四月二十一日珍しく朝から自主的に起きた真島が、リビングで電話をしている。午前中に外せないリモートの会議などある時は、こちらに一言声をかける、というより、前日から予め、起きんかったら叩きおこしてくれ!頼むで!と常に言うほど朝が弱い真島だ。何やら緊急の用かと思い、音をたてないように、一旦皿洗いを中止した。
「…ほんで、兄弟の様子はどうや?」
次いで、そうかぁ、と少し案じるような低い声で真島は相槌を打った。
(冴島になにかあったのか?)
ふと時計を見、まだ九時前か、と思ったその時、視界の端にカレンダーが目に入った。互いの予定が色々と書きつけてあるそこに目を凝らす。今日は、四月二十一日、金曜日。そこに予定のメモ書きはなかった。これは仕事で何かトラブルがあったのだろうな、と思った瞬間、重要な事実を思い出した。
「あ…。」
思わず声がでた。過去、真島が荒れにあれていた日。贖罪の日だった。真島が自分にこのことを話したことは一度もない。けれども、おそらくこの日が、義兄弟を失い、彼が瞳を失った日なのだろうとは、長年の付き合いで分かっていた。
彼の義兄弟である冴島も、思うことがある日なのかもしれない。真島は、ふぅん、そうかぁ、と電話口で神妙に頷いてやっている。彼が娑婆に帰ってきてから、毎年こうやって、互いに何かを補ってきたのかもしれない。時をかけて、自分の知りえなかった親友との時間を取り戻しているのかもしれない。
(こればかりは、何もしてやれない。)
現役時代、ずっとそう思っていた。この日の前後、鬱々とした真島の傍にいてやることしかできなかった、やるせない気持ちが久しぶりに蘇ってきた。立ち聞きしていたことがバレては不味い、と台所に戻る。
こちらが冷蔵庫の整理をしていると、真島は、そうか、わかった、と真面目そうな声で頷いてから、
「ほな、もしどうしてもあかんようやったら、俺がそっち行くから。頼んだで、馬場ちゃん!」
最後はそう少し大きめの声で言って電話を切った。
「…………。」
昼から買い物に行こう、と冷蔵庫の品物をチェックしていると、真島が、なぁ、と声をかけてきた。冷蔵庫の扉を閉め、振り返る。
「どうした?」
真島は、スマホを片手に食卓の椅子に座る。
「なぁ、俺が寝込んだ時に作ってくれた、甘いとろっとしたやつ、あれなに?」
「甘いとろっとしたやつ?」
「せや、喉痛いいうて熱だしたときに…。」
そういいながら、真島は、調べてもでてこんのぅ、とスマホをフリックしながら聞く。
「片栗粉のか?」
「おう、それや! たぶんそれや! レシピ、なに?」
真島はそう顔をあげて言った。
「今作るのか? 喉、痛いのか?」
いや、俺とちゃうねん、と真島は答える。
「なんか冴島が喉が腫れたとかで、声もでんようになってるんやと。」
「ほんとか。風邪でか?」
「いや、わからん。コロナやない、言われたいうとったけど。」
「じゃあ、アレルギーかな。今年の花粉はすごかったから…。」
「やっぱりなぁ! せやろおもてん。あいつ、なんもない、気のせいやろってずっと言うとったけど、今年はずっと鼻ぐすぐすいわせとってん!」
俺のこと馬鹿にでけへんで!なぁ!と真島は、大きなリアクションで言ってみせた。
「花粉とかアレルギーは蓄積で症状がでるからなぁ。」
「せやろ、娑婆にでてからこっちの空気、十数年花粉かぶってみぃ! 絶対花粉症なるて! 貧弱な、とか、お前とちゃうねん、とかかっこつけとったけど、ぜったいそうや!」
ほんま今からでも花粉症や!いうておくったろ、とスマホに何かを入力しだす。
「今の電話、その…。」
娑婆にでてから、という言葉に、ついそう言ってしまった。今日のことなのか、などとは聞けなかった。うっかり口を開いてから、続きを言えなくて、言葉につまっていると、真島が、ん?と顔をあげた。
「ああ、馬場って子でな。冴島の秘書いうんか? まぁ若衆や、身の回りの世話やってくれとる若い子やねん。今日、現場あるけど、微熱やからて行くっていうてきかんから、どうしましょう、ってな。寝とけ!と。布団にしばりつけとけや、いうたってん。」
「そうなのか。まぁ、お前も熱だしながらよく街歩いてたけどな。」
「若い時とちゃうねんで、もう。アラカンやぞ。」
あいつ、俺よりちょっと下やけど、それでももう今年58や、と真島は言う。
「まだ体は動くから若いと思うんだろう。」
「あいつ、花粉症のつらさわかってへんねやで。せやからそんな事言えるんや。」
薬も飲めいうても飲めへんし、あれは切ったはったの痛みや何やとちゃうんやぞ、と長年それで苦しんでいる真島は、そうぶちぶちと言いながら、スマホになにか入力している。覗き見する気はなかったが、テーブルに近づくと、真島のスマホの画面が見えた。冴島、となった吹きだしに、『馬場が泣きそうなっとる、何いうたんや』ときていた。それに『そんなことより医者いけや』と返信してやっていて面白かった。
「え、ほんで、あの甘いとろっとしたやつなんやっけ。」
「ああ、レシピな。といっても、片栗粉と砂糖と生姜くらいだが…。」
「そうなんか。それ送ってわかるか?」
「冴島にか?」
「いや、馬場ちゃんや。意地はって薬も飲まんやつやから、それに睡眠薬でも混ぜて食わせろ!て送ったろおもて。」
あれやったら、少々混ぜモンしても薬の味もわからんのとちゃうか、とかなり真面目な顔をして言うのに、おもわず吹き出してしまう。子供が薬を嫌がった時に言うセリフだ。
「いや、わかるだろ。」
さすがに、というと、真島は、せやけどなぁ、と困った顔をした。
「あれやで、冴島て、桐生チャンに似てるいうたらわかるか? こう、真向からいったら、そんなもんいらん、言いよるけど、なんもしらんとこでやったら、すっと素直に聞くやつやねん。」
「そうなのか。」
「せや。混ぜた薬の味なんて、してもせんでもかまわんのや。とにかく、そんだけ心配してるから、これ作ったんです、飲んでくれませんか、っていうのがええねん。例えくそ不味いもんでも、そうか、いうて飲みよる。それが年下のやつやったら効果抜群や。」
んなもん、俺がつくっても、いらん言いよるで、作らんけど、と言われ、その光景が思わずかつての弟分たちの遣り取りと面影が重なって苦笑する。確かに、桐生もよく若いの奴には慕われていた。桐生も錦山に何か言われても、素直に聞かなかったが、年下のシンジなどに同じこと言われると、そうか、と物分かりよさそうに頷いてみたりした。それにいつも錦山が、なんでだよ!と憤っていた。遠い、昔の記憶だ。
「それは、兄弟だから意地はってるだけじゃないのか。」
「今日だから意地はってる? 今日ってなんや、ん?」
こちらの言葉を聞き間違ったのか、スマホから顔をあげて、真島はカレンダーを見る。
「今日何日や?」
「…二十一日。」
「金曜?」
なんやっけ、と本当に分からなさそうに、真島は首をかしげた。
(もしかして、今日じゃなかったのか。)
自分が、今日だと思っていただけで、もしかしたら真島の贖罪の日は他の日なのかもしれない。毎年、真島の鬱屈が爆発する日がたまたま今日らへんであった為に、こちらが勘違いしていたのかもしれなかった。妙な話題になる前に、慌てて言い直す。
「きょうだい、だから、だよ。兄弟だから、余計意地はってんじゃねぇかとな。」
「ああ、兄弟か。まぁそれはあるんとちゃうか。」
片栗粉と、砂糖と、生姜と、ほんでそれどないするねん、と聞かれ、まず片栗粉と砂糖を混ぜてな…とレシピを教える。真島はそれを丁寧に入力し、馬場という子に送ったようだった。
「よっしゃ。送った。これでええやろ。」
「本当に、いいのか? お前が向こうにいってやらなくて。」
「ええ、ええ。向こうにおんのは冴島だけやないからな。若いのもようけおるから、そろそろ現場まるごと任せりゃええねや。」
「そっか。」
「そうそう。まぁ、あいつは楽しんでやっとる、っちゅうのもあるんやけどな。」
「ん?」
「若いのに囲まれてな。組長やなくなっても、やっぱりああいうのがやりたかったんやろ、と思うねん。」
冴島んとこには、さっきの馬場っちゅう子も含めて若くて生きのええのがようけおるから、その成長も楽しみなんやろ、と真島は言う。
「それに…。」
真島がスマホを置いて、煙草の箱に手をのばした。一本とりだし、顔をあげ、カレンダー、そしてこちらの顔を交互に見て、にんまり笑ってから、火をつけた。
「…なんだ。」
意味ありげな表情だが、こちらは意味がわからず、素直にそう聞く。少し不貞腐れた言い方になってしまったのが情けない。真島は、ふぅっと煙を吐いてから、いや、いや、と煙を手で消すようにして笑ってみせた。
「いや、今日な。今日や。」
「何?」
「あんたが覚えてて、俺が忘れるってなんやねん、って。」
くくっと笑いを堪えられないように、喉で笑ってから、真島は言った。
「いや、もうほんま忘れてた。人間、忘れるもんやねんなぁ、と。自分でもびっくりするで。」
あんなけ色々あった日なんにな…そう少し遠い目をしてみせた真島。
(やはり、今日なのか。)
食卓の椅子、そこに自分も腰掛ける。真島と向かい合い、そこに置かれた煙草に手をのばした。
昔から同じ銘柄を吸っている。ここにも一つ、リビングにも一つ、寝室にも一つ。ハイライトが置かれている。火をつけ、すっと息を吸った。変わらないラムの香り。
「もう何年前や…三十…四十? いや、四十年にはなってへんか。俺、二十歳の時やもんな。せやけど、もう遠い話やで。」
「今日…なのか。」
「せや。言うてなかったっけ?」
「ああ。」
ほんまか、と真島は驚いたように目を見開き、そして、笑った。
「ははっ、ほんまか、それやのに知ってたん。あんた、そういうとこあるよなぁ。」
「まぁ…薄々は知っていた。」
「そっか…。」
真島がそう相槌をうち、柔らかく微笑んだ。
「四月二十一日。冴島と約束してた。礼服でその日はでかけた。なんや、えらい曇ってた気がするな…傘いるか、そんな今から人殺しにいくのに、傘なんていらんか、って妙なことおもてたわ。」
「………。」
「最後に嶋野の親父に挨拶してから行こうおもて、事務所に向かってたら、親父は今、柴田っちゅうやつと、会合や言わた。用事あるなら、そっち行ってこい、言われてな。そうか、子がひとり死ににいくのに、そないなもんか、と。まぁチンピラの命なんぞそんなもんか、と思いながら現場にいこおもたら、ちょうど柴田んとこに行くいうやつがおってん。車のっけってったる、いわれて。そうか、ほんなら…と。親父になんて挨拶するか、っておもて緊張しながら乗っとったら、車はどんどん見たことないとこに走っていきよる。で、着いたところは工場地帯みたいなとこやった。倉庫かな、そこに柴田がおった。」
「柴田? しばた…? 柴田組の柴田和夫か?」
「せや。長いことあったやろ、堂島組のなかに。組長も小さいやつや。そいつや。そいつに邪魔されて、その場に行けんかった。」
「邪魔? もしかして、お前…その時に…。」
窪んだ眼を押さえ、真島は、うん、と頷いてみせた。
「…っ!」
怒りに総毛だった。思わず煙草を灰皿に押しつけていた。それを見た真島が、ふふ、と笑う。
「笑いごとじゃねぇ。」
「あんた、その殺気。ものすごいのぅ。今まで見た中で、一二を争うほど怖い顔しとったで。」
「ほんとに…お前、笑いごとじゃねぇよ。」
「言うたらよかったか? いや、あかんな、殺しにいっとるやろ。」
いってるだろうな、と思う。今でも許せなかった。
「せやけど、柴田はその時、堂島組長から直接止めるよう言われた、いいよってん。」
「堂島が止める?」
「せや。俺に現場にいかんように、って。襲撃自体仕組まれたことや、いうんや。嶋野の親父にも迷惑かかるて脅しよる。それでも俺は行く言うやんか。まぁ当たり前よな。」
拳銃を預けた冴島はもう現場にむかっていて、刻一刻と約束の時間は近づいている。けれども、周りには柴田組の組員が自分を取り囲んでいた。
「大暴れしたったわ。けど、ほんま…たぶんあれ組騒動員やったんちゃうかな、どんだけちぎって投げってしたっても、わらわら沸いてきよんねん。…で、ついに俺も捕まってもうてな。まぁそれでも暴れて噛みつくから、こう…。」
といって、目に何かを刺されたようなジェスチャーをしてみせた。
「次に、気づいたら穴倉やったわ。」
そっからはあんたの知るとおりや、と言って真島は煙草を灰皿に置いた。こちらは、思ってもみない告白に、血が逆流しそうだった。柴田とは本部で何度か会ったことがある。東城会の直系に昇格した時も、何もないような顔をしていた。気づきもしなかった。本部の行事で、真島と柴田が同じ会場にいたことも当然ある。その時、真島は何をおもっていたのか。
(わかって…やれなかった。)
動悸が激しい。それを鎮めるように、テーブルの上にあった拳を握った。爪まで白くなったそれに、真島が、そっと手を重ねた。
「あいつ殺して終わりやったら、俺がそうしてた。」
「だが…!」
ううん、と真島は首を振った。
「覚えとるのは、その柴田のセリフだけやねん。俺も動揺してたから聞き間違うたのかもしれん、と思った。せやから、柴田が堂島の名前騙ってんのかとも思ったが、穴倉で親父は言うたんや。親の命令は絶対やのに、俺が失敗した的なことをな。確実に、親父はなんか知っておるようやった。親父が柴田とつるんで何かしようとしたんか…それとも、親父が思い描いたことを、俺があの場にいかんことで計画がポシャったのかもしれん。なんか、あとから考えたらそうみたいやったけど…その時は、何がどう失敗したのかも分からんかった。俺が地上に戻ってこれた頃には、なにもかも、消されとった。その日に、俺を柴田んとこ連れていった嶋野組の兄貴分も…俺の目、こないした柴田組の奴もな。」
「それは、嶋野の叔父貴から聞いたのか?」
「いや。最後まで、あの人はなんも言うてくれへんかったから、実際のところは今でも分からん。」
真島が、痛むような表情をしてみせた。
「せやから、柴田を生かせといてな、なにか尻尾だしたらとおもとったんやが、だまーったまま何もせん。親父が死んで、俺が直系にあがってから本部で俺に会うにも、初めまして、みたいな顔しとった。きっとあいつは雑魚やったんや。きっと…何も知らんで、俺をあの場に行かせん、っちゅう役目負ってただけなんや。」
「そうだったのか…。」
「せや。ほんま、あの事件の真相はきっと、親父か…その上の堂島かしか知らんかったんちゃうか。」
けど、と真島はこちらの手を上から、とんとん、と叩いて、姿勢を正してみせた。
「なんか、そういうのもな、途中でどうでもようなってん。」
「どうでも、とは…。」
「俺がしっかりしとったら、ああはならんかった。けど、逆に、すっとあの場にいけてたら…あんたとは、こうはなれてへん。」
「真島…。」
ニッと薄い唇の端をもちあげてみせて、真島は言葉を紡ぐ。
「行かれへんほうがよかった、なんて、絶対口にはだせんやろ。」
誰にも言うたあかんで、というような顔をして、ちらり、とこちらの目を見た真島。彼の背負う十字架は、自分だけが生き長られた罪だと思っていた。けれども、徐々にその意識は変わっていっていたのかもしれない。自分だけが幸せになったことを世間に隠し続ける、そのジレンマに対する罪悪感なのかもしれなかった。
「四月二十一日。来るたびに、あの日が運命の分かれ道やったんやな、と思ってた。最初は、なんで、なんで俺が、ってずっとおもとった。考えてもわからんかったけど…な。でも、これでよかったのかもしれん、って思った瞬間があってん。けど、わかった答えがあまりに下種すぎてな。そんな都合のええこと思える自分が嫌やった。」
「………。」
「この日の前後になったら、あんたは必ず俺の傍にいてくれた。どんな記念日より、どんな日より…俺とのこと優先して……。」
真島は、ふと、目を潤ませてから、ふるふると首を振った。
「すまんな、朝からこんな辛気臭い話して!」
「いや、いいんだ。」
聞けて嬉しかった、とは言えなかった。誰かの犠牲の上に、成り立っている幸せなのだと改めて思う。だからこそ、大きな声で、幸せだとは言えない。ここに互いがあるのは、世を忍んで会っていた、あの夜の続きなんだ、と改めて自覚する。
真島が、灰皿でくすぶっていた煙草をもう一度しっかり押して消してから立ち上がった。
「さ、今日はホームセンター行くんやろ。着替えななー。」
「おう。俺も皿洗いの続きしねぇと。」
こちらも、椅子より立ちあがる。キッチンの横、東向きの窓から差し込む。水場に反射する朝日が眩しかった。
一時間後、ホームセンターにて。大きな籠に、あれやこれやと植物の手入れ道具を入れていた時、真島が、ちょいちょい、とこちらに手招きしてスマホを見せた。
「薬飲んだ、て!」
「その言いよう、子供じゃねぇんだから。」
画面には、馬場という吹き出しから出た『薬飲んでくださいました、ありがとうございました。レシピ教えてくださったかたにも、お礼をいっておいてください。』といった文面があった。それを得意げに見せられて笑う。
「よかったな。」
「おう、よかったよかった!」
そう言いながら、スマホをジャケットに仕舞い、真島は再び、道具を物色するためにそこにしゃがんだ。これまいたら、プランターの野菜ももっと大きなるんちゃう?と言いながら、活力剤を色々手に効能を見比べている。
「…………。」
かつて狂犬と言われた男の、そんな姿を見て、ふっと笑う。自分が引退しても、真島が仕事をしている間は、どこかであの世界とゆるく繋がっている。
(こんな予定はなかったんだがな…。)
当時思い描けなかった未来は、思いがけないほど輝いた、幸せなものだったらしい。
おわり