのせ、出来上がり。
「今日も完璧!」
そう、鏡ににっこりと微笑みかける。機嫌がいいのが声に出たのか、片づけをしていた店長が聞いてくる。
「四代目、待ってるんですか?」
今日は神室町に来られるんですか?と聞かれるのに、
「ちゃう。それより上客や。」
といなす。桐生さんより?と店長が首をかしげる。せやせや、とおざなりに返事して、メイク道具をポーチに仕舞う。あの事件の顛末は、神室町の界隈隅々まで、面白おかしな噂込みで拡散されていた。桐生が東城会四代目になり、一日でそれを辞したことも勿論伝わっている。
「親父、準備はお済で?」
「来たか?」
こられました、と子分が扉を開けて頭を下げる。それに近づき、
「親父とちゃうやろ、社長や!」
と一発しばいてやった。へいっ、ありがとうございます、と着慣れぬスーツに無理やり身を包んだ子分が、嬉しそうに頷いた。
「よっしゃ皆、社員一同で盛大に出迎えるで~。」
真島組、改め真島建設の社員を廊下の両端に並ばせ、扉を開ける。観音開きになった向こうから、夜のネオンを背負った人物へ、皆で大げさに頭を下げる。
「いらっしゃいませ、筆頭株主、かっこ仮ぃ様、シャインにようこそ~!」
こちらの声に続き、いらっしゃいませーーっと低い声が轟音のように廊下に響き渡った。
「おいおい、こんなことしてもらっちゃ困るんだがな…。」
そう、嫌な顔を隠さず入ってきた男は、現東城会最大勢力を誇る風間組組長。東城会若頭代行、そして真島建設のパトロンになった柏木が、照れ隠しの苦虫を十匹ほど噛みつぶしたような顔で言ったのだった。
END