忘れないで「えっと……一郎くん、で良いんだよな」
その言葉を、その言葉を聞いた瞬間息ができなくなった。簓さんから聞いていた。聞いていたのに。
「悪い間違ってたか?」
簓さんに呼ばれたマンションの一室。親父がいると聞かされていた。記憶を失った——いや、記憶を失ったというより、認知症に近い症状を持った親父がいると。
ある程度覚悟はしていた。顔も名前も何もかも忘れられている。そう覚悟して来た。
「……一郎で合ってます」
それでも名前を確かめられたという事実に混乱した。絶望したのかもしれない。
「山田一郎、です」
「良かった。俺は天谷奴零だ……って俺は自己紹介しなくても良いんだったか」
〝山田零〟ではなく〝天谷奴零〟
記憶を失う前も天谷奴零と名乗っていた。でもそれは意図的なものだ。今は違う。〝山田零〟を忘れ自分を〝天谷奴零〟だと認識している。
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